表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/47

心に流れる涙



 ザッザッザッ。


 砂埃すなぼこりをまき上げ、森の公道を抜けていくシルフィン軍。規律が厳格に守られ訓練された軍隊だ。

 マリーナは、その威容に驚きながら大木に身を隠した。


 兵たちの表情を観察する。どの顔も士気は高そうだ。


 隊の途中には、身体が大きいオーク軍団も含まれていた。

 大きな鼻がひしゃがれた醜い顔。身体からは白い湯気が立ち上り、もやのようにまとう。彼らは残虐な戦士だ。


 ──とても勝てるわけがない。父は黙殺するかも。あるいは、もうシルフィンと話しがついてるかもしれない。ヴィトセルクは失敗したようね。でも、あの王には恩がある。父を説得できる何かがあれば……。


 周囲を見た。別の樹木に隠れるクロードの顔も血の気が引いている。


 兵は次から次へとあらわれ、フレーヴァング王国を目指していく。


 ゴロンゴロンゴトッ、ズズン、ズズン。

 大地を揺らすような音が聞こえてきた。


 森の高木を突き抜けていくような、巨大な建造物が何台も向かって来る。

 巨大な梯子のような設備が装着された機械。人間と運搬用のケダモノが数匹、その巨大な建造物を引いていた。


「あれは、なに?」

「巨大だな」と、エイクスも驚いた顔をして見ている。

「あれは……」

「おそらく、ウルザブ川にかけて、簡易的な橋にするつもりか。こちらが橋を落とすことを見越しているのだろう。その後は、城壁を登る梯子にも使えそうだ」


 胸にドクドクと血液が流れ、緊張で手に汗がにじむ。


 ——静まれ!


 マリーナは落ち着こうと心のなかで怒鳴った。

 おそらく、フレーヴァング城を守る味方の兵は数千人くらいだろう。


 城は陥落する。

 それも、巨大ドラゴンが小動物を軽く踏み潰すほどのレベルで、大敗北する。


 ——ヴィトセルクは知っているのだろうか?


