【コミカライズ】あらまあ夫人の優しい復讐
カタリナ・ハイムゼート男爵令嬢は温厚で心優しい女性である。彼女に対する周囲の評価は、概ねそんなところだ。
彼女はいかなる時も微笑みを絶やさない。口癖は「あらまあ」である。どうやらカタリナを特に可愛がっていた祖母の真似をしているうちに、染み着いてしまったものらしい。
「あらまあ。幼い子供さんですから、構いませんわよぉ」
彼女の髪を引っ張った悪ガキ、いや幼い令息に対して、カタリナはニコニコと微笑みながらそう答えた。
「あらまあ。本当の事ですから、言われても仕方ないですわねぇ」
貧乏男爵家と暴言を吐いたご令嬢に対しても、にこやかな表情は崩さない。カタリナの友人であるオリヴィアの方が、彼女より怒っていたくらいだ。
「あらまあ。持参金を出す余裕が無いのですか。だからその商人の方と婚約を?分かりましたわ」
カタリナの持参金を用意する余裕がなく、持参金不要かつ支度金まで支払ってくれるという平民の商会長の息子と婚約することになっても。済まないと頭を下げる両親に対して、彼女はいつも通りに答えた。
だから結婚式を終えたその夜に、夫となったマリウス・ディーツェルから「君を愛することはない」と言われたときも――。
カタリナはにこやかに「あらまあ」と答えたのだった。
「俺にはアメリアという愛する女性がいるんだ」
「あらまあ。どうしてその方とご結婚なさらなかったのですか?」
「両親が反対してね。彼らはどうしても俺を貴族の令嬢と結婚させたかったらしい。だから平民のアメリアを受け入れてくれないんだ」
「あらまあ。では、そのアメリア様とやらを愛人になさるのでしょうか」
「大切な女性を愛人になど出来るわけないだろ!二年経ったら君とは離縁する。その後、彼女を妻として迎えるつもりだ」
胸を張ってそう語るマリウス。何故そんなに偉そうなのかは全くもって謎である。
この国では、二年間子供が出来なければ離縁の理由として認められる。そして誠に残念ながら、その責は女性の側が負わされるのが世の常。
子供がいないことを理由に離縁される……それはつまりその女性が、欠陥品であると公言するようなものだ。ましてカタリナは貴族令嬢。離縁された淑女がその後どれだけ辛酸を舐めることになるか、少しでも理解していればそんな態度は取れないだろうに。
「アメリアは我が魔具開発部の主戦力ともいえる、優秀な魔具師なんだ。今、彼女の主導で画期的な新商品の開発を行っている。完成すれば大儲けに繋がるはずだ。その業績を引っ提げて、両親へ彼女との結婚を認めさせる。
……ああ、君と閨を共にするつもりはないから、期待しないでくれ。アメリアが嫌がっているし、万が一子供が出来たら離縁が難しくなるからな」
頭がお花畑な夫との房事など彼女の方も望んでいないという事には、全く考えが及ばないらしい。そんな夫に対してカタリナは優雅に微笑み、こてんと首を傾げる。
「あらあらまあまあ。それでは白い結婚ということですね」
「ああ、そうだ。分かったらこれに署名してくれ」
ぽんと投げ渡されたそれは、離縁届と契約書。ちなみに離縁状の夫側の欄は記入済みである。
契約書へゆっくりゆっくり目を通すカタリナに、マリウスは「まだか?」とイライラした様子で催促した。
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一、妻カタリナは夫マリウスの行動について、婚姻中、一切口出しをしないものとする。
一、妻カタリナは二年後に夫マリウスと離縁する。その際、慰謝料は互いに請求しないものとする。
一、妻カタリナ、夫マリウスはこの契約について、一切他言しないものとする。
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現代の弁護士が読んだら憤死しそうな内容であるが、カタリナは言われるがままに二つの書類へ署名した。
