別れ
「マリーナ!」と、ヴィトセルクの声が聞こえた。
同時にマリーナが顔をあげ、軽く下を向くと頬を赤らめた。
乗船しかけた船から降り、桟橋に戻っていく。
「マリーナ……」
「陛下」
彼女は膝を折ろうとした。その細い腰をヴィトセルクは有無を言わさず抱き寄せる。
──げっ。また、俺が見ちゃいけない場面か? エイクスなんて、ニヤッて顔を伏せてるし。でも、どこ見ても目を閉じなきゃ、見えるんだよ、俺の目は。
折れそうな細い腰を強く抱き、ヴィトセルクはマリーナの短く切った髪を愛おしそうに愛撫した。
「そなたが、わたしを愛してないことはわかっている。だが、わたしは……」
その言葉の途中で、マリーナが彼の唇に口付けた。
──おいおいおい、やっぱ目を閉じろ、クロード。見てんじゃない。てか、姫、なにしてる。もしかして、王を愛してる。いや、そんな人じゃない。どう、そんな人かわからんけど。
船が揺れた。
そっと薄目をあけると、マリーナが乗り込んでいる。ヴィトセルクが手を添えて愛おしそうに助けていた。肘から手をはなすとき、一瞬、手が震えたのを見逃さなかった。彼は手放したくないのだ。
「もう、いいんですかい」と、エイクスの乱暴な声が聞こえる。
「行きなさい」
エイクスが艪を漕いだ。川の流れに乗って、桟橋を離れていく。
その姿を、いつまでも見送るヴィトセルクの姿が見えた。
「マリーナ姫さま」
「マリーナです」
「えっと、マリーナ。陛下が、まだこっちを見ていますが」
「それで」
「お手を振るとか」
「クロード、わたくしに余り期待をしないように」
クロードは頭をふった。
──まったくもう。素直じゃないんだ。王のほうは素直すぎるがな。まだ、見てるぞ。あんな顔、マリーナ妃にしか見せないよな。
だから、クロードが代わりに、おずおずと手を振ってみた。エイクスが吹き出していた。
星明かりを頼りに、ウルザブ川を南へと下って行く。
平和だった。
順調にいけば、川を下るのに二日。中海に出て半日くらいの距離でラドガ辺境国に到着するはずだ。
キィーキィー、ドオォ
キィー、ドオォ
船尾に取り付けられた艪を左右にひねり、返すたびに水面をかく音が聞こえる。
ウルザブ川はフレーヴァング王国の南北に流れる最も大きな河川だ。
霊峰シオノン山を水源として、フレーヴァング王国を縦断、南の海へと流れていく。川の西側、シルフィン帝国の領地は途中まで峻厳な山岳地帯となり、人が生活できる場所ではない。
北から南に細長い土地がつづくフレーヴァング王国。西にシルフィン帝国、東にイオニア王国と左右を大国に囲まれた弱小国家だ。大陸の最南部から海を隔てた南の大陸にラドガ辺境国がある。
今、侵略されている国とは思えない静寂のなかを、彼らの船は下っていく。
途中、川の西側が平原になる辺りから、シルフィン帝国との国境砦と接するようになる。
ずっと艪を漕ぎ続けてきたエイクスが声をかけてきた。
「この辺りで、休憩します。先に進めば進むほど、シルフィン軍と出会う確率は高くなりますから」
「わかりました」
「姫、誰と出くわすか、わからねぇ。庶民言葉を使ってください。あなたとクロードは双子の兄妹。俺は兄貴ということにしときましょう。3人で行商をしていると」
「わかったわ、お兄ちゃん」
「そうだ、マリーナ。さすが、飲み込みが早い」
マリーナは声を出さずに笑った。
城を出てから、気のせいかもしれないが、マリーナは仮面を外したように自由に見えた。もともとは、こういう天真爛漫な女性だったのかもしれない。
「クロード」
「はい」
「兄ちゃんと呼びなさいね」
「ああ、俺はそのほうが慣れている」
「ほお」と、エイクスが唇を狭めた。
「きれいな顔に似合わん言葉遣いだが、様になっているな」
船を岸に近づけると、エイクスは艪を船体に入れ、船端から岸辺に飛び移った。その動作はいかにも手馴れており、運動能力の高さを物語っている。
筋肉質の身体は躍動感にあふれ、クロードのような繊細さはまったくない。笑うと、常に口もとが皮肉に割れ、シワが多く日に焼けた顔に男臭さが重なる。
彼は相当の手練れなんだろう。あのヴィトセルクが姫を任せるくらいだから。
この旅は隠密行動で、人が多ければ危険も高まる。少人数での行動に、ヴィトセルクが彼を選んだということは、信頼も厚い。しかし、クロードはどうしても心を許せない。
