この、あつかましい王の顔を忘れるとはな
これまで女に不自由したことがなかった。彼の地位は多くの女たちを惹きよせる。しかし、まさか自分の婚約者が奴隷と逃亡するとは思わなかった。
そのふざけた女がベッドで眠っている。
──逃亡を知ったとき、レヴァルが笑ったな。
「陛下、そろそろお休みにならないと」
「よい、ここにいる」
忠実な従者アスートは黙って背後に下がった。
扉が閉じた。おそらく、彼も扉のそとで眠るのだろう。そうやって、ずっと支えてきてくれた。
いつの間にかベッドの傍らで眠っていた。マリーナの叫び声に、はっと目覚める。
「やめて! やめて。だめ……、ああ!」
マリーナが叫び、ベッドの上で両手をあげ、もがいている。
ひとすじの涙がつーっと頬を伝っていく。
「マリーナ」
ヴィトセルクは優しく声をかけると、両手を取った。
「マリーナ」
「いやぁ!!!」
「マリーナ。わたしがいる。心配するな」
ベッドでもがく彼女を抱いた。
胸のなかで、まるで恐怖に怯えた子猫のようにガタガタと震えている。
——何があったのだ、マリーナ。
壊れものを扱うように、細心の注意をして抱きしめた。
——こんなに小さかったのだろうか。
胸にすっぽりと収まる彼女は幼い子どものようだ。
「震えるな、マリーナ」
「あ、あなたは、あ、あなたは。魔術師は?」
ナイトメアは記憶を奪ったと言っていた。なにを忘れたのか……。
「わたしがわからないのか」
マリーナは顔を上げると、ヴィトセルクをあおぎ見た。
「この、あつかましい王の顔を忘れるとはな」
「わ、わたくしは……、あの、いえ、恐ろしいことがあったような。陛下。ヴィトセルク陛下」
「マリーナ妃よ。わたしは、そなたの夫だ」
「夫?」
はっとして、身体を固くすると、彼女は突き飛ばすようにベッドの端に飛んだ。
「夫……」
「そうだ、マリーナ」
「わたくしは、結婚しました。そう、あの日」
「覚えているのか」
「わたくしは……」
その表情は可憐で愛おしかった。
「自分の名前は?」
「ラドガ辺境国のマリーナ・ド・ヘルモーズで、それから……」
「今は、マリーナ・ド・フレーヴァングだ」
彼女はその場に平伏した。
「お許しくださいませ、なぜかぼんやりして。あなた様と結婚式をしたことは覚えておりましたが、でも、なぜ」
「奴隷のことは?」
「奴隷?」
「どんな記憶まであるのだ」
「はい、あの、あの」
あたふたする彼女は可愛かった。
「父の城に、ラドガの州都に向かう日までのことから、結婚式とか。クロードはどうなりましたか」
「魔術師のもとだ。しかし、心配はいらぬ。あれは強い」
まったく、あの魔術師は理解不能だな。異世界から来た奴隷と出会った記憶を奪ったということか。
ヴィトセルクは首を振って、ベッドから降りた。
「一部の記憶を失ったようだな。そなたは、わたしと結婚した。そして、残念な知らせだが、この国はシルフィン王国に攻められ、明日をも知れぬ」
「ヴィトセルクさま」
優雅な所作で平伏すると、彼女は微笑んだ。
それは、はじめて出会った日の愛らしい、どこまでも可憐なマリーナの姿で、胸が痛んだ。
「今日は眠るがよい。明日、また話そう」
「はい」
素直にうなづくと、彼女は再び眠った。
翌朝早く、ベッドの傍らの椅子で眠ったヴィトセルクは、王妃の寝室から外をながめた。
第二月が地平線に隠れ、太陽が現れる。
雪はまだ降らない。
「陛下」
「マリーナ妃。起きたのか」
「はい」
昇りはじめた太陽の光を受け、神々しいまでに美しいマリーナがいた。
「今日は、このまま養生をしておれ」
「陛下。わたくしは、この国の王妃です」
「では、危険な場所に近づくな」
「わかりました」
その後の数日も城壁での攻防がつづいた。
戦闘は膠着状態に陥った。
城壁を守るフレーヴァング兵の士気は高く、はしごで城壁を登る度に、石工部隊が石を落とし、火玉を落とした。
シルフィン側にとって、初日の武器庫襲撃は、時間が長引くにつれ痛手となったようだ。本国から物資補給がままならないのは、ヴィトセルクが配した伏兵によって、阻まれるからだ。とくに、城門を破るための破城槌が燃えたため城門を破る決定的な手立てを失った。
フレーヴァング王国は勝てない。が、しぶとく負けなかった。
ヴィトセルクは縦横に兵を鼓舞した。彼が現れる場所では兵の士気が見違えるほどあがった。
夜、必ず兵たちに声をかけ、ともに食事をして最後に監視塔から眺めた。
どれほど疲れていても、マリーナの顔を見ると癒された。
その夜、最後の監視塔でシルフィンの陣営を見ていたとき、マリーナの声が聞こえた。
