失意のマリーナ妃
かつて、大国ラドガ辺境国の至宝とも、天界から舞い降りた女神とも謳われたマリーナ姫。多くの王侯貴族から求婚され、リーラ城は彼女へのプレゼントに二部屋が埋まったほどだ。
そのマリーナが奴隷とともに国外へ逃亡したのは、極秘中の極秘である。
国際政治上、あってはならないことだ。国の上層部は、この事実をひた隠して、婚礼を引き延ばしていた。
半年後……。
リーラ城に戻った彼女を待っていたものは、父の冷酷な怒りだった。そう、父の怒りは予想通りだったが、自分のことは予想外だった。
彼を失ったことが、これほど心身に及ぶとは、自分でも信じられない。彼女は、ただ生きているだけの抜け殻で、感覚を失ってしまった。
食事をしても味がわからない。
「お姫さま、お気の毒に」と、気遣う乳母のアニータ。
幼い頃に母親を失った彼女にとって、母親代わりがアニータだ。しかし、そのアニータもいない。父によって城から遠いミルズガルズ州の屋敷へ追い出されることとなった。
アニータが去る日。
牢に入れられたマリーナを見て、彼女は涙ぐんだ。
「お可哀想に、本当にお可哀想に、私のお姫さま。こんなに苦しまれて、アニータは幸せになって欲しかったのです。このような……、おお、お姫さま」
「アニータ」
マリーナは、うっすらとほほ笑んだ。口もとがこわ張り、笑いを浮かべるのが辛い。
「おバカさんね。わたくしはとても幸せだったの。人生のすべて捨ててもいいという男に出会い。心から愛し合い。短かったけど幸せだったのよ。だから、後悔はないわ。苦しまないで、アニータ」
「お姫さま」
ポトン……、ポトン……。
天井から汚れ水が落ちる。石造りの牢は薄暗く陰気だ。
──あの人を失ったわたくしには、もう何もない。からっぽになってしまった。そう思うのは傲慢なのかしら。ユーセイに言ったら怒られそう。でも、苦しいのよ、ユーセイ。
「あの小さく無垢だったお姫さま、どうぞご心配なさらないでください。大公閣下のお怒りは、いつか溶けますでしょう。どうか、しばらく、ご辛抱なさってくださいませ」
──それは、ないわ、アニータ。父の怒りが溶けることなど、もうないのよ。
ムチ打たれなかったのが奇跡なくらいだ。
『よりにもよって、フレーヴァング王国で発見されるなど。この恥さらしが』
マリーナは奴隷とフレーヴァング王国に逃亡して隠れた。この王国は貧しく、自国のように警備が徹底されていない。隠れるには都合が良かった。その後、異世界人であるユーセイを救うために、婚約者であるヴィトセルク王に縋ったのだ。
父には耐えがたいことだったろう。
自国に戻った日、父に謝罪した。
父は、その場にマリーナがいないかのように側近に怒鳴った。ムチが床にしなり、バシリと鋭い音をあげる。
『お鎮まりを、大公さま。どうかお鎮まりを』
『ヴィトセルクはなんと言うておった』
『姫さまが結婚前にお忍びで会いに来られた。光栄だとか』
『あのタヌキが。全部、わかって、そう言いおったか。どれだけワシの立場を危うくしたら、そなたは気がすむのだ』
マリーナを地下牢に閉じ込めたのも、そういう経緯からだ。
『申し訳ございません、お父さま』
彼女は素直に牢に入ると父に平伏した。しかし、後悔など微塵も感じさせない凛とした目で見据える。それがますます父を怒らせたようだ。
……後悔などない。
本当だろうか。
寝つけない苦い夜を過ごし、ユーセイの声を聞いたように思え、はっと目覚める日々。
彼の愛撫を思い出し、夢で彼の声を聞き目覚める。そこに彼はいない。耐え難い空虚さ。
ポトン……、ポトン……。
水滴の垂れ落ちる音が聞こえる。
マリーナは、軽くため息をつき、まぶたを開けた。
この牢に閉じ込められた多くの人々の嘆きや怒りが、おぞましい臭いに結晶している。カビ臭く饐えた臭いは消しようもない。
陰鬱な場所で、数日もいれば気分は最悪になる。1ヶ月もいれば、心が折れるだろう。普通なら。しかし、彼女が普通だったことは、 今まで一度もなかった。
牢の湿った床を見ても感傷はない。
思い出すのは愛した男のことだけ。いっそ、この不快さが心地よいほど心が病んでいた。
「ユーセイ」と、声に出すと、壁に反射して木霊する。
男の身体に溺れた日々を思い返すことで、胸に開いた穴をさらに広げる。心が切り裂かれるように痛かった。
愛した男は異世界に戻り、彼女はここに囚われている。
──これからの生涯は、余生でしかない。
ユーセイに出会うまで、父の望むままに生きてきたマリーナ。異世界から来た男は、そんな彼女に自由と愛を教えた。
彼と過ごした濃密な時間は忘れがたく身体に刻まれている。
耳元で、彼がささやく声が今も響く。
はじめての夜。『目をとじて』と、彼は囁いた。
あの最初の夜。
とろけるような優しさで、まるで弦楽器を爪弾くように、彼女の肌を繊細に確かめ快楽へと導く。羽毛が通り抜ける、触れるか触れないかの、彼の感覚……。
焦らされる快感に耐えられなくなり身体が熱く火照った。
『あなたは美しい』
彼は胸が痛くなるような声でささやいた。
あの日から半年。
毎夜、毎夜、まるで最後の夜のように濃密な時を過ごした。
その結果が、この牢だ。今日が何日かも定かではない。
壁は雨が染み込んだせいで、ぬるりと光り彼女の顔を四方から、うつしだしている。
その顔には悲しみが張り付き、もう二度と心から笑うことはないと教える。
感情が乾き泣くことさえできない。涙は永久に干からびてしまったようだ。
「アハハハ……」
思わず、声をだして笑った。乾いた声が壁に木霊して、マリーナを、ただあざ笑う。
(つづく)