episode.1
「——……おはよう」
「……、え?」
ある日、僕・檜山澄雨はここ陽明館大学付属高等学校で「9大プリンセス」と称される美しい9人姉妹のひとり、【氷姫】鳳凰氷華に声をかけられ、戸惑いの声を上げた。
……聞き間違い、だろうか?
心の中で考える。僕がそう考えるのには理由があった。
「9大プリンセス」はこの学校の生徒たちにとって雲の上の存在だ。姫ひとりひとりにファンクラブがあり、そのファンクラブに所属する人数は、7人(中等学校の2人いれずに)合わせて210人。この高校の生徒総数630人に対し、約3分の1という驚異的な人数を誇る。それほどに、彼女らはこの学校で特別な存在なのである。その中でも、【氷姫】鳳凰氷華は凍てつくようなクールさと美貌を誇り、ひそかに「氷の女王様」とまで呼ばれている孤高の姫だ。誰かと楽しく喋っている姿など誰も見たことがないし、いつもしゃんと背筋を伸ばし近づくなオーラ(非常に冷たく寒い)を醸し出している。だから、僕は聞き間違いと取ったのだ。
しかし。
「……? あの、檜山……くん。……おは、よう」
……これ絶対聞き間違いじゃないよね……? え、もう一回言ってきたよ? ねぇこの状況は何?
僕はそう心中パニック状態になりながら、引きつった笑顔で鳳凰さんを見返した。
「……おは、よう?」
最後に疑問符をつけてしまったが、まぁいいだろう。
一瞬自分じゃなく違う誰かに言ったのではないかという考えが頭をよぎったが、即座にその考えを振り払う。……だってさっき鳳凰さん確実に“檜山くん”って言ったんだもん。
「ふふんっ♪ ふんふふんっ♪」
「⁉」
…………。え? 今、鳳凰さん鼻歌うたってなかった……?
「……」
僕は、ぽかんと口を間抜けに開けて彼女を見送ることしか出来なかった。……鳳凰さんってそんなキャラだっけ……?
「以上で今日の授業を終了する。起立、礼」
「ありがとうございました」
途端、ざわざわと騒がしくなる教室。その間を縫って、僕の親友・白澤 弓璃という天使と見まがう儚げで中性的な美少年がやってきた。
「澄雨。一緒に帰、」
「キミ……檜山、くん?」
「、え?」
より一層騒がしくなる教室。そうなるのも無理はない。だって——「9大プリンセス」の9姉妹のひとりであり、高校2年特進A組【姉姫】鳳凰翔女先輩が、この教室をのぞいているのだから。
「あぁ、氷華」
「……姉さん……。あなたもなのね」
「ふふ。ええ、そうよ」
……あなた、も? いや、それよりも……ほうお……ややこしいな。翔女先輩と呼ばせてもらおう。翔女先輩、今……“檜山くん”と言わなかったか?
「あ、檜山くん」
「⁉」
「え、澄雨……姫たちと仲いい、の?」
「え、いや、そんなはずないはずなんだけどはず……」
「……大丈夫? 日本語やばいよ澄雨」
「うん、多分大丈夫なはずだよ心配しないはずだよ弓璃」
「……大丈夫じゃないよね……。……まぁそれはそっか、姫たちが突然話し掛けてきたらそうなるよね……」
どこか疲れたように弓璃がそう言う。いやだって、姫のうちふたりがさ……。
「——あれぇ? 翔ちゃぁん? 氷ちゃぁん?」
……次は【穏姫】かよ。
【穏姫】——鳳凰舞穏さんは、同じ学年の特進Bクラス。(うちのクラスは特進A)なのにもかかわらず、なぜこのクラスに? いや、違う学年から来た翔女先輩のほうがおかしいか。いや、ほうお……。氷華さんに会いにきた、のか? いや、違う。だって……舞穏さん以外僕の名前を言ってたもん。……どゆこと?
「檜山くぅん、こんにちはぁ~」
「ぅ、え? こん……にち、は?」
「ふふ~っ、檜山くん、こっち来てぇ?」
「え? え、なん、で……?」
怪訝そうに僕は首を傾げる。
「いいからぁ、こっち来、」
「マオ?」
「……う……なぁに~、翔ちゃぁん」
「だぁ~め。抜け駆けはだめだっていう約束だったでしょう?」
「うぅ~」
……抜け、駆け? さっきの舞穏さんの行動に、抜け駆け……?