「これは俺が預かる」
書類をひったくるように奪って寝室から出て行く夫を見送りながら、カタリナは「……あらまあ。これは想定外でしたわねぇ」と呟いた。
「今月分の生活費はここに置いておく。使用人の選別は任せる。余った金は好きに使っていいが、贅沢はするなよ。足りなくなっても追加はしないからな」
翌朝、マリウスはそう言い捨てて出かけていった。渡された袋の中を確認したカタリナは「あらまあ」と声を上げる。それは使用人をぎりぎり一人雇えるかどうかという金額だった。
カタリナはふんわりと家の中を見回した。ここはマリウスの職場にほど近い小さな家だ。新婚夫婦のためにと、夫の両親が用意したらしい。
「このくらいなら自分で何とかなるかしらね」
カタリナは実家に頼んで、女性の使用人を紹介して貰った。ただし彼女に頼んだのは洗濯と外回りの掃除だけ。渡された金額からカタリナの生活費を除けば、払える給金がそれくらいしかなかったからである。
家の中の掃除や食事の用意は自分でやった。
ハイムゼート男爵家は領地もない名ばかりの男爵家で、父は王宮に勤める文官だ。それでもカタリナを含める子供三人には教養を付けさせねばと貴族学院に通わせてくれた。おかげで家計は火の車だ。
使用人も最低限。そのため、母やカタリナも家事を手伝うこともあった。そのおかげで、身の回りのことくらいは自分で何とか出来る。人生、何が幸いするか分からないものだ。
夫は週に一度帰宅し、カタリナが変わりなく生活していることを確認すると去っていく。実家に帰っているわけではないらしい。ということは、恋人と一緒にいるのだろう。
新居には時折、マリウスの両親が訪ねてくる。母親は家の中を舐めるように見回し「きちんとマリウスの世話をしてる?貴方はお嬢様育ちだから心配だわ」とチクチク嫌みを言い、父親は「子供はまだか?」と彼女の身体へ嫌らしい視線を投げかけた。
「あらまあ。この通り、問題なく過ごしておりますわ。子供については、マリウス様に仰っていただけませんと」
白い結婚なのだから出来るわけはないのだが。契約通りそのことは口にせず、カタリナは鷹揚に微笑むだけだ。
しばらくすると、ディーツェル商会には貴族から新規の商談が来るようになった。カタリナの母はフイヤード子爵家の出身であり、その前当主夫人はカタリナの祖母である。カタリナを殊の外可愛がっていた祖母は、社交で培った人脈を駆使してディーツェル商会を喧伝してくれたのだ。
貴族の顧客を増やしたがっていた義父エグモントは「目論見通りだ」と喜び、商談へカタリナを同伴するようになった。社交術を心得ている彼女がいれば、会話がスムーズに進むからだ。
商品について聞かれることもあるので、エグモントは部下に「扱う商品についてカタリナへ教えておけ」と命じた。
魔具師たちは当初こそ煙たがっていたが、商会長親子と違って彼らに対して腰が低く、また熱心にメモを取り質問をしてくるカタリナに絆され、親身になって教えるようになった。
カタリナ自身も魔具に興味を持ち、自ら勉強するようになった。そもそもカタリナは貴族学院時代、常に上位の成績を取るほど勤勉な生徒だったのだ。
「最近、商会の方に顔を出しているようだが」
久しぶりに帰宅したマリウスが、不機嫌な顔でそう聞いてきた。
「はい。商談に備えて商品の勉強をしておくようにと、お義父様が」
「父さんは何を考えてるんだ、全く。職員でもない者がうろちょろされては目障りなんだ。父さんの命令なら仕方ないが、せめて目立たないようにしてくれ」
「あらまあ。それは申し訳ございませんでした。気を付けますわ」
皆さん親切に接してくれたけれど、内心は迷惑だったのかもしれない。何かお詫びをしなければ……。