 彼の落ち着いた凛々しい顔が思い浮かんだ。あの顔が恐怖で歪むなんてあるだろうか。ぜったいに彼は心の動揺を他には見せないだろう。


 短い期間しか知らないが、そういう男だと思う。

 あの男の命がいつまで持つのか。


 側にいてやりたいと思った。その自分の心の動きに驚いた。


 半年前に愛する人を失った。手足の感覚がなくなり、なにもかも、どうでも良くなった。その投げやりな感情にヴィトセルクが強引に侵入してくる。


 これまで自分であって自分でなかった。

 それは悲しいのだろうか。

 それとも……。


『いいか、わたしを見ろ』と、彼は言った。

『わたしが忘れさせてやる。目を開けて、わたしを見ろ』


 あの夜、強引にベッドに来たヴィトセルク。

 彼の愛撫は女に慣れたそれで、信じられないほど優しかった。本心を見せない彼が酒の勢いでマリーナを抱いた。でも、実際は酔ってなどいなかったと思う。

 冷静で、けっして本心を見せない。そんな彼が、あの夜、まるで欲望に負けた獣のようだった。


 全てが終わったとき、彼の目は暗かった。


『すまない』と、言った声は母親に叱られた少年のようで、日ごろの自信に満ちた様子は欠片かけらもなかった。

『ヴィトセルク、謝らなくて良いわ。わたくしは妻です』と、思わず口にしていた。

『マリーナ』


 彼の声は苦痛に歪み、泣いているようだった。


『マリーナ、マリーナ』


 何度も彼女の名前を呼び、そして、気づいたときは子どものように眠っていた。

 ヴィトセルクの仕事は激務だ。疲れもあるのだろう。その裸の姿は無防備だった。


『おやすみなさい、ヴィトセルク』と声をかけると、眠っていると思っていた彼の唇が『おやすみ』と呟いた。


 次の瞬間、彼の唇から寝息が聞こえてきた。


 マリーナは、その夜、はじめて夢もなく熟睡できた。


 彼女が溺れた異世界から来た男は、自分の世界に戻る前日に、こう言った。


『あなたに、僕ができることは少ない。この世界で、これからも長く生きていくあなたが幸せであって欲しいと、心から祈るだけです』


 本心だったろう。しかし、その言葉が辛かった。


 誰にも渡したくないと言って欲しかった。

 奴隷だった彼を金で解放したマリーナは、それゆえに確信が持てず彼の愛を疑い、さらに溺れた。


 ユーセイとともにいて安心などできなかった。彼の「愛している」という言葉は氷のようだった。


 ヴィトセルクの愛情はまっすぐだ。

 自分を愛していることは態度や目をみれば、すぐにわかった。

 彼の側にいると安心できる。


 あの激しい夜。

 目覚めると、ヴィトセルクの姿はなかった。


 ヴィトセルク……。

 彼を殺してはならない。もし、そんなことになれば、後悔する。


 どうしたらいい。


 シルフィン帝国の進軍は兵法の常識にはあてはまらない。冬に向かう時期に他国に進軍するなどありえないことだ。

 それでも進軍したのは、この圧倒的兵力で、一気に片をつけると確信できているからだ。


 間に合うだろうか。


「急ぎましょう」と、マリーナは言った。


 クロードとエイクスも寡黙かもくになった。

 ウルザブ川に戻って、船に乗る。

 をこぐエイクスは、何を考えているかわからない。クロードは震えているようだ。


 川幅は海に向かって、徐々に広くなっていく。

 下流へと、流れに任せて走っていく。


「マリーナさま」と、クロードが考え深げな様子で言った。

「俺たちは、もしかしたら、ヴィトセルク王によって、逃がされたのではないでしょうか」

「どういう意味ですか」

「援軍ではなく、王は、あなた様の無事を願ったのでは」


 はっとして、彼の顔を見た。


 まさか、いや、そうだろうか、いや、ありうることかも。

 クロードがこちらを見て頷いている。


「エイクス!」

「なんでしょうか」

「もしかして、知っているのでは?」

がひっかかったぞ。こりゃ、まずい」


 彼はぐ手を休めず、困ったように川に向かってつばを吐いた。


「ヴィトセルク王に、なんと命じられたのですか」

「無事にラドガ辺境国に王妃さまを届けよと」

「援軍のことは」

「この川は流れが速い、ちょっと」

「はぐらかさないで」


 これから援軍を頼むにしても、父がどう答えるのか、今となってはわからなかった。奴隷と逃亡したことで、マリーナへの信頼は失せていた。実の娘を牢に閉じ込めるような酷薄こくはくな男だ。なにより、恐ろしく小心で疑い深い。


「戻しなさい」と、マリーナは命じた。


 あからさまに嫌な顔をするとエイクスはため息をついた。


「は? 戻すって」

「フレーヴァング城に帰ります」

「だーから、言ったんですよ。ヴィトセルク陛下にはね。俺にゃあ、王妃さまを騙せないって」

「エイクス」

「最初の出会いを思い出しますよ、勇敢な姫。だが、こればっかりは聞いてらんねえんですよ」

「エイクス」

「あなたさまの仕事は別にある。ラドガ辺境国はフレーヴァング王国と契約を結んだ。たとえ、援軍を送る気はなかったとして、あるいは、影でシルフィンとなんらかの取引きがあったとしても」

「シルフィンと、裏で……」

「そうです。そして、シルフィンは王国を滅ぼすことと、あなたさまを捕らえることを考えているでしょうな」

「なぜ、私を」

「あなたの背後には強大なラドガ辺境国が控えている」


 ふんっと鼻で笑った。


「わたくしには、それほどの価値はありません」

「そこが、わかってない証拠ですよ。マリーナさま」


 ラドガ辺境国は共和制であり、父は執政官として最高権力者、しかし、王ではない。この権力が永久というわけでもない。政敵も多い。


 フレーヴァング王の血筋が欲しいと父は言った。貧しい王国などどうでもいいと。

 それは本音だったろう。


 世界でもっとも古い王家の血を持つヴィトセルク。彼の血筋を取り込んだ後継を持つことではくをつけたいのだ。


「わがままを言われてもなぁ」と、エイクスは王妃に対する遠慮がない。


 櫓をこぐ二の腕の筋肉が張り、汗が浮かび、漕ぐ手を緩めることはない。

 さらに加速して、船は川下へと下った。


 その時だった。クロードが叫んだ。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