なんでだ。
心の奥を探っても、その明確な答えが出てこない。
「こんなところで野宿は辛いでしょう。だが、町で宿をとるリスクは避けたい」
「わかっています。南西の国境に近づいているのでしょう」
「そういうことです」
「それに」と、マリーナは笑った。
「案外と、野宿ははじめてのことではありません」
「でしたな。逃亡姫さま」
月明かりに、マリーナがかすかにほほ笑んだ。その顔は泣いているようにも見え、クロードは思わず、顔をそむけた。
美しく、儚く、どこか寂しげで、呼吸音が聞こえるほど近くにいるのに、なんと手の届かない方だろうか。
「では、船の近くで野宿になります。森に住む凶暴な魔物に襲われないよう、ひとりが見張りをして、しばし休息を」
「では、エイクス、先に寝なさい。ずっと漕いできたのですから」
「俺は、こういうことに慣れているんで。三日徹夜でも平気ですよ。さあ、まずは腹ごしらえだ」
エイクスは荷物から簡易的な食事と飲み物を取り出した。
「食べられるときに食べておく。ことによると、明日は食事ができないかもしれないですから」
「わかりました」
食べ物の匂いで魔物を引き寄せる危険を避けるため、焚き火をせず、簡易食をほおばった。食べ終わったころには、エイクスはいびきをかいて寝ていた。
クロードもいつの間に眠っていたのだろうか。はっと気づくと、肩を強く押されて起こされた。
「そっと、船に乗れ!」と、エイクスが囁いた。
彼はタガーを背中から抜き出して身構えている。
周囲は、ほの明るく、夜が明けようとしていた。
マリーナが隣にいた。
「なんですか?」
「わからない、魔物の一種か、あるいは……」
クロードは周囲を見渡した。彼の目は特殊だ。ふつうの人には見えないものが見える。森を凝視すると、前方、たぶん200歩ほどのところに、ひとつ、ふたつ、みっつ。仄暗く光る赤い目が見える。
エイクスの感覚も鋭いのだろうが、あれが見えているはずがない。
気配で察知したのだろうか。
森を支配していた鳥や虫の鳴き声がやんでいる。
と、ふいに、地面から振動が伝わってきた。
「これは、これは……」
「黙れ」と、エイクスが鋭い声で言う。
先ほどまで見えていた赤い目が消えた。
「消えた」と、クロードが呟いた。
「何が消えた」
「わからない。おそらく魔物か。四つ足の動物だ。目の位置が低かった。こちらを伺っていたけど……。地面の振動がはじまって、消えた」
「逃げたのか」
「おそらく。もっと他の、何か危険なものが来ている」
「ああ、この地響きは」
地響き、たしかに、これは地響きだった。
音はドンドン大きくなってくる。前方の公道からだ。
「どうする」
「見に行きましょう」と、マリーナが言った。
「でも」と、クロードは反対した。
背中が疼く。危険を感じると、背中が疼くのだ。これは、もう理屈じゃない。クロードは逃げたかった。眉を寄せると、彼は、さらに奥を見ようとした。
「これは、たぶん、兵だ」
「そう思うのか」
「思うんじゃない。確信している」
「そうか、行くぞ。姫、しばらく、ここで待っていてください。偵察してきます」
「いえ、わたくしも行きます」
エイクスは困った表情を浮かべた。しかし、抗議はせず、木々の間に生えた雑草をふみしめた。
「静かに。気づかれたら、終わりです」
「シルフィンの兵ですか」
「おそらく。フレーヴァング兵が北に向かうことはないし、これほど多勢の、それも組織だった音なら。まず、間違いなく」
背中の中心から左右が熱く燃えるようだ。
ドクドクドクと血管が脈打っている。
腰をかがめ、木の間に身を隠しながら、公道方面へむかった。枝が頬にあたり、痛みで、あっと声を漏らしそうになったが耐えた。冬でよかった。夏なら、むき出しの肌に傷を受けただろう。
前方を歩くエイクスが手で、止まれと合図した。
マリーナと彼の横に並んだ。
クロードの目には、その前から行軍する兵たちの姿が見えた。
砂煙をあげる勇壮な軍が終わりなく続く。
いったいどれほどの兵がフレーヴァング城へ向かっているのだろう。
これは、虫を叩きつぶすのに、巨大な猛獣を用意したようなもので、城が3日も持てば奇跡に近い。
「いそがなければ」と、マリーナが唇を噛んだ。
エイクスとクロードも言葉がない。彼女に従って船へと戻った。
(つづく)




