別れのとき
マリーナが桟橋で小舟を待っているのが見えた。
送るつもりはなかった。しかし、彼の身体はかってに引き寄せられていく。
「マリーナ」
思わず叫んだ。
マリーナがこちらを認め、それから驚いたことに下を向き頬を赤らめた。
──わたしは幻を見ているのか? 彼女が顔を赤らめるなんて。夕陽のせいか。バカな男だな、まだ希望を持つというのか。
マリーナは乗りかけた小舟から降り桟橋に戻ってきた。あくまでも優雅に礼をつくして。いつの間にか短く髪を切っている。男装して身をやつしても彼女の美しさは隠せない。
「マリーナ……」
「陛下」
彼女は膝を折ろうとする、その二の腕を支えて立たせた。
「申し訳なく思っている。このような弱小国家に嫁いだそなたを守ることができない。逆に助けられようとしているくらいだ」
「陛下、戻ってきます。どうぞご無事で。シルフィン帝国の狙いはあなたでしょうから」
「わたしの心配はいらない。無茶をするな。命を愛え」
「仰せのままに」
──これが最後かもしれない。だから、許せ、妻よ。
マリーナが怒ろうが、有無を言わせず抱き寄せた。
折れそうな細い腰を強く抱き、マリーナの短く切った髪に触れる。手がかすかに震えた。
「髪を切ったのか」
「お離しください」
「そなたが、わたしを愛してないことはわかっている。だが、許せ……」
その言葉の途中で、マリーナが彼の唇に口付けた。夕陽に照らされたふたりの重なった影を長く伸ばしている。
「その言葉の先は帰ったらお聞きします」
「マリーナ」
「では、行って参ります。お手をお離しください」
背中にまわした手をマリーナが強引にはずすと、ためらいもなく小舟に乗り込んだ。
かける言葉がなかった。
「もう、いいんですかい」と、エイクスが乱暴に言いながら笑った。
「行きなさい」
マリーナの声は冷静だ。
──マリーナ。
「陛下」
背後からアスートの声がした。
「陛下」
「どういう意味だ」
「陛下、どういう意味とは」
「彼女が、わたしの」
「おそれながら、それはキスされた意味を聞かれているのですか?」
ヴィトセルクは去っていく小舟から目を離すことができなかった。
この城に残るよりは少なくとも安全だろうと思う。ラドガ辺境国の執政官の一人娘を害す暴挙など、たとえシルフィン帝国でもするまい。
「陛下。今はそれどころじゃありません。とりあえず、シルフィン帝国の侵攻です」
「……」
「思うに、マリーナさまの御心を理解するよりは、そちらのほうが簡単かと」
「アスート。その口を閉じておけ」
「は!」
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ヴィトセルクの執務室は簡易的な戦略室となった。大臣たちは、自分が席を外していた間も不毛な愚痴を続けていたようだ。
「どうしたらいい」
「いや、籠城か」
「国が滅びますじゃ」
「降伏は」
「あの国がそれを受け入れるか」
滑稽なほど、あわてふためくばかりだ。
しばらくすると、規律正しい足音が聞こえて、騎士隊長たちが集合してきた。彼らは、ヴィトセルクと中庭で剣の鍛錬をする仲でもあった。
彼らは片膝をついて、一斉にヴィトセルクに敬意をあらわす。その姿に圧倒された大臣たちが、ごくりと唾をのむ音が聞こえた。
「これから軍略会議を開く」
セルファー騎士団長を頭に、彼らはキビキビと剣を抜くと、鞘をリズミカルに叩き、最後にドンっと床に打ち付けた。音が鳴り響く。
ヴィトセルクは若い。しかし、幼い頃から苦労をしてきた彼は、年齢よりも老成し、なにより戦略家だ。