ちょうどフイヤード子爵家からリンゴの箱が送られてきたので、カタリナはそれを持って商会へ顔を出した。幸い、マリウスもアメリアも不在のようである。
「あの、私がいつも押し掛けているせいでご迷惑をおかけしていたようで。これ、フィヤードの領地で採れたリンゴですの。宜しければ貰って下さいな」
「え?全然迷惑じゃないですよ。なあ?」
「ああ。若奥様は俺たちにいつも気を使って下さるし、それに質問も要領良く纏められててこちらも答えやすいですよ」
「フィヤードのリンゴっていったら高級品じゃないですか。貰っていいんですか?」
「どうぞどうぞ。形の悪い物はジャムにしましたの。ジャムクッキーもありますのよ」
「わあっ、美味しそう。クッキー頂きます!ねぇ、ハイディもいらっしゃいよ。少しくらい休憩してもいいんじゃない?」
ハイディと呼ばれた女性が顔を上げた。
「いえ、ちょっとこの作業急いでて……」
「またアメリアさんに押しつけられたの?あの人にも困ったものね」
「アメリアさん?」
聞き覚えのある名に、カタリナが反応する。皆一斉に気まずそうな顔をして「クッキー美味しかったです。すいません、俺たちも仕事に戻らなきゃ」と、そそくさとその場を去っていった。
二人の関係は、職場で公然になっているのだろうとカタリナは察する。
一旦その場を辞した後、カタリナは夕刻になるのを見計らってもう一度商会へ入り込んだ。他の者は既に帰宅したのか、ハイディ一人が残っていた。
「あの、ハイディさん?」
「若奥様!?どうしてこんな時間に……あ、マリウス部長ならもう帰られましたけど」
「いいえ。貴方に少々お伺いしたいことがあるの」
◇◇
マリウスはディーツェル商会の会長であるエグモント・ディーツェルの一人息子だ。
ディーツェル商会は元々、魔具の注文作成や修理の請け負いを行う小さな店であったらしい。マリウスの曾祖父が商才に長けた人物で、魔具の顧客相手に小物を売る商売を始め、それが当たった。今やこの町で、ディーツェル商会の名を知らぬ者はいないだろう。
その跡継ぎであるマリウスは、それはもう大切に育てられた。学校を卒業した後は、魔具製造開発部門を任された。多角経営になったとはいえ、魔具製造がディーツェル商会の主戦力であることに変わりはない。次の商会長である彼が、主力部門を任されたのは当然のことである。
部門長に就任し意気揚々と仕事に取り組もうとしたマリウスだったが、すぐに職場で居心地の悪さを感じることとなった。
魔具師のほとんどは生粋の技術者である。マリウスも魔具に関する知識はあるが、あくまで基礎レベルであり、学校で専攻していたのは経営学だ。
彼らはとにかく研究が命!というタイプが多く、専門用語を早口で羅列されるのでマリウスには何を話しているのかさっぱり分からない。そしてそういう者は得てして身だしなみにあまり構わず、下手をすると数日同じ服を着てくる事もある。
それなりに見目が良いことを自覚しているマリウスは、服装にも気を使っている。彼にとって、魔具師たちは根本的に違う世界の住人のように感じられた。
部下には少ないながら女性もおり、男性に比べれば身綺麗にはしているものの、地味で化粧もロクにしていない者ばかりである。だがそこに一人だけ、マリウスの目を引く女性がいた。それがアメリアだった。
彼女はいつも小洒落た服を着ており、きっちり化粧をしている。背筋をシャキンと伸ばし堂々とした佇まいとハキハキした喋り方で、いかにも仕事の出来る女性という印象を受けた。
開発部門では定期的に新商品の案を集めたコンペを開催する。長々と意味の分からない説明をする者たちと違って、彼女の説明は明瞭でとても分かり易かった。
アメリアが提案したのは、火の魔石を使った小型ポットだ。女性でも扱えるように軽く、そして安全性も考慮した優れものである。
