天使のヒロインは初恋覚醒中
「この鼓動の高鳴り……これは病気でしょうか?」
そう言って、彼女は本気で困った顔をしていた。
金色の髪が月明かりに照らされて、ふわりと揺れる。真っ白な翼が背にたたまれ、まるで神話のワンシーンのような光景だった。
場所は神殿の裏庭、夜の散歩の途中でばったり会った天使族の少女。その名は――
「ヒメリア・セラフィムと申します。……あなたが、成瀬ユウ様ですね?」
そのときの彼女の声は、天使というよりどこか研究者っぽかった。語彙が硬いし、目も真面目すぎるくらい真剣。
けれど、それ以上に俺の心を掴んだのは、その無垢さだった。
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「えーっと……じゃあつまり、今、胸がドキドキしてる?」
「はい。鼓動が速く、視界が少しぼやけて、体温が上昇して、羽がふわっと広がります」
「それはたぶん、恋の初期症状だな」
「こい、ですか……? 恋とは……天使族にとっては、堕天の兆しとされています」
「えっ、恋しちゃダメなの!?」
「教本には、他者に対する執着は神聖性を損なうと記載されています」
「天使、恋に不寛容すぎない!?」
俺がつっこむと、ヒメリアはまじめな顔のまま首を傾げる。
「……けれど、堕ちるなら、ユウ様の手で堕ちたいと思うのは、罪ですか?」
「重っ!! なんか、命ごと預けられた気分なんだけど!」
それでも、ヒメリアはにこりと笑う。
「あの、成瀬ユウ様。今日から、恋の観察をしてもよろしいでしょうか?」
「な、なんで俺を見る前提なの!?」
「あなたを見ていると、心がぽかぽかして……この現象をもっと解明したくなります」
「研究対象扱いかよ……!」
……いや、でも、なんだろう。
ミミィのときは体温ゼロのぬるぬるだったけど、ヒメリアは逆に、触れてもいないのに心がじわっと温かくなる。
本当に好きになるって、もしかしてこんな感覚かもしれない。
そう思った瞬間、スキルが、びりっと震えた気がした。
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翌朝、リビングにて。
「ねぇユウくん、あの子、完全に初恋テンパリ天使じゃない?」
ルルが俺の横で、トーストをかじりながら囁く。
「そう見えるか?」
「だって顔赤いし、手を合わせるたびに、これは神罰か…とか言ってるし」
「……それは確かに心配だな」
一方のシアは、コーヒーを飲みながら冷静に言った。
「天使族は感情表現が未熟。彼女のドキドキは、想像以上に強烈な体験でしょうね」
「でもさ……ああいう子が、本気で恋したら、めっちゃ一途そうじゃない?」
「そうね。……逆に言えば、恋がどういうものかを、一番最初に教えた人の影響を、そのまま受けてしまうわ」
「えっ、それってつまり……」
「あなたの責任は、想像以上に重いわよ?」
「……はぁ」
ため息をついたとき、ちょうどヒメリアがリビングに入ってきた。
「おはようございます、ユウ様。昨夜の夢に、あなたが出てきました」
「え、マジで? どんな夢?」
「はい。私が神殿の塔から堕ちようとしていたら、あなたが羽を持って飛んできて……私の手を取って、一緒に堕ちようって……」
「なにその夢!? プロポーズ並みのインパクトなんだけど!」
「私……あれが夢なら、起きるべきではなかったと思いました」
「真顔で言うな! 心臓がもたない!」
ルルとシアが、俺を見てまたか…みたいな顔をしてる。
でも、俺だけは気づいていた。
ヒメリアのまっすぐな視線。優しい手のしぐさ。
そして、何より……自分の心が、ほんの少しだけ彼女を追っていることに。
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夜。神殿の塔の上。
俺とヒメリアは、星を見上げていた。
「ユウ様。私は、この気持ちに名前をつけても……いいでしょうか?」
「……ああ。つけていいと思うよ」
「なら、これは……恋なんですね?」
俺は答えられなかった。
スキルがまた、びりびりと反応している。でもそれは、これまでよりやさしい震え方だった。
まるで、俺の気持ちに呼応しているみたいに。
「……ヒメリア、君のことをもっと知りたい。今は、それだけでもいいかな?」
彼女は目を見開き、すぐにふわりと笑った。
「それは……恋の入口、ということでしょうか?」
「……かもしれないな」
彼女の羽が、夜風にふわりと揺れた。
俺たちは、そっと並んで星を見つめた。
世界は少しずつ、優しい色に染まり始めていた。