「ねぇ、弓璃」
「……」
「この状況はなんなんだろうね?」
「……。澄雨。澄雨がわからないこと、僕に分かると思う?」
「……それは、そう」
「翔。氷。強。内。ひよ。マオ。言。りめ。……今日だったわね?」
『なっ⁉』
教室内にいたクラスメイト達がどよめくのが聞こえる。いや、僕もそのどよめきの声のなかにいた。いや、だって……9大プリンセスの9姉妹、その長女であり高校3年特進A組学年首席、スポーツ万能、生徒会長、神々しいほどの美女——【美姫】鳳凰美晨先輩が、いたんだもん。いや、その後に、【強姫】鳳凰強音さん、【内姫】鳳凰内葉さん、【光姫】鳳凰陽光さん、【本姫】鳳凰本言さん、【愛姫】鳳凰莉愛さんという9大プリンセスの9姉妹全員が揃い、壮観の眺めとなっていたからだ。……いや嘘でしょ? なんで全員揃ってるの? 本言さん、莉愛さんに至っては中学校でしょ……?
すると、突如9姉妹がこちらを向き一様に、ある者はただ美しく、ある者は安心させるように、ある者はクールに、ある者は強く、ある者はおどおどと、ある者は眩いほどに、ある者は穏やかにふんわりと、ある者はくいっと眼鏡を上げ、ある者は愛らしく、ふっと微笑った。
その美しさに、息を呑む。その眩さに、目を奪われる。その神々しさに、心を掴まれる。……あぁ、やっぱりこの9人は姫だ、と、僕は思った。
「檜山澄雨くん」
「……、は、い……」
うまく、言葉を発せなかった。それほど、僕は彼女たちが作り出した雰囲気に吞まれていた。
——しかし。その雰囲気は、張本人たちに壊された。
「私は、あなたのことが——好きよ」
「あ、シン姉さん抜け駆けしたわね……私もよ」
「……私も」
「アタシもだぞ」
「うっ、うううう……うちもっ、です……!」
「へへっ、ボクもだよーっ!」
「ふふ~、わたしもよぉ~」
「……こと、も、です」
「りめもだよぉっ♡」
『……はい?』
クラス全員の声が、重なった。……え? 今なんつった?
「ひっ、ひひひひ檜山さん……っ。とりあえずっ、うちたちについてきてください……っ」
おどおどと、内葉さんが言う。……う、そんな弱気でこられたら困る……。
「……。なんで、僕?」
「え? それはもちろん——」
『あなた(キミ)のことが好きだから』
……。
「病院行きます……?」
「おいおいおい! なんでてめぇ勝手にアタシらの頭おかしくなってるとか考えてんだ!」
「あら。心外だわ」
「いやだって……」
「……こと、は、ほんとに、すき、です」
「……」
「りめねぇ、檜山せんぱいのこととっても好きなんだよぉ?」
「うっ」
「うちっ、うち……っ、檜山さんのことっ、すき、なんです……! ……疑われたら、悲しい、です……」
「うぅっ」
「ボクもキミのこと好きだよ! 信じてくれると嬉しいなっ」
「ぐっ」
「わたしたちのこと疑うのぉ~? 檜山くん~」
「ぐぅっ」
「……檜山、くん。私たちは、本気よ」
「うぐぅっ」
ひとりひとりの鋭い言葉の刃にやられてうめく。
……いや、殺傷能力高くね?
「ちょっ、待って下さい、澄雨のことなんで好きなんですか? あなたたち」
「……! 弓璃様……神様っ……!」
「ちょ、大げさだよ澄雨」
弓璃様は、そんな僕の言葉に苦笑いを浮かべた。
そんな仕草にも、後光が差している。……弓璃神様……‼
殺傷能力の高かった刃に傷つけられた僕の体を癒してくれる親友。持つべきものは友よ……!
「それは……」
美晨先輩が、なぜか言葉を詰まらせる。その視線は、氷華さんがいた。
「……檜山、くん。いえ……澄雨、くん。“氷華”っていう名前、聞いたこと、ない?」
「っ、それは……何歳の、時?」
「え、えっ、と……6歳くらい、かな」
「……あぁ……」
ひとつ、嘆息する。……その年は、ちょうど。
僕は彼女の耳元に口を寄せ、囁いた。
「ごめん、僕——0歳から10歳までの記憶が、ないんだよ」
ぱっと弾かれたように氷華さんが離れる。その瞳は潤みながら揺れていて、あぁこれは泣かせてしまうかな、と他人事のように思った。
しかし、彼女はぐいっと僕の腕をつかんで、
「シン姉、姉さん、強、内、ひよ、マオ、言、りめ、来て! 早く!」
と姉妹を呼び、走り出した。
姉妹たちは一瞬顔を見合わせ、すぐに氷華さんの後をついて行った。
「——それで? どうしたの、突然走り出して」
美晨さんが、そう氷華さんに尋ねる。氷華さんはちらりと僕を見て、ふ、と息を吐いた。
「……檜山くん、ね。……0歳から10歳までの、こと……覚えてない、らしいの」
『……え?』