女性らしい細やかな視点だと、マリウスは感心した。彼女の案を採用して売り出したところ、人気商品となった。安全性が高くて子供のいる家でも安心だと、平民の主婦層に評判だったらしい。
マリウスは彼女ともっと話したくて、アメリアを食事に誘った。
「私の案を採用していただいて、本当にありがとうございました」
「礼を言いたいのはこっちだ。おかげでうちの部門は今期の利益目標を達成できそうだ。今日は奢るよ」
「嬉しいです。私、他にもいっぱい作りたい物があるんです!」
目をきらきらさせて語るアメリアを、マリウスは本当に可愛いと思った。それから二人が恋仲になるのに時間は掛からなかった。
アメリアはその後も次々と新しい魔具を提案し、どれも人気商品となった。
彼女くらい才能ある女性なら、商会長の妻に申し分ない。
マリウスはアメリアと結婚したい旨を両親に話したが、エグモントに一蹴された。「お前は貴族の娘と結婚するんだ。平民の女など別れろ」と取り付く島もない。
ディーツェル商会の主力は平民向けの安価な商品だが、最近は貴族層向けの高価な商品も打ち出すようになった。薄利多売の平民向けと違って貴族向けは利益率が高いため、エグモントはそこへ喰い込みたいらしい。
貴族は社交界での繋がりがある。だから息子へ貴族の令嬢を娶らせ、その人脈を活用するつもりなのだ。
息子の気持ちを無視した勝手なやり方に、マリウスは腹を立てていた。とはいえ今のマリウスはいち部門長に過ぎず、父親の手の平の上にいる。家を出ようにも、彼は商人以外の生き方を知らない。
そうこうするうちに、エグモントはハイムゼート男爵家との縁談を進めてしまったのである。無理矢理連れて行かれた男爵家でマリウスはカタリナと話をしたが、何を聞いてもニコニコとして「あらまあ」と答える彼女に失望した。
やはり貴族のお嬢様だ。アメリアのように、自分の力で生き抜いていこうという強さが無い。こんな女に、商会長の妻が務まるわけはないとマリウスは思う。
マリウスの縁談を知ったアメリアは「他の女性と結婚する貴方を見るのは辛い、商会を辞める」と泣いた。
彼女と別れたくないマリウスは、懸命に彼女を宥めた。その男爵令嬢とは二年経ったら別れる。その間に、新しい魔具を開発して両親を納得させるだけの業績を上げよう。何なら、それを持って独立してもいい、と。
それでようやくアメリアは納得してくれた。ただし、妻と同衾はしないという条件付きで。
それからは、アメリアの事は諦めた振りをした。親がそうしろと言うので、カタリナにはちょくちょく贈り物をした。ちなみに金を出したのは父親であるため、マリウスの懐は全く痛んでいない。
さらに結婚するにあたってしばらくは二人で新婚生活を楽しみたいと嘘を吐き、親に別邸を用意して貰った。実家にいると、妻と同じ寝室で寝ていない事がバレてしまうからだ。
結婚式を終えた後に契約結婚の話をしたところ、カタリナは大人しく契約書に署名した。ごねられるかと警戒していたマリウスは拍子抜けしたくらいだ。
もしかすると、この女は少し頭が弱いのかもしれない。
父の見る目の無さに呆れたが、逆に好都合だとマリウスは思い直した。
それからマリウスはアメリアのアパートへ入り浸るようになった。実家にいた頃と違って、帰りが遅くなろうが外泊しようが親に文句を言われる事もないからだ。
カタリナの待つ新居へ戻るのは週に一回程度。
マリウスが新居へ戻ると、妻はにこやかに彼を出迎える。家の中はいつの間にかセンスの良い調度類で揃えられていた。常に埃一つなく掃除され、花も飾ってある。出される食事も贅沢なものではないが、素朴な美味しさだ。マリウスは、実家とはまた違う居心地の良さを感じた。
良い使用人を雇っているんだな。ハイムゼート男爵家からの紹介かもしれない。カタリナと離縁しても、そのまま雇えないだろうかなどと都合の良いことを考える。