「陛下」
「陛下とは呼ぶな」
「なんとお呼びすれば」
「マリーナ。昨日も言ったであろう。ヴィトでよい。親しいものは、皆、そう呼ぶ」
「ヴィ、ヴィト」
彼女の頬がほんのり赤く染まる。なんともいじらしい姿だ。
「どうだ、記憶は。すべてを忘れてしまったのか、数年を思い出せたか」
「あ、あの」
「なんだね」
「スープを用意いたしました」
ヴィトセルクは驚いて、背後に控える侍女を見た。
「作ったのか」
「食料が減っていますが、あなたによって兵や人びとが大いに支えられています。人の十倍の負担を抱えてらして。少しでも、お身体のたしになりますように」と、マリーナがほほ笑む。
この表情、奴隷と逃げる前の無垢な彼女だった。初対面で惹きこまれた人がそこに膝を折っている。
どれほど疲れていようとも、刃傷や矢傷で血を流そうとも弱音を言ったことはない。だが、はじめて彼は、「参ったな」とつぶやいた。
「どうなさったのですか?」
「今は、その話をよそう。寒くなってきた。風邪をひくぞ」
マリーナは侍女から湯気のあがるスープを受け取ると、それを差し出した。
「温かいうちに」
ヴィトセルクが目配せすると、周囲にいた衛兵たちが顔を伏せたまま引き下がった。
監視塔の壁を背に、じかに石畳に腰をおろしてスープを口に含む。
寒さに凍えた身体に、じんわりと熱が伝わる。
「マリーナ」
「はい」
「横にすわれ」
彼女は素直に従った。
何も話す必要はない。ただ、かたわらにいるだけで、暖かい幸せに包まれる。
ふたりの唇から白い息が吐き出される。
明日も激闘が予想される。
だが、今、幸せだった。
横を見ると、すこし恥ずかしそうな彼女が下を向いている。愛おしい。これほど女に愛おしさを感じたことはない。
触れたいと強く念じた。
そのしなやかな指に、少し広めの額に、透き通るような肌に、細い壊れそうな肩に……。
指を途中でとめ、拳を握った。
明日も生きてられるかはわからない。だが、この女だけは守りたい。
「……あ、あの、ヴィト。お疲れですか?」
「いや、そなたがいれば、疲れも癒える」
暗がりにマリーナの笑みがこぼれた。
夜は深い。雲で隠され星明かりもないが、そこだけ光り輝いているようだ。
彼女は小さな造りの顔を傾け彼を見つめる。その愛らしさに、思わず手が伸びた。
と、マリーナが不思議そうに呟いた。
「前にも、あったような」
「どうした」
「いえ、むかし、そんな目でわたくしを見つめていた人が……」と、彼女はつぶやいて首を振った。
「いえ、陛下」
「ユーセイという名前を知っているか」
「どなたですか? 聞いたことがありませんが」
あの魔術師は異世界から来た男を完全に忘れさせたのか。あるいは、その方が彼女のためなのだろうか。
——だが、わたしは苦しむことになるだろうな。妃の愛が本物かどうかと。
——ナイトメア、おまえは正にナイトメアだ。
「どうされたのですか? 苦しそうなお顔をしてらっしゃいます」
「マリーナ、わたしは王だ」
「はい」
「だから、一度しか言わない」
マリーナの穏やかな顔が間近にある。
「そなたを愛している。全力で守りたい。しかし、今は、あまりに非力な王でもある」
「陛下」
「黙って、聞いてくれ……。そんな顔をするな。心がゆらぐ」
「……」
「もう城壁は耐えきれない。冬を期待したが、持ちこたえるのは難しいようだ。できうる作戦はすべて尽くした。あとに残る作戦は……、死闘のみ」
「陛下、わたくしも王妃として、お供します」
「マリーナ。わたしの願いはひとつだけだ。聞いてくれるか」
「なんでも」
「生き延びてくれ」
王となるべくして生まれたが、親の愛は知らない。母親の身分は低く会うことも叶わなかった。
これまで女に不自由したことはない。彼を拒絶した、はじめての女が最愛の女性だったことは不幸なのか。あるいは、拒絶されたから、愛してしまったのだろうか。その答えを彼はもっていなかった。
「明日、明るくなる前に城から落ちのびよ」
「陛下」
「そなたはラドガ辺境国の姫だ。シルフィン側もそなたに危害は加えない。明日、川を下れ」
「わたくしは王妃です」
「そなたと離縁をする。元気で暮らせ」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、そのまま足早に階段を降りた。
背後から、「陛下」という声が聞こえたが無視した。立ち止まれば、彼女を抱きしめ、二度と離せないと思う。
「ヴィトセルク陛下! ヴィトセルク・リングラール・フレーヴァング!」
凛としたマリーナの声が聞こえてきた。
(つづく)




