牢からの解放
その日。
階段を降りる複数の足音が聞こえてきた。日頃は食事を届ける老婆と衛兵ひとりが彼女の世話をしているのだが、今朝は違うようだ。
──父が来たのね。
マリーナの感覚は鋭い。体内のマナ量が人よりも多いぶん、感受性が鋭いのだ。
予想通り、衛兵に先導された父が鉄格子前に立った。
シワが増えた顔は、にこりともしない。以前より老けた顔をみると、罪悪感にチクッと胸が痛む。こんな感情を持ちたくない。心が痛みに溺れ泣きたくなる。
「懲りたか」
「お父さま」
声がかすれ、うまく話せないことに驚いた。
老婆も衛兵も彼女と話すことを禁止されている。だから、声を出すのは久しぶりだった。
父が合図すると、牢の鍵がガチャリと外され鉄格子が開いた。
「出ろ!」
「……出ません」
「よかろう」と、父が彼女の倍もありそうな頑丈な衛兵にうなずいた。
衛兵がマリーナを抱きかかえようとした瞬間、彼女は目をとじ、そして、凛とした声で命じた。
「控えよ!」
マリーナの気迫が牢内に響く。
その声は、ラドガ辺境国最高権力者であり執政官でもある父でさえ、たじろがせるほどだった。
「マリーナ! どれだけ国民やわたしに恥をかかせる気だ」
父の怒声が飛ぶ。
「では、なぜ、ここから出るのか、お教えください」
父の顔が歪み、「まるで、カーラのようだ」と、うなった。
カーラとはドラゴンに殺されて氷柱となった実母の名前だ。
残酷な人だったとしか覚えていない。父も、おそらく母に怯えていただろう。
ヘルモーズ大公は婿であり、カーラ・ド・ヘルモーズと結婚することで、今の地位を築いた。母のことは幼い頃に亡くなったので、あまり記憶にないが。
マリーナは18歳になるまで、森に囲まれた州侯の地元、ミルズガルズ州にある湖畔の城で育った。だから、ヘルモーズ家の本城に来たのは舞踏会のためだけで、1ヶ月ほどしか滞在していない。
「明後日にはフレーヴァング王国へ立つ。身支度を整えよ。反抗するなら、縄をかけよ」
「はっ!」
父の背後から、別の衛兵が前に出た。
マリーナの見知った顔はいない。
彼女は、すぅっと背筋を伸ばし、前に進み出る。衛兵たちはどう扱ってよいのか困っているようだ。
マリーナが顔を上げて歩きはじめた。彼らは、ほっとして後に続く。
薄暗い牢内から階段を上ると、朝陽がさしていた。
眩しい光に目が痛む。
「そう、はじまったのね」
従者がマリーナを見た。
その視線を無視して、1ヶ月ぶりの外気に目を細めた。
冬の季節だが、この地は一年中夏がつづく。風が生暖かく、空気の匂いが新鮮で、太陽光が痛い。どこからか、甘やかな花の匂いまで漂ってくる。
「マリーナ」
「お父さま、自分の務めは理解しております」
父は返事をしなかった。ただ、ともに彼女の部屋まで戻ると、中へ入って来た。
父が右手で指示を与える。
お付きの者たちが消え、ふたりきりになった。
氷のような沈黙に彼女は耐えた。
「お前は、どれほどワシに、そして、この国に恥を与えたかわかっておるのか。交渉は有利とはいかないだろう」
父は冷たい怒りを向けた。
言葉もない。
彼女は顔を伏せたまま、頭上から響く声を右から左へと流した。
「フレーヴァング王国のヴィトセルク王から、慇懃にも、結婚式前に我が国にお忍びで来られたとは光栄だと言ってきおった。その時の気持ちがわかるか!」
「……」
「さらに、もう結婚式までは来るのは無用とも付け加えおった。あの国王は若いが優秀な政治家で策略家だ。すべてを呑んで、お前を送り返してきおったわ」
「申し訳ございません」
「黙れ! 聞きたくないわ。この愚か者、どうしようもないバカものが!」
それから父は、ドカリと椅子に腰を下ろすと額を手で抑えた。
長い時間がすぎた。
内庭にある噴水から水が吹き出す音が聞こえ、しばらくして途切れた。噴水は一定時間吹き出すと、止まる仕組みになっている。
父が声を落として、やっと言葉にした。
「お前を愛しておる。わかるか、父はお前を愛していたのだ」
マリーナは、そこに哀れな老人を見る思いがした。
「お父さま」
「お前に裏切られたワシが、どれほどの思いをしたか。フレーヴァングの奴らが、なんと言おうとも」
「お許しください」
「マリーナ」
「ヴィトセルク王と結婚をいたします。そして、この国のために働きます。そう約束して……、彼と別れてきました」
父は顔を上げると、唇を曲げた。
「子を産め、娘よ。フレーヴァングのような弱小国家、滅びてもかまわん。ただ、あの王家はこの世界のどこよりも長い歴史を持つ。その一点だけは、どんな超大国もフレーヴァング王国には勝てない。我がヘルモーズ家のような、成り上がりの3代目など太刀打ちできない歴史と権威と名誉を持っている。その血筋を入れよ。子どもを産んで戻って来い。その子が、ヘルモーズの跡取りになる。そして、ヘルモーズ家はラドガ辺境国の終生執政官の家柄となるであろう」
ヘルモーズ卿は顔のシワを寄せ、皮肉な顔を浮かべた。
ラドガ辺境国最高権力者であり、執政官。すべての権力と富を得た男が目指すもの、それは金では買えない名誉と権威なのだ。
「おまえは、年を追うごとにカーラに似てくるな」
父は呟くと、両手で顔を覆った。
父母の関係を乳母アニータから聞いたことがある。父が母を畏れ、愛していたことを。
幼かった彼女にはわからなかった。ただ、父はずっと後悔しているように見える。母をフレーヴァング王国へ外交特使として送り、その結果、炎の巫女の式典で死なせてしまったことを。
——わたくしが母に似ている?
——だから、父はずっと郊外のミルズガルズの城にわたしを閉じ込めたのだろうか……。
「ご安心ください。わたくしは結婚いたしますので」
「ああ、そうだな。明日、旅立て。クロードという影武者を立ててある。好きに使え。子さえなせば、あの者を身代わりに戻ってきてもよい」
マリーナは皮肉な思いを感じながら、用心深く頭を下げた。
心にすくった闇は消えることはない。この重い心を抱えたまま、別の男に嫁ぐのだ。
ユーセイ……。彼は異世界へ戻った。
だが、この喪失感こそ生きる証でもある。
愛する人以外の男に抱かれる。彼女は了承したのだ。ヴィトセルク王にユーセイを異世界に返して欲しいと頼んだときに、彼との結婚を了承した。
その王に1ヶ月ぶりに会うことになるだろう。どんな顔をして会えばよいのだろうか……。
(つづく)