心に流れる涙
ザッザッザッ。
砂埃をまき上げ、森の公道を抜けていくシルフィン軍。規律が厳格に守られ訓練された軍隊だ。
マリーナは、その威容に驚きながら大木に身を隠した。
兵たちの表情を観察する。どの顔も士気は高そうだ。
隊の途中には、身体が大きいオーク軍団も含まれていた。
大きな鼻がひしゃがれた醜い顔。身体からは白い湯気が立ち上り、もやのように纏う。彼らは残虐な戦士だ。
──とても勝てるわけがない。父は黙殺するかも。あるいは、もうシルフィンと話しがついてるかもしれない。ヴィトセルクは失敗したようね。でも、あの王には恩がある。父を説得できる何かがあれば……。
周囲を見た。別の樹木に隠れるクロードの顔も血の気が引いている。
兵は次から次へとあらわれ、フレーヴァング王国を目指していく。
ゴロンゴロンゴトッ、ズズン、ズズン。
大地を揺らすような音が聞こえてきた。
森の高木を突き抜けていくような、巨大な建造物が何台も向かって来る。
巨大な梯子のような設備が装着された機械。人間と運搬用のケダモノが数匹、その巨大な建造物を引いていた。
「あれは、なに?」
「巨大だな」と、エイクスも驚いた顔をして見ている。
「あれは……」
「おそらく、ウルザブ川にかけて、簡易的な橋にするつもりか。こちらが橋を落とすことを見越しているのだろう。その後は、城壁を登る梯子にも使えそうだ」
胸にドクドクと血液が流れ、緊張で手に汗がにじむ。
——静まれ!
マリーナは落ち着こうと心のなかで怒鳴った。
おそらく、フレーヴァング城を守る味方の兵は数千人くらいだろう。
城は陥落する。
それも、巨大ドラゴンが小動物を軽く踏み潰すほどのレベルで、大敗北する。
——ヴィトセルクは知っているのだろうか?
彼の落ち着いた凛々しい顔が思い浮かんだ。あの顔が恐怖で歪むなんてあるだろうか。ぜったいに彼は心の動揺を他には見せないだろう。
短い期間しか知らないが、そういう男だと思う。
あの男の命がいつまで持つのか。
側にいてやりたいと思った。その自分の心の動きに驚いた。
半年前に愛する人を失った。手足の感覚がなくなり、なにもかも、どうでも良くなった。その投げやりな感情にヴィトセルクが強引に侵入してくる。
これまで自分であって自分でなかった。
それは悲しいのだろうか。
それとも……。
『いいか、わたしを見ろ』と、彼は言った。
『わたしが忘れさせてやる。目を開けて、わたしを見ろ』
あの夜、強引にベッドに来たヴィトセルク。
彼の愛撫は女に慣れたそれで、信じられないほど優しかった。本心を見せない彼が酒の勢いでマリーナを抱いた。でも、実際は酔ってなどいなかったと思う。
冷静で、けっして本心を見せない。そんな彼が、あの夜、まるで欲望に負けた獣のようだった。
全てが終わったとき、彼の目は暗かった。
『すまない』と、言った声は母親に叱られた少年のようで、日ごろの自信に満ちた様子は欠片もなかった。
『ヴィトセルク、謝らなくて良いわ。わたくしは妻です』と、思わず口にしていた。
『マリーナ』
彼の声は苦痛に歪み、泣いているようだった。
『マリーナ、マリーナ』
何度も彼女の名前を呼び、そして、気づいたときは子どものように眠っていた。
ヴィトセルクの仕事は激務だ。疲れもあるのだろう。その裸の姿は無防備だった。
『おやすみなさい、ヴィトセルク』と声をかけると、眠っていると思っていた彼の唇が『おやすみ』と呟いた。
次の瞬間、彼の唇から寝息が聞こえてきた。
マリーナは、その夜、はじめて夢もなく熟睡できた。
彼女が溺れた異世界から来た男は、自分の世界に戻る前日に、こう言った。
『あなたに、僕ができることは少ない。この世界で、これからも長く生きていくあなたが幸せであって欲しいと、心から祈るだけです』
本心だったろう。しかし、その言葉が辛かった。
誰にも渡したくないと言って欲しかった。
