愛人の存在
ひときわ高い嬌声が聞こえた。声の方向には派手な女がいる。
──俺、きっと間違ってんだ。なんか間違った場所に来てるんだ。王宮ってのは華やかだけど。マリーナ妃を守れって! そんな期待しないでくれ、マルニガン先生。うっわ、あの女、こっちくる!
真っ赤なドレスに身をつつんだ女が、まっすぐ踊るように、そして、威嚇するように近づいて来る。
順番を待っている人びとを押しのける姿は傍若無人だった。
どの人も道をあける訳ではないが、かといって止めるでもない。嫌そうな態度で、彼女の振る舞いを我慢している。
女は妖艶だった。
胸を限界まで見せたドレス。おまけに花嫁と同色の赤いドレス。この場で赤いドレスを着てるのは彼女とマリーナだけで、どう考えても礼儀に反している。
彼女のこぼれそうな乳房がたわわに上下して、細い腰が強調され小悪魔的だ。
なにより、黒目がちの大きな目と真紅の唇が色っぽい。
男たちは無意識に彼女の豊満な肢体を舐めるように愛でる。存在がセクシーに特化している。
クロードはあわてた。
直感で、この女は敵だと感じたのだ。
「マリーナ妃」と、女は、わざと妃の部分を小さくして、まるで呼び捨てに聞こえる声で呼んだ。
彼女は立ったままで、一段高い謁見場の椅子にすわるマリーナと顔の位置が同じになっている。
わざとしているのだろう。そんな無礼を許してもいいのか。
クロードはマリーナの背後で、近くにいる王国側の使用人に聞いた。
「あれは誰?」
「フレイアさまよ」
「フレイア?」
小間使いが訳ありげにほほ笑んだとき、けだるげな声が聞こえた。
「フレイア・ド・オッタル公爵夫人でございます」
挑戦的にフレイアが自己紹介した。
一拍おいて、マリーナは返答した。
「お会いできたことを喜びます」
──そこ、喜ぶな、マリーナさま。
しかし、声は他の貴族に対したときと全く変わらない。
平坦な口調は一律で、その一言だけで終わる。多くの人びとは彼女の威厳と美しさに気圧とされ、言葉をのみ、挨拶してすぐ背後に戻る。
しかし、フレイアは違った。
肉感的な身体をゆらし、乳房を見せつけ、定まらない視線を、ゆるゆると動かす。
マリーナの背後に控えながら、クロードはそのうわべの笑顔に邪悪なものを感じた。
「わたしは、ヴィトセルク王の非公式の妻よ」と、彼女はほほ笑んだ。
誰も驚いた顔を見せない。
つまり、誰もが知る公的な愛人ということだろう。
マリーナの表情を捉えながら、フレイアを見た。
炎が見えるとしたら、まさにフレイアの身体は赤々と燃えている。
二人は見つめあっているようだ。
すずしげな視線と、燃えるような情熱的な視線。
クロードはマリーナがわからなかった。彼女は愛人を気にも止めていない。
彼女は大人なのか、それとも、他人に興味がないのか。あるいは、自分にさえ興味を失っているのか。
その時、左側からざわめきが起き、人びとが順々に平伏していく。
大股に歩いてきたのは、ヴィトセルクだった。王太后をエスコートしてその場から去ったと聞いたが、戻ってきたようだ。
彼はまっすぐに王座に向かった。
フレイアの顔に喜色がうかび、踊るように振り返る。
「ヴィトさまぁ」
なんとも色っぽい妖艶な声で、彼女はヴィトセルクを呼ぶと、軽く膝を折った。乳首が見えるくらい深く胸を突き出している。
その様子を冷たい視線でマリーナが観察していた。
クロードはハラハラした。
女どうしの戦争に火蓋が切られるはずだ。しかし、王妃には戦う意志がない。
愛人に主導権を奪われても問題ないとでも言うのだろうか。
「これは、オッタル公爵夫人」
ヴィトセルクは笑った。
「今日もお美しい」
「陛下。あなたさまのために、フレイアはいつもこうしておりますの」
「わたしの妻に挨拶に来たのか」
「はい、陛下」
ヴィトセルクは彼女の前を通り過ぎると、氷のような視線のマリーナの傍にきた。
ふいっと横目で彼女を捉え、隣の王座にくつろいですわった。
「皆の者。今日は宴だ。わが妻を鑑賞しながら、好きなだけ飲み、楽しんでくれたまえ。音楽を」
王の声は、固唾をのんで王妃と愛人見守る人びとの空気を一蹴した。おのおの自分たちのグループに戻るしかない。
フレイアは当然のように、ヴィトセルクの隣に来ると、その手に触れた。
「ヴィトセルク王」と、マリーナが呼んだ。
「なにかね、王妃」
「少々、疲れました。おおかた来賓との挨拶も終わったようですし、下がってもよろしいでしょうか」
「ほお、疲れたか」
彼の声色に皮肉な調子が含まれている。
「そなたはわたしとの約束を忘れたのか」
「いいえ、忘れてはおりません」
ヴィトセルクは余裕をもった態度で、軽く右ほほをあげ作り笑いをした。
「では、最後までいるのだな」
「仰せのままに」
「あはは、そなたを虐めるのは楽しい」と、彼が笑った。
そのとき、フレイアの顔が苦痛にゆがんだのを、クロードは見逃さなかった。
背筋を伸ばしてすわるマリーナ。その凛とした姿は一ミリも動じない。
なよなよと身体を揺らすフレイアが、さらに下品に見える。格の違いとは、こういうことなのだろう。
「では、王妃。わたしは、まだ公務が残っている。任せてもよかろうな」
「仰せのとおりに」と言ったマリーナの目は冷たい。
ヴィトセルクに取り入ろうと全く思っていない。
──そんなふうに凛としてばかりじゃ、王は逃げるぞ、きっと。経験のない俺でもわかる。いちおう男だからな。あなたは、あまりに隙がなさすぎる。それでいいのか?
ヴィトセルクの失望を同じようにクロードも感じた気がした。この氷の心を溶かすことは容易ではない。
「ヴィト、あたしも」と、フレイアが胸を押し付けた浅ましい姿が見える。
「困ったやつだ」
困った様子もなく、王はフレイアをこれ見よがしに伴って広間を後にした。
使用人たちの目が、ちらっとその方向に動いたのをクロードは見逃さなかった。このままだと、彼らは王に愛されない王妃をないがしろにするだろう。マルニガンから教わった宮廷での権力闘争を思いだす。
弱みを見せれば攻撃をしかけてくる。それは常識だ。マルニガン先生の教えだ。この会場にいる貴族たちが、コソコソと噂話しているのが目に見える。
(つづく)