この戦い、スピードしか命綱はないと深く理解していた。おそらく、フレーヴァング内で、時間の重要性に気づいているのは、若き王と老獪な騎士団長のセルファー、そして、ウーシェンくらいだろう。
「陛下! ご下命を」
セルファーは騎士隊長を背後に従え、片膝をついた。
「城壁外に住む国民を城郭内へすべて避難させよ」
「噂がまわるのは早く、すでに近くの民は城壁外に集まっています」
セルファーが低く凛とした声で答える。
「それは良い、すぐ城壁内に入れよ」
黙って控えていた宰相グリングが難色を示した。
「しかし、それは、これまでの前例から外れることに、陛下。城郭内に住むのは貴族の家系のもの。庶民が入るなどあってはならないことですじゃ」
グリング宰相は、嫌悪感もあらたに顔をしかめる。それをヴィトセルクが一喝した。
「身分やしきたりを問題にしている場合ではない。国を守るのだ。セルファー、指示を頼めるか」
「は!」
「そして、ここがさらに肝心だ。100騎ほどの部隊を選び、避難が終わってから、城壁外の村々にある家をすべて焼き尽くせ、食料を敵に残すな」
「しかし、陛下。それでは、民が王家に反発いたしますじゃ」
またしても、グリング宰相が声を挟んだ。ヴィトセルクは無視して、命令を続けた。
「城郭内に入れた国民を一箇所に集めろ、わたしが説明する」
騎士団長セルファーはいかつい顔をしかめた。その頑固そうな顔にヴィトセルクは、口早に説明した。
「雪がふるまで城を持たせるのだ。それまで持ちこたえることができれば、万に一つの勝機が見える。そのためには、敵に家や食料を与えることはできない。国民を奴隷に落としてはならない」
「承知しました、陛下」
セルファーは部下の一人を選ぶと、「信用のおける百人隊長に命じよ! 村を焼き尽くせ」と命じた。
「第二団隊隊長の顔が見えないが、どこにいる」
「城門の警備に控えております」
「ウルザブ川にかかる橋をすべて破壊するよう、第二団隊隊長に伝えよ」
「は!」
ヴィトセルクの命令が飛んでいく。
戦略室となった執務室の中心には、フレーヴァング王国の地図が広げられ、ウーシェンが現状の敵勢力を分析していた。
籠城しかない。それはウーシェンとの一致した作戦だ。
シルフィン軍は港湾を占拠し、フレーヴァング王国と境にある砦を攻略。それから北へ向かい全軍が黙々と進軍して来る。
その報は刻々と届いていた。
砦や村は略奪され、民衆は捕虜になるか、殺害されるか。
南から多くの難民が城をめがけて押し寄せて来た。
フレーヴァング王国の総人口は30万弱。その全員を城で匿うことなど不可能でもある。
「陛下、続々と難民となった国民がフレーヴァング城を目指しておりますが」
「南から逃げてくる人々か」
「おそらく、これから、ますます増えてくるでしょう」
「周辺の村人たちを城内にかくまったのち、城門を閉じよ」
「し、しかし。それでは逃げてきた民が見殺しになります」
「救護隊を組織して、逃げてくる者を城から北へ逃がしシオノン山の麓の村へ送れ。フレーヴァング城の城郭で敵は止まる。奴らが奥に攻める意味はなかろう」
「わかりました」
「食糧大臣」
「はい」
「食料貯蔵庫がどれだけ持つか、早急に調べさせよ。どのくらいで調査できそうだ」
「一両日には」
「遅い! 半日の猶予で、すべてを調べよ」
「わ、わかりました」
次々と到着する報告は絶望的なものばかりだ。シルフィン帝国は全勢力で、こちらを叩き潰しに来ている。実際、本格的な冬が来る前に、勝ちを決めたいのは確かだろう。
帝国側の総兵力は100万人。その三割が攻めて来たとしたら30万人は下らない兵数だ。
そこに、城壁を壊す石投げ器や竜騎兵が加わったとすれば、まさに、圧倒的な軍勢だった。
(つづく)