マリウスは使用人の相場が幾らなのか、女性一人が生きていくのにどのくらい費用がかかるのか、全然知らなかった。だから渡した金でカタリナは十分にやっていけると考えており、収入の残りはアメリアへの贈り物や遊興費に使っていたのである。
結婚後しばらくして、カタリナが商会へ顔を出すようになった。
「貴族のお嬢様と聞いていたからもっと高飛車な女性かと思っていたけど、意外と腰が低い人だなあ」
「本当にね。『いつもお仕事の邪魔をしてごめんなさいね』と気を使ってくれるし。こないだ差し入れて下さったお菓子も美味しかったわ」
魔具師たちの間で、カタリナの評判は上々だ。
いつも他人に厳しく口煩いマリウスの母ですら、「いつまでもお嬢様のような振る舞いなのはどうかと思うけど、彼女のおかげで取引先が増えたのは事実だわね」と誉め言葉を口にした。
「奥様自身に実績があるわけでもないのに!」とアメリアは機嫌が悪くなったが。
「俺に捨てられないよう、必死なんだろ。来年には離縁するんだから君は何も心配する必要はないさ」
「本当ね?やっぱり奥様の方がいいなんて言ったら、承知しないんだから!」
「そんなわけない。あの女には契約書と離縁届に署名させてる。全部、君と一緒になるためだ」
「でも、奥様のおかげで貴族の商談が増えてるんでしょう?」
「そんなのは最初だけだ。固定客になってしまえば、もうカタリナは不要さ」
「ふふっ。悪い人ね」
アメリアをベッドへ押し倒しながら、マリウスは今まで接してきた貴族たちの顔を思い浮かべる。彼らはいつもこちらを平民と侮り、横柄な態度だった。
貴族なんて、俺たち平民から搾取して贅沢してるだけじゃないか。貴族の娘を利用して何が悪い?俺は奴らにされたことを、返してるだけだ。
「マリウス。カタリナとは仲良くやっているのか?」
「ええ、まあそれなりに」
「彼女のおかげで貴族向けの販路を拡大できた。大事にしろよ。まだ子供は出来ないのか?」
「こればっかりは神の采配ですよ、父上」
「そうはいってもなあ。もう結婚して一年以上経つというのに」
何年経とうと出来るわけはない。カタリナとは一度も閨を共にしたことがないのだから。
とはいえ、父親に疑いをもたれては困る。家へ帰る頻度を上げて、仲の良い風を装っておくか。またアメリアが不機嫌になるかもしれないが。
「あのう、マリウス部長」
どうアメリアの機嫌を取るか頭を悩ませているマリウスに、部下がおずおずとと声を掛けてきた。
「何だ」
「ハイディが辞職すると言っているのですが」
ハイディは魔具師の一人だ。いつもボサボサのひっつめ髪で眼鏡を掛け、化粧っ気一つもない地味な娘である。
彼女の提案した商品は、一度も商品化されたことがない。コンペでも小さい声でボソボソと喋るため、聞く気にならないのだ。あんな無能が一人辞めたところでどうということもないだろう。
「辞めたいなら辞めさせてやれ。大して役にも立ってないんだし」
アメリアのことで頭が一杯になっているマリウスは、目の前の部下が何ともいえない顔をしていることに気づかなかった。
「アメリア。新商品の開発は進んでいるのか」
「え、ええ。もう少しかかるわ」
「次の品評会には間に合うようにしてくれ」
マリウスが結婚してから二年。
アメリアと約束していた『画期的な魔具』の開発は、遅々として進まない。さらには頭の痛い問題が起きていた。強力な商売敵の出現である。
ブロンデル商会――先代ブロンデル伯爵の出資により立ち上げられ、主に貴族向けの小物や家具を扱っている商会だ。それが新しく魔具部門を立ち上げたのである。
ワイン専用に特化した小型冷蔵庫、髪を自在にカール出来るドライヤー、埃を吸い取って水拭きまでしてしまう掃除機……。