奴隷だった彼を金で解放したマリーナは、それゆえに確信が持てず彼の愛を疑い、さらに溺れた。
ユーセイとともにいて安心などできなかった。彼の「愛している」という言葉は氷のようだった。
ヴィトセルクの愛情はまっすぐだ。
自分を愛していることは態度や目をみれば、すぐにわかった。
彼の側にいると安心できる。
あの激しい夜。
目覚めると、ヴィトセルクの姿はなかった。
ヴィトセルク……。
彼を殺してはならない。もし、そんなことになれば、後悔する。
どうしたらいい。
シルフィン帝国の進軍は兵法の常識にはあてはまらない。冬に向かう時期に他国に進軍するなどありえないことだ。
それでも進軍したのは、この圧倒的兵力で、一気に片をつけると確信できているからだ。
間に合うだろうか。
「急ぎましょう」と、マリーナは言った。
クロードとエイクスも寡黙になった。
ウルザブ川に戻って、船に乗る。
櫓をこぐエイクスは、何を考えているかわからない。クロードは震えているようだ。
川幅は海に向かって、徐々に広くなっていく。
下流へと、流れに任せて走っていく。
「マリーナさま」と、クロードが考え深げな様子で言った。
「俺たちは、もしかしたら、ヴィトセルク王によって、逃がされたのではないでしょうか」
「どういう意味ですか」
「援軍ではなく、王は、あなた様の無事を願ったのでは」
はっとして、彼の顔を見た。
まさか、いや、そうだろうか、いや、ありうることかも。
クロードがこちらを見て頷いている。
「エイクス!」
「なんでしょうか」
「もしかして、知っているのでは?」
「櫓がひっかかったぞ。こりゃ、まずい」
彼は漕ぐ手を休めず、困ったように川に向かって唾を吐いた。
「ヴィトセルク王に、なんと命じられたのですか」
「無事にラドガ辺境国に王妃さまを届けよと」
「援軍のことは」
「この川は流れが速い、ちょっと」
「はぐらかさないで」
これから援軍を頼むにしても、父がどう答えるのか、今となってはわからなかった。奴隷と逃亡したことで、マリーナへの信頼は失せていた。実の娘を牢に閉じ込めるような酷薄な男だ。なにより、恐ろしく小心で疑い深い。
「戻しなさい」と、マリーナは命じた。
あからさまに嫌な顔をするとエイクスはため息をついた。
「は? 戻すって」
「フレーヴァング城に帰ります」
「だーから、言ったんですよ。ヴィトセルク陛下にはね。俺にゃあ、王妃さまを騙せないって」
「エイクス」
「最初の出会いを思い出しますよ、勇敢な姫。だが、こればっかりは聞いてらんねえんですよ」
「エイクス」
「あなたさまの仕事は別にある。ラドガ辺境国はフレーヴァング王国と契約を結んだ。たとえ、援軍を送る気はなかったとして、あるいは、影でシルフィンとなんらかの取引きがあったとしても」
「シルフィンと、裏で……」
「そうです。そして、シルフィンは王国を滅ぼすことと、あなたさまを捕らえることを考えているでしょうな」
「なぜ、私を」
「あなたの背後には強大なラドガ辺境国が控えている」
ふんっと鼻で笑った。
「わたくしには、それほどの価値はありません」
「そこが、わかってない証拠ですよ。マリーナさま」
ラドガ辺境国は共和制であり、父は執政官として最高権力者、しかし、王ではない。この権力が永久というわけでもない。政敵も多い。
フレーヴァング王の血筋が欲しいと父は言った。貧しい王国などどうでもいいと。
それは本音だったろう。
世界でもっとも古い王家の血を持つヴィトセルク。彼の血筋を取り込んだ後継を持つことで箔をつけたいのだ。
「わがままを言われてもなぁ」と、エイクスは王妃に対する遠慮がない。
櫓をこぐ二の腕の筋肉が張り、汗が浮かび、漕ぐ手を緩めることはない。
さらに加速して、船は川下へと下った。
その時だった。クロードが叫んだ。
(つづく)




