13:1 - 降り注ぐ雨の下にて
メカニカルグリップ(mechanical grip)
:車体の形状やサスペンションなど、車体機構の構造により生み出される地面をとらえて保持する性能(つまりグリップ性能)のこと。これは車体がもともと持っている路面を捉える力を指し、走行中の気流の流れ(空力・エアロ)で車体を下に押し付けるダウンフォースとは区別される。
手段としては突拍子も無さすぎて、まさか堂々と空から仕掛けてくると思わなかったのがあんな目立つものに今まで気づけなかった原因だろうか。
俺の目に映ったのは、赤褐色に染まった火星の空に浮かんでいる『黒い“モヤ”』だった。もはや小さめの黒雲にも見える。それこそ、これから雨でも降らせそうなくらいの、明らかに不穏な。
仮にこれが雲だったとして、何度も述べているようにテラフォーミングが一切進んでいない人類未踏領域でこんな不自然に雲が湧くワケがない。それにわざわざ“モヤ”と表現したのにも意味があった。
明らかに、雲と言い切ってしまうには“薄い”。
地球でも見慣れた雨雲と比べても、あの大量の水蒸気が集まったモコモコ感とでもいうのか、それが圧倒的に足りなかった。例えるなら線香の煙か? しかしそれでいて、黒い薄布が自分で意思を持って空を飛んでるみたいに風に吹かれるまま流されるでもなく、宙の一点に留まり続けている。それだけでも眼前の光景は異様だ。でも、どんだけ違和感があろうとそれは実際にあった。
と、ここでケンゴが雨雲の持つ違和感の『正体』に気がつく。
「……おい! お前らよく見ろ、あれ雲じゃねェ! 鳥とか虫とかみたいな、小っせぇ“何か”が大量に飛んで来てんだ‼︎ それがカタマリになってこっちに向かって来やがる!」
そうか。思い出した。ちょうど地球で、あんな感じの大群になって飛び回る小鳥だかコウモリだかの群れの映像を見たことがある。小さな一点一点が集まって動くことで、遠目から見るとまるで生きた煙みたいに見えるアレだ。しかし、なら何でこんな不毛の地の砂埃しかない空にそんなものが飛んでる?
その答えは割とすぐに分かった。飛んでいた“実物”が俺たちめがけ、先陣切って落ちて来たからだ。
それは一つ一つが機械で作られた三センチほどの蜘蛛型のロボットだった。傘の代わりに広げた俺のジャケットの上に雨粒が落ちるみたいに、落ちて来た一機が革に当たって跳ねる。……雲じゃなくて蜘蛛、って親父ギャグかなんかか? しょーもな。
そのまま地面に落ちた蜘蛛ロボットには尻尾みたいに糸の切れ端みたいなのがついているのが見えた。なるほど、この糸の先にパラシュートか何かが付いてんなら確かに黒雲にも見えるだろう。動力やらは分からないが世の中にはパラグライダーなんてのもある。
それにこの荒野にこの小ささ、空中でそれなりの力を貰って飛べもするハズだ。いや、そんなことよりも先に気にすることがある。あの雲を形作ってるのが全てこの機械だとするなら……。
ぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼとっ
間髪入れず、大量の蜘蛛ロボットの豪雨に俺たちは見舞われた。さらに始末が悪いことに、落ちて来たロボットはそれぞれが落下地点からゴソゴソと這い回る。向こうにいるマダム・バタフライのホステスたちから、薄い布なら引き裂けそうな甲高い悲鳴が次々に上がった。つーか、周りにいる男どもからも負けないくらいの音量の野太い悲鳴が響き渡ってるワケで。
『地面だ! こいつら地面に振り落としてから踏み潰せ‼︎』
あたりの狂乱っぷりにもめげず俺は拡声器越しにそう叫ぶ。でもそれが大騒ぎする周囲にどれくらい通じていたか疑問だ。そもそも、いくら小さかろうとこの物量のロボット群にそんな方法で対処しきれるハズがない。つーか俺が機械を踏み潰すガッシャガッシャという音ですら、這い回ってる無数の機械のとめどない足音に掻き消されていた。
そしてこれが、たかだか俺たちへの嫌がらせのためだけで使われてるハズがないのも当たり前だ。
向こうが仕掛けた小細工の正体はすぐ判明する。蜘蛛たちの発する“熱”だった。小さな機械の一匹一匹、その金属製の細い足一本一本が急速に温度を上げているのが肌越しにも分かる。現時点で、熱湯を注いで持てないマグカップくらいの温度には感じられた。
……マズい。このタイミングで、こんな程度の熱さで、ここに来て小細工が止まるとは思えない。そうでなくても全身をこの熱源の群れに取り付かれてるワケだ、やろうと思えばこっからもっとロクでもないことだって可能だろう。その先のことは考えないよう努力してはみたが、それでも今なお加速度的に温度を上げていく蜘蛛の脚がそれを許さない。
「っぐ、ぁああああぁ……‼︎⁉︎」
「クソっ! クソっっ‼︎ クっソっっ‼︎‼︎」
「何だこれェ‼︎ 何だよこれェ‼︎⁉︎」
すぐに周りのヤクザたちの絶叫に混じって、明らかに毛色の違う苦悶の声が混ざり始める。数秒でもはや耐え難いレベルの温度だった。もしこの高温が無かったとしても、ただでさえ“さざめく”なんて穏やかな言葉を使うにはあまりに不快感が強い状況だ。
それに悪いのはそれだけではない。野外のエリア・ニュクスでは必須の防塵マスクのおかげで口は防がれている。この感触に耐えかねてうっかり叫ぶと口内に蜘蛛たちが殺到するという恐怖とおぞましさを考えれば、まだ我慢せずに声を出せるというのは“この場にいない人間からすりゃ”幸運だとか思えるかもしれない。
「っく、かッ……っはッ、息がっ……」
だが実際はそうもいかなかった。理由はパニックと肺活量だ。考えてもみてくれ、こんな状況に陥って恐慌状態にでもなったら当然のように息は荒くなる、酸素を求めて肺がもがく。しかしここでマスクがそれを邪魔するワケだ。こうなると口元を覆うマスクのフィルター越しなんかでは酸素が足りない。でもここでマスクを投げ捨てる訳にもいかず、息苦しさの中でパニックは余計に深まっていく。で、それはつまり思考が鈍ってモノを今以上に考えられなくなっていくことを意味していた。
どっちにしたって、蜘蛛どもから発せられる温度は短時間でこれほど上がっている。なら行き着く先はそれこそ金属部品が白熱するまで、そして肌が無惨に焦げるまでいってもおかしくはない。明らかにさっきの呻きはそういう焦りや恐怖を内包していた。
俺はあまりの状況に口元がニヤけそうになる。ここにきて数の暴力で来られるとは思ってもみなかった。このレース(ってかサバイバル)、今までは何とか幸運続きで何とかなってきたが、いよいよ以って万事休——
と、結構な衝撃がいきなり脳天に直撃する。
全くもって唐突に、俺の頭頂部へとそれなりに重くてデカい石ころみたいな堅い何かがクリーンヒットした。