ブロンデル商会は次々に新商品を打ち出して話題を攫った。更に平民向けに機能を落とした廉価版も売り出し、ディーツェル商会のシェアはどんどん奪われていく。ディーツェルよりブロンデルの方が商品の質もアフターサービスも上だと、取引きを打ち切る顧客が相次いだ。
マリウスは、来月開催される品評会に機運を掛けるつもりでいる。品評会は商会ギルドの主催で、様々な新商品が一堂に会する展示会だ。そこで新しい魔具を大々的に打ち出せば、巻き返すことが出来ると踏んでいる。
「そういえば、先日持ち込まれたコーヒーポットの修理はどうなってる?あれはアメリアの開発したものだったろう」
「新商品の方に注力していたものだから、後回しになっていたわ」
「そちらも早くしてくれ。バーデン様の依頼だからな」
マリウスは、その後確認を行わなかった。アメリアに任せておけば大丈夫と思い込んでいたのである。それが致命的な失敗だったと気づいたときには、もう遅かった。
「どうなってるんだ!修理を頼んでから一ヶ月以上経つというのに、何の連絡もないぞ!」
「申し訳ござません、バーデン様。ただいま確認致しますので少々お待ちを」
「もういい!長い付き合いだからと君のところと取引きを続けていたが、今回限りとさせて貰う。ブロンデルの方がよほど対応がいいからな」
「そ、そんな!」
バーデンは多くのホテルを経営しており、魔具だけではなくホテルで使用する様々な小物も買ってくれていた大口顧客だ。ただでさえ取引先が減っているのに、彼まで逃してしまうなんて。
「アメリア!修理の方を優先するように言っただろう」
「……だって……」
「バーデン様は大事な顧客だ。ブロンデル商会にシェアを喰われている今、大口顧客を繋げるのが何よりも優先であることくらい、優秀な君なら理解しているだろ?」
「だって、分からないんだもん!!」
「はぁ??」
泣き叫ぶアメリアからようやく聞き出した事実に、マリウスは驚愕した。今までアメリアが開発したと思っていた商品は、全てハイディが作った物だったのだ。彼女の開発した魔具は内部構造が複雑で、アメリアの手には負えないらしい。
「つまり、君はハイディの手柄を横取りしていたということか?」
「違うわ!あの娘は喋るのが壊滅的に下手だから、コンペでのプレゼンは失敗続きだったでしょう?だから私が代わりに説明して上げたのよ。どれだけ技術力があっても、他者に伝える能力がなければ優秀な技術者とは言えないわ」
「それはまあ、一理あるが……。ならば、事前にそう言えばいいじゃないか」
「ちゃんと開発者名にはハイディの名前も入れていたわよ。貴方だって、あの娘が辞めるのを止めなかったじゃない!」
そういえば、説明資料にはアメリアの後ろにハイディの名前も記載されていた。
なんてことだ。てっきり、ハイディがアメリアの手伝いをしていたのだと思っていたのに。
「仕方ない。誰か、分かる者に引き継がせよう」
しかし、そんな部下はいなかった。技術力の高い魔具師の大半が、既に辞職していたからである。
彼らはハイディと同様に、大人しく口下手な者ばかりだった。だからマリウスは彼らが高い能力を持つとは認識しておらず、退職を止めなかったのだ。残っているのは弁が立つが、技術力は低い魔具師ばかりである。
慌てて辞めた者たちに連絡を取ったものの、全員ブロンデル商会へ再就職した後だった。待遇を改善すると煽てたり、「ディーツェル商会に育てて貰った恩を忘れたのか」と半ば脅したりもしたが、相手にされなかった。
また新規で技術者を探そうにも、優秀な者はすべてブロンデル商会が獲得済み。
マリウスが有効な手を打てない間に、ディーツェル商会からはどんどん顧客が離れていった。
「マリウス!離婚とはどういうことだ!!」
売上げの低迷に頭を悩ませているマリウスの所へ、エグモントが怒鳴り込んできた。
