優しい時計の音
僕は腕時計にそっと耳を当てる。
これが癖であり、僕の習慣だ。
一年前に亡くなったお婆様が僕のために特注で作ってくれた、この時計を相棒のようにいつも身につけていた。
「あなたの時計はよっぽど良い音が鳴るのね。」
あの日、僕を見ていた君が声をかけてくれた。
「なぜ?」
「だって、いつ見てもあなたはそうやって時計の音を聞いているんだもの。よっぽどいい音が鳴るんだろうなって思っていたのよ。」
それが僕と君の出会いだったね。
色んな話をしたね。
大学の芝生に寝転んで、たわいも無い戯れ合いをしたものだ。
君の、コロコロ笑う笑い声が僕は何より好きだった。
ある時、君は言った。
「私、将来は絵本の挿絵を描きたいの。」
僕は素敵な夢だと思った。
「あなたは?」
「僕は…。」
「教えてよ。絶対笑ったりしないから。」
「僕は…作家になりたいんだ。」
「あら!本当に私たち似たものどうしね!あなたが書いた本に私が挿絵を入れる。こんなに素敵なことないと思わない?」
あぁ、それが現実になったらどれほど嬉しいだろう。
僕はその時、願わずにはいられなかった。
どうか、どうか、僕たちにもっと時間を下さいってさ。
でも、今、僕の前に君はいない。
大学を卒業と同時に、君の前から姿を消したからだ。
なぜそんなことをしたのかだって?
そりゃそうさ。なぜなら、僕はもう君の顔を見ることができないからだ。
僕は高校生の頃に原因不明の眼の疾患に侵された。時が経つにつれ、段々と視野が狭くなるそうだ。
君と出会ったあの頃は、君の顔がうっすらと見えていたけど、今では明るいか暗いかしか判別がつかない。
そんな僕が君のそばにいたところで、君の迷惑にしかならないことぐらい、僕だって分かったのだから。
僕の願いは、君が幸せになること。ただ、それだけなのだから。
僕が幸せにする役をできればもっとよかったのだけれどね。
まぁ君なら、誰かにじゃなくて、自分で幸せになる!っていうかもしれないけれど。
でも、もし、今一言、君に伝えられるとしたら、僕は作家になったよと伝えたい。
挿絵のない点字専門の作家だから、半分、夢が叶ったってとこかな。
君はどうしているだろう。
夢を叶えたかしら?
幸せかしら?
僕じゃない、もっと優しい人の横で、僕が大好きだといった、あのコロコロとした笑い声をあげていてほしい。
それが、僕の心からの願いなんだ。
僕は今日も時計に耳を当てる。
時計が呟く。
「現在の時刻は午後14時10分です。」
ってさ。