第一話 音楽隊の復活(1)
今日のカフェー・グリムには、数名の客が入っている。
テーブル席に着くのは、よく本を読みつつ居眠りしている着物姿の老翁や、近くの大学に通うという学生服姿の青年二人。最近見かけるようになった五十代くらいの老紳士は、娘だという可愛らしいモガ(モダンガール)を連れていた。また、カウンター席には三宅の珈琲の虜になったという、美容院経営の美女とその友人女性が優雅に足を組んで座っている。
まあまあの客入りだ。理人はいつも通り、三宅の淹れる珈琲や、洋菓子店から取り寄せたサブレやドーナツを客に給仕する。
「理人君、珈琲が入りました」
「はい」
テーブル席の老紳士とモガに珈琲を運んだ後、理人はカウンターの隅を横目で見やった。
カウンターの一番奥の椅子には、カフェーには似つかわしくない子供が一人座っている。
三宅が入れた珈琲を片手に、黙々と新聞を読んでいるのは小野カホルだ。
今日も白い洋シャツに灰色のベスト、膝丈のズボン、襟元には赤いリボンを結び、いかにも良家の子息といった風体である。
普段は地下の書斎が彼の仕事場であり、カフェーの店内にはほとんど顔を出さない。珍しいこともあるものだと、理人は給仕をするふりをして近づき、話しかける。
「珍しいね、カホル君。いつもは地下の書斎に引きこもっているのに。もしかして、何か事件の依頼があったのかい?」
「いいえ、違います。この一週間、乙木夫人からは依頼どころか何の連絡もありません。暇で仕方ありません」
いかにも退屈そうにカホルは答えた。
「じゃあ、暇を持て余して店の方に出てきたのかな」
「ああ、いえ、そういうわけでもなく……」
カホルがどこか苦い顔で言いかけた時、奥の蘇芳色のカーテンが上がった。
現れたのは高倉淑乃だ。なぜか両手にモップとバケツを持ち、いつもの無表情にわずかながら怒りの色が見える。
「淑乃さん、どうしたんだい?」
理人が尋ねると、淑乃はモップとバケツをカウンターの奥に隠すように置きつつ、淡々と答える。
「昨晩、カホル様が魔法瓶の珈琲を床に大量に零されたようで」
「おや、それはまた……」
「その場で私を呼んで下さればいいものを、ご自分で処理なさろうとしたらしく」
淑乃はそれ以上言わなかったが、おおかたの想像はついた。おそらくカホルはこっそりと自分の不始末を片付けようとしたが、結局淑乃に見つかったのだろう。
淑乃は小さく溜息を吐く。
「床や家具はひとまず拭きましたが、絨毯の染みはどうにもなりません。今から洗濯屋に持っていきます。それに、家具も元の位置に戻さなくては……まったく……」
「ああ、もう、悪かったと言っているだろう? それに、私も手伝うと言ったのに、淑乃が邪魔だと追い出したんじゃないか」
拗ねた顔でカホルが弁明すると、淑乃はきっぱりと返す。
「カホル様に力仕事はさせられませんし、私一人の方がはかどりますので」
「それだったら、僕が手伝おうか?」
「いいえ、けっこうです。あなたはご自分のお仕事をなさって下さい」
淑乃は理人の申し出をあっさりと断った。
「そういうことですので、カホル様。しばらくは書斎に出入り禁止です。カフェーか、自室でお過ごし下さい」
そう言うと、淑乃は再び地下の書斎へと戻っていった。
彼女の後ろ姿を見送った後、カホルを見やれば目が合う。カホルはどこか不貞腐れた表情で、ばさりと新聞を広げ直した。ご機嫌斜めのようだ。
理人はご機嫌取りをするように、話題を変える。
「カホル君、何か面白そうな記事はあったかい?」
「そうですね……ああ、そうだ。二十年以上前に盗まれた有名な絵画が戻ってきたそうですよ。元々は伯爵家の所有だったそうですが、家はすでに取り潰されていますね。伯爵家の血縁の男性が住むアパートの部屋の壁に、いつの間にか掛かっていたそうです。誰の仕業かはわかっておらず、むしろ盗品が戻ってきたのだからと、警察も大した捜査はしていないようですね。それから……ああ、こちらをどうぞ。先日の浅草公園での事件、進展があったようですよ」
「ああ、これは……行方不明になった子供達、無事に保護されたようだね。よかった」
カホルが示した記事は、先日関わった事件だ。乙木夫人の依頼で、浅草區近辺で起こった子供の行方不明事件を調査し、カホルの尽力あって無事に解決した。
「……まあ、その記事に関しては、外にいる方のほうが詳しくご存じなのではないかと」
カホルが店の外を指し示す。理人がそちらに視線をやると、扉のカーテンの隙間からこちらを覗いている者の姿が見えた。
すぐさま扉に近づいて開くと、厳つい顔をした背の高い男がいる。店内を覗いていた彼は、ぎょっとして飛び離れ、今さらながら素知らぬふりをした。
中折帽で顔を隠し、下手くそな口笛を吹いているのは、理人の良く見知った人物。友人の一谷高正である。
「やあ。ごきげんよう、一谷」
「お、おお、千崎」
「そんなところで何をしているんだい?」
「その、偶々通りかかってだな……」
「前もそんなことを言って、僕の様子を見に来ていただろう? 相変わらず過保護だなぁ、お前は。心配せずとも、ちゃんと働いているよ」
「なっ、そんなことわかっている! 俺はただ……そう、この間の浅草の件で小野君に礼を言いに来ただけだ」
「へえ、なるほど」
一谷の言い分ににやにやと理人が笑っていると、一谷は頬を赤くしながら「失礼するぞ」と店内に入ってきた。
《舞台感想》
カフェーがちゃんとカフェーでした。三宅さんが三宅さんでした。
……いや、本当にほぼ台詞が無いのに、カウンター奥にいる老紳士の三宅さんの存在が!
私が三宅さん好きなせいもありますが。あ、理人がちゃんと給仕をやっていた。
そしてカウンターの端っこにいるカホル君がカホル君でした。
すました大人びた口調も、激おこな淑乃に怯えて新聞を持つ手をプルプル震わせるところも可愛い。
激おこな淑乃にすげなくされる理人。
そして、不審な行動をする一谷。
二回舞台を観劇したのですが、理人に見つかった時の反応がそれぞれ違うアドリブ。細かい…!
……いやー、2年前なのに案外記憶に残っているものだ。
こんな感じで、一日二~三話ずつアップしていきます。