返答する間もなく、目の前が回転する。耳元で繰り返される怒声とふらふらする頭のせいで、しばらくは状況が理解できなかった。父に殴り飛ばされたのだ。
「イタタっ……父さん、いきなり何するんです!?」
「カタリナが挨拶にきたのだ。お前がアメリアと再婚するから、離縁されたと。お前、あの娘とは手を切ったのではなかったのか!?あれほど妻を大切にしろと言ったのに、このバカモンが!!」
「えっ……」
マリウスは慌てて机の引き出しを確認した。カタリナに署名させた契約書はあるが、離縁届が見当たらない。自宅に置いておくと妻に破棄されるかもしれないと思い、職場の自机へ保管していたはずなのに。
「カタリナを連れ戻せ!土下座でも何でもして許しを乞え。さもなくばお前を部門長の職から外す!」
父にそう言われ、慌ててハイムゼート男爵家へ赴いたが。当然のことながら、門前払いを喰わされた。
「支度金に目の眩んだ私が言えたことではないが……。大切な娘を、君のような男と結婚させるのではなかった」
門扉越しに話す男爵は怒り心頭という様子で、今にも殴りかかってきそうである。マリウスは逃げるようにその場を立ち去るしかなかった。
とぼとぼと帰路に就いたマリウス。職場には怒り狂った父親がいるし、今はアメリアの顔も見たくない。彼の足は自然と、自分の家へ向いた。何となくカタリナがそこにいるのではないかという思いがあったのだ。
当然の事だが、カタリナの姿はなかった。しかも家の中は埃だらけで飾ってあった花はしおれている。
「あ、旦那様。お帰りなさいませ」
ちょうど帰り支度をしていた使用人を捕まえ、マリウスは叱りつけた。
「おい、何で帰るんだ!全然掃除されてないじゃないか。それに、食事の準備はどうした」
「そんな契約にはなってませんが」
あの整えられた室内も、美味しい食事も、すべてカタリナの手によるものだったと、マリウスはこの時初めて知った。
きちんと生活費を渡していたのに、なぜわざわざそんな苦労を?とマリウスは首を傾げる。
「じゃあ契約をし直すよ。掃除と食事の準備も頼む」
「いいですけど、給金を上げて頂かないと」
「どのくらいなんだ?」
金額を聞いたマリウスは驚愕した。思っていたものより、遙かに高かったからである。
「そんなにするのか!?暴利じゃないか」
「王都ならこのくらいが相場ですよ。旦那様のご実家でお雇いになってる使用人は、もっと給金を頂いてるはずです」
マリウスはようやく理解した。
渡した生活費では使用人をまともに雇えなかったため、カタリナは自分でやるしかなかったのだ。
ならば俺に言えばいいじゃないか、と思ったが。
それも無理な話である。自分が彼女の話をまともに聞こうとしなかったのだから。
その後マリウスは部門長を解任、平職員へと降格された。給料も以前の半分だ。
使用人には掃除と洗濯を頼むのが精一杯。それだって、カタリナがやってくれていたような丁寧さはない。
仕方なくアメリアを家へ呼び寄せて、家事をやってくれるように頼んだ。
「何で私が」と文句を言いながらも作ってくれた食事は、味といい見た目といい、カタリナが出してくれた食事には遠く及ばない。
不満だらけの生活はすぐに破綻した。
「商会長の妻になれば贅沢できると思ったのに!」と捨て台詞を吐いてアメリアは出て行った。仕事も辞めて、実家へ戻ったらしい。
散らかった部屋でひとり酒を飲みながら、マリウスは思う。
何でこんなことになったんだろう。
カタリナを愛すれば良かったのか?自分の心に嘘をついて。
考えても考えても、答えは出なかった。
◇◇
「魔具製造部の業績は右肩上がりよ。カタリナのおかげね」
「あらまあ。それは魔具師の皆さんが優秀なのよ」
カタリナと向かい合って優雅にお茶を飲んでいるのは、オリヴィア・ブロンデル伯爵夫人だ。当主夫人として社交の傍ら夫の事業を手伝っており、なかなかの遣り手だと評判の女性である。
