泣かないでクロード!
──まずい! こっから、どうするんだ。マリーナ姫さまぁ、なんで王に安請け合いなんてしちゃったんだよ。父親って、あの血も涙もないヘルモーズ卿だよ。牢に閉じ込められたじゃないか。忘れたのかい?
ウルザブ川を小舟で下りながら、クロードは不安だった。
今朝、目覚めたときには、こんなことになるとは思ってもみなかった。適当に姫の相手をして、こそっと逃げ、暖炉の前で本でも読もうと計画していた。それが従者に呼ばれ、ヴィトセルクの執務室に行ったら、もう最悪だ。
興奮した廷臣たちの中心に叩き込まれた。その渦の中心にヴィトセルクが静かに立っていた。彼に向かって、優雅に歩を進めるマリーナ。
廷臣たちが膝を折る。
マリーナの背後で顔を伏せながら、クロードは周囲の様子全てを視線に収めた。
浮足だった人々のなかで、ヴィトセルクの声が行きわたる。
クロードの目には、赤く染まった群衆の中心に、ふたつの静謐な青いものが立っていた。
ヴィトセルクの命を受けて自室に戻ると、マリーナから指示がとんだ。
「アトリ、ふたり分の平服を用意しなさい」
マリーナは着替え途中でクロードを振り返った。
「供を頼んでも良いか。でも、よく考えて返答しなさい。命の危険があります」
「クロードは常にともに」
「感謝します」
マリーナは侍女たちの手助けもほどほどに豪華なドレスを脱ぎ捨てる。アトリが慌てて用意してきた平服を着ると、ほほ笑んだ。
「このほうが、わたしらしい。クロード、急ぎなさい」
「は、はい」
侍女たちの前で着替えするのは、まずい。クロードは慌てた。その様子を見ていたマリーナが指示した。
「全員、部屋を出なさい。クロードと内密の打ち合わせがあります」
人々が去ると、マリーナが言った。
「これでいいわね。着替えなさい」
「マリーナさま。もしかして、わたくしのことを」
「男でしょ。知っているわ」
言葉を失った。身分の高い人間に非礼な態度だとは思ったが、思わず顔を真正面から睨んでしまった。
「驚くことはないわ。城を出るときに聞いております」
「そ、そうでしたか。しかし、お風呂とか」
「あら、わたくしの裸に興味があったのですか」
クロードは頬が熱くなるのを感じて、無意識に両手で隠した。
「クロード」と、マリーナが聞いた。
「この旅は危険です。あなたにそれを強いる気持ちはありません」
その声は優しく威厳に満ちている。
王族や身分の高い人間は下々に配慮などしない。不手際があれば、すぐにムチが飛ぶのが常識だ。
「い、いえ、その、マリーナさま」と、顔を伏せた。
「遠慮なく申しなさい。身をやつして山に逃げ、時を待ってラドガ辺境国へ戻る。それも、あなたの選択です」
どう返事をしていいのか迷った。
「クロード。そんな目をしないでちょうだい」
ふいの言葉に驚いて、クロードは彼女を見た。
「ほら、美しい顔をしかめている。あなたは会ったときから、いつも目を細め暗い顔をしていましたね」
「マリーナさま」
「もう、自由になりなさい」
「お、俺は、あの、自由で」
マリーナの手が伸び頬にとどいた。そっと頬に触れる優しい指。
「俺は、あなたさまを守るように命じられました」
「では、急ぎなさい。準備ができ次第、出発します」
用意された平服に着替えると、彼は長かった髪を肩先くらいにまで、ばっさりと切った。
「この方が動きやすい」
「そうね、ハサミを貸して。髪を切るわ」
「マリーナ王妃さま」
「マリーナと呼びなさい。今から、わたくしは平民です」
「は、はい」
「クロード。あんた、普通に話せないの?」と、彼女が笑みを浮かべた。
いきなり言葉遣いが変化して驚いた。この姫は本当に普通じゃない。こんな下々の言葉を使えるとは。奴隷とともに逃げた話を信じることができなかった。しかし、これは……。
「いや、その。俺は、平民みたいな暮らしだったから」
「そう、それで、いいわ。クロード、行くわよ。そして、男に戻りなさい。あんた本来の姿にね」
──男になりなさい。男でいいのか。オレは……。俺は。
不意打ちの言葉に驚き、胸がジンとして、そして、泣きたくなった。
誰も、親でさえも、彼を男と認めなかった。その理由は今でもわからない。
この緊急時に、はじめて彼は本来の自分に戻っていいと言われた。その言葉は思った以上に、自分が望んでいる言葉だった。
背中が熱い。ジンジンと熱を持って、身体中が喜びに沸き背筋が疼く。
マリーナ、と思わず、心のなかで名前を呼んだ。
平服に身をやつした姿でさえ誇り高く輝く女に、クロードは尊敬以上の思いを抱いた。それは、恋でもなく、情熱でもなく、もっと尊いものに思えた。
「泣かないで、行くわよ、クロード」
「失敬な、泣いてなどいない」
マリーナは、ふっとほほ笑むと、ベージュ色の上下服と普通の靴という姿で、自室をあとにした。
ふたりが桟橋まで行くと、小型の帆船が待っていた。
船尾に取り付けられた艪で漕ぐタイプの小さな船だ。
船頭に身をやつしたエイクスが、無精髭もそのままに艪に両手を交差させて身体をあずけている。
「遅くなりました」
「準備は」
「大丈夫です」
「では、姫、参りますかね」
「以前のように、マリーナと」
「では、マリーナ。楽しみましょうや」
「よろしく、エイクス。よほど、あなたとは縁があるわね」
桟橋から船を出そうとしたとき、城から足早に向かってくる背の高い男が見えた。夕陽を背にしているため、顔は影になっているが、あの堂々とした歩き方は疑いようもなくヴィトセルクだ。
常に背後に従者アスートが影のようについている。
(つづく)




