孤独な王
「マ、マリーナ、お、王妃さまはさびしがっておられます」
ヴィトセルクは鼻で笑った。
「本人の言葉でなかろう」
するどい視線は何もかも見通しているようで、嘘がつけない。
それにしても、なんと落ち着いた渋い色気を持つ男だろう。
フレイアが狂ったのもわかる。なぜマリーナ妃が関心を示さないのか、そちらの方が、よっぽど不思議だ。
「あ、あの」
「言うわけがないであろうな」
声に寂しさが滲んでいる。
「まあ、良い。こちらのソファにすわりなさい。聞きたいことがある」
「は、はい」
ぎくしゃくとした足取りで、示されたソファに腰を軽く下ろした。
「そのソファだよ。君のご主人であるマリーナ妃が、頼みごとをしに来たとき、すわっていたのは」
「マリーナさまが」
「クロード、君は何も知らないのだろう。ちがうかね」
「はい」
「そうか」
「陛下。こんなことを申し上げる無礼をお許しください。どうしてもお聞きしたいことがございます」
「なんだね」
彼の視線は優しい。思わず、その胸にすがってしまいたくなる。
──どんな女だって、彼のような男と結婚したいと夢見るんじゃないか? 俺は男だけどな。でも、ちっとだけ、よろめいたぞ。カール! どこにいる。助けにこんか。俺、いったいどうしちゃったんだろう。教えろよ。
「陛下はマリーナ妃殿下を愛していらっしゃらないのでしょうか」
彼は皮肉に唇を歪め、おおらかな声で笑った。
「君は正直でまっすぐだな」
「はい、変わり者とも言われていました」
「そうか……」
「あの、陛下?」
「愛していないのは王妃のほうだ」
否定できたら、どれほど良かっただろうか。だが、それは事実だ。愛しても、憎んでもいない。彼女は無関心なのだ。感情がない。
「数ヶ月前のことだ。彼女はわたしに会いにきた。従者もつれずに、必死の形相で、それは一途にな」
彼はくつろいだ様子で酒を口に含んだ。
「妃にはじめて会ったのは、その1年前だ。舞踏会にデビューしたばかりの可愛らしい人で、誰もが彼女に魅入られていた。あの頃の彼女を知れば、君は驚くだろう。そうだな、ある意味、今の君と似ている」
「わ、わたくしと、ですか」
「そうだ。純粋で汚れがなく。素直で」
「俺は素直なんかじゃ」と、やんちゃな声で言ってから、両手で口を覆った。
驚いたあまり、訓練された姫の態度を忘れた。ヴィトセルクが唇をかすかに曲げてほほ笑んだ。
——クッソ、やっぱ、付け焼き刃の訓練じゃあ、すぐ素がでちまう。
「だがな、クロードとやら。半年後に会いに来たマリーナ妃は、まったくの別人だった。男によって愛され、肌に湿り気を帯びた大人の女性になっていた」
噂で聞いた話と同じ。
リーラ城でマリーナの代役として訓練を受けたとき、耳にした噂は、やはり事実だったのだ。
マリーナの愛した奴隷は異世界へ戻ったと聞いた。
それを手助けしたのが、エルフの血を引くレヴァル侯爵。マリーナは結婚から逃げた相手に、頼みに来たのだ。
ヴィトセルク王はどんな気持ちだったのだろうか。
王族全とした態度で、そこに佇む彼の感情はわからない。しかし、マリーナを愛している。それは、自分を見る目でわかった。
クロードを透かして、彼はマリーナに話しかけている。
「申し訳ございません」
「なぜ、謝る」
「わかりませんが、ご不興を買ったかと」
「ああ、そうだ。不快だったよ、正直に言えばだ。王族の結婚は政略以外にありえない。マリーナ妃とは、最初から政治上での結婚にすぎず、期待はしてなかった。しかし、1年前、舞踏会ではじめて彼女を見た瞬間、わたしは恋をしたんだ」
「こ、恋」
なんて正直な人だろう。率直な言葉で語る彼の声に嫉妬さえ感じる。
「だが、彼女は夢中な男がすでにいた。プライドも何もかも捨て、彼の命乞いのためにわたしに抱かれに来るほど、愛する男がね」
「そんなことが」
「数ヶ月前だ。彼女は、ちょうど、そこに座り、わたしに懇願した。奴隷を異世界に戻してくれと」
「なぜ、その男は戻らなければならなかったんだろう」
「この世界の空気が彼には合わなかった。男は酸素を吸う世界から来た。二酸化炭素を吸う我らとは違う。だから、ここの空気では身体が弱り、長くは生きられなかったのだよ」
「異世界って、本当にあるんだ、いや、あるんですね。夢のようです」
「行ってみたいのかね」
「どんな世界だろう。物語の世界のようかも」
ヴィトセルクは嬉しそうに笑った。
「君も好奇心が旺盛だな。わたしは、その世界に行った男を知っている」
「誰ですか」
「謁見場であったろう。レヴァルだよ。エルフの血を引く男だ」
脳裏にレヴァルの姿が浮かんだ。人間とは思えない天界の美。プラチナブロンドの髪。そうか、エルフの血が入っているのか。
「あの、あの美しい人ですか」
「おや、レヴァルは、どこでも人気者だ。奴から、とんでもない世界だと聞いた。この世界とは全くちがうらしい」
「どう違うのですか」
「空を飛ぶ船があるそうだ」
「空を飛ぶ……。魔力で?」
「いや、そうではない。レヴァルに聞くといい。ただし、厄介な男でね。人に打ち解けるのに時間がかかる。さて、わたしは、まだ仕事がある」
「あ、も、申し訳ございません。わ、わたしのような身分の者に、お時間をいただいて」
「いや、楽しかった。ところで」と言って、ヴィトセルクは口ごもり、そして、黙った。
彼は王だ。普段なら、こんなふうに口ごもる男ではない。
そう思った瞬間、はっと気づいた。マリーナのことを聞きたいのだ。しかし、ヴィトセルクは右手を軽く上げた。退出せよという命令だろう。
クロードは部屋を出た。
廊下に出ると、足が震え、再び背中に違和感を覚えた。緊張しすぎたようだ。バカなことをしたから、身体が悲鳴をあげているのだ。王を謀るなんて、本来なら罰を受けたかもしれないが、普通に部屋を出ることができた。
これまでクロードが出会ったことのないタイプの人間だ。
──クッソ、惚れちまったぞ。
(つづく)