カタリナはハイディから、仕事の成果をアメリアに奪われているという事実を聞き出した。さらに他の魔具師も多かれ少なかれ、職場に不満を持っているということも。
そして貴族学院時代からの親友であるオリヴィアに相談したのだ。
オリヴィアは夫にブロンデル商会の魔具製造業への参入を提案。優秀な魔具師の当てがある、採算が見込めると夫を説得し、彼女の自己資金を使って魔具製造部門を立ち上げた。不足分は、カタリナが婚約者時代にマリウスから贈られたドレスや宝石を売って補った。
一方でカタリナはディーツェル商会で腐っていた魔具師たちに「小耳に挟んだのですけれど」と噂話のふりをして、ブロンデル商会が魔具部門を立ち上げるという情報を流した。
成果を正しく評価してくれないマリウスに嫌気のさしていた彼らは、すぐに転職を決意。
彼らの不満をカタリナから聞いていたオリヴィアは、技術力を持ち、かつコミュニケーション能力も高い者を部長に据えて、口下手な魔具師たちのフォローをさせた。
その甲斐あって彼らは水を得た魚のように開発へ打ち込み、ガンガンと成果を出してくれたのだ。
その間にカタリナはマリウスが隠し持っていた離縁届を探し出し、王宮へ提出。受理されたことを確認して家を出たのである。
現在カタリナはブロンデル商会で、魔具製造部の営業職へ就いている。今までディーツェル商会と取引を行っていた貴族たちがこぞってブロンデル商会へ鞍替えしたため、忙しい毎日だ。
彼らはディーツェル商会の対応にあまり満足していなかった。そこに勢いのあるブロンデル伯爵家の商会が参入してきたのだから、貴族たちがそちらへ流れたのは当然であろう。
「それにしても、あの程度で済ませてあげるなんて。カタリナは相変わらず優しいわね」
あれからディーツェル商会は赤字続きの魔具部門から撤退し、他の商品で細々と商売を続けている。以前の栄華は見る影もない。
マリウスは実家へ連れ戻された。毎日両親から責め立てられ、小さくなって過ごしているらしい。
「あらまあ。別に、私は優しくなんてないの。むしろ冷たいと思うわ。だって、怒るのってすごく気力の要ることでしょう?あの人たちのために、そこまでする気にならないわ。……それに」
お茶のカップを置いて、カタリナは上品に首を傾ける。
「貴族って、そういうものでしょう?」
カタリナの髪を引っ張った幼い子供は、激怒したフイヤード前子爵夫人によって『手の付けられない暴れん坊』という風評を広められた。謝罪しなかった子供の両親は『躾も出来ない馬鹿親』と後ろ指をさされ、社交界から爪弾きにされた。
学生時代にカタリナへ暴言を吐いた令嬢は、その行為が婚約者へ針小棒大に伝わり、婚約を破棄された。ちなみにこちらはオリヴィアの仕業である。
それを見て、カタリナは学んだ。
貴族とは、矜持を汚された時にこそ怒るべきなのだと。そして報復は表立ってするものではなく、ほんの一石か二石を投ずるだけで良いのだと。それは波紋のように広がり、いずれは相手へと届くからだ。
カタリナは、夫に愛して欲しかったわけではない。これでも貴族の端くれだ。政略結婚くらい心得ている。
アメリアは愛人にし、カタリナのことは正妻として尊重してくれたならば。彼女はマリウスに生涯尽くしただろう。
平民のマリウスがそれを理解していなかったのは、仕方ないことだったかもしれない。せめてあの結婚式の夜に、カタリナとよく話し合って価値観を擦り合わせていれば。離縁になったとしても、もう少しましな未来になっていただろう。
その後カタリナは取引先の貴族令息に見初められ、再婚した。年上で再婚にも関わらず、夫も義両親もカタリナを大切にしてくれる。
だからカタリナはいつも通り微笑むのだ。「あらまあ」と口にしながら。