無礼者が、放せ!
ピーンとした緊張感に包まれ、誰もが息をひそめた。
この場が収まって欲しい、あるいは、さらなる修羅場を。クロードの視線は会場全部を捉えていた。
「ゴフォッ」
耐えきれずに空咳をした大臣は青くなって口を押さえた。隣にいた妻が思わず「このバカ」と小さく怒り、夫の足を強く踏む。
もし恐れを感じていない人物がいるとすれば、それはヴィトセルクだろう。
「母上。ご紹介が遅れました。我が妻、マリーナです」と、彼は余裕のある声でほほ笑んだ。
「放しなさい」
「なにをでしょうか」
「ムチを離さんか。この無礼者が、放せ!」
マリーナが立ち上がると、腰を折った。
「王太后さま!」
先ほどの空咳よりも、さらに大きく凛とした声。言葉を失う人びとのなかで、その声はひときわ響いた。
王太后は顎をあげると、まるで虫けらを見るようにマリーナへと視線をうつす。その表情には明らかな侮蔑があわられている。
「そなたは」
「マリーナと申します」
「庶民のものか」
ヴィトセルクの手がムチを持ったまま下に降りる。
王太后は、イラっとした表情を浮かべ、手からムチを放した。
「ふん、下賤の生まれは、相手も下賤のようだ」
その言葉に誰もが、ぞっとしたとき、ヴィトセルクが楽団に合図した。
賑やかな音楽がはじまった。
王太后は、踵を返すと出て行った。
ほんの短い一瞬の出来事だった。
おそらく、数分もなかったが、クロードは何時間にも感じ汗が吹き出した。
ヴィトセルクは何事もなかったかのように、玉座に腰をおろし、鷹揚に右手をふった。来賓たちも何も見なかったように振る舞う。
再び舞踏会がはじまった。
──もう無理だ。俺、ここにはいられねぇ。
クロードは息を整えた。
「マリーナさま、少し席を外します」と、耳もとで小さく告げて、その場を去った。
室内用手洗所に行くためにだった。緊張のあまりもよおしたのだ。
戻ってくる途中、「クロード」という声が聞こえ、腕をつかまれた。
ラドガ辺境国騎士団の制服を着た男が立っている。
「何を、オドオドしてる」
「騎士さま、失礼いたしました」
丁寧に挨拶をした瞬間、吹きだされた。
いきなり腕を取られると、壁奥にあるカーテン内につれこまれてしまった。
「な、なにを。何をなさるんですか」
「クロード」と、騎士はほくそ笑んでいる。
「ああ、なんだ。おまえか、カール」
幼馴染のカールだった。ラドガ騎士団の凛々しい装いで髪も清潔感のある短髪で、わからなかったのだ。
「やっと気づきやがった」
「なんで、おまえがここに」
「ずっといたんだがな。おまえ、俺のこと気づきもしないな。あのエルフの血を引く、レヴァルとかいう男に惚れちまったか」
頬が熱くなった。
「な、なに、なにを」
「ほら、やっぱ見惚れてたよな。あれはエルフの血が半分だ。惚れるんじゃないぜ」
「相変わらず、カール。アホだな。なんでここにいるんだ」
「俺か? 俺はマリーナ妃直属の騎士として、結婚式に遣わされたんだよ」
「では、ずっといたのか」
「そう言ってるだろ」
「知らなかった」
「傷つくぞ。俺の分厚い心臓でも傷つくぞ、クロード」
「呼び捨てはやめろ」
「それで?」
「その侍女姿。色っぽいな」
「はっ倒す」
カールはニヤッと笑うと、いきなり顔を近づけた。
「おまえは昔から、辛いと笑う。平気だという顔をする」
「まるで、俺のことをずっと見ていたみたいだな」
「そうだ、見てたよ。いつ爆発するか、ハラハラとワクワクの連続だったぞ」と言って、カールは肩を叩いた
「ともかく、警告に来たんだよ。俺はヘルモーズ卿に従って、すぐにラドガに帰るからな」
「……」
「いいか。この結婚を喜んでいる人間ばかりじゃないらしい。気をつけろよ」
「敵がいるのは知ってるよ」
「いや、おまえは知らないんだ。ま、なにかあったら、俺を頼れ。すぐ助けにくる」
「わかったから、離れろ。この王宮では目立つだろう。こんな姿を見られたら、どう思われるか」
「クロード、俗世に囚われたな」
思いっきり顔をしかめるとカールが笑った。
クロードは彼から逃げると、背後を振り返った。カーテンの向こう側からカールが笑って手を振っている。
あの男は彼を苛立たせることが、昔からうまい。
もう一度、顔をしかめて、思いっきり舌を出すと、ドタバタとその場を去った。
もとの位置に戻ったときヴィトセルク王はいなかった。どこへ消えたのだろうか。
マリーナは王妃の座にすわり、相変わらず多くの人びとから挨拶を受けている。
氷の女王という言葉がぴったりの孤高な美しさだ。
あんなふうになりたいと、クロードは思った。どうやったら他人の思惑など気にもせずに居られるのだろうか。
だが、クロードが知らなかっただけのことだ。
彼女の心奥に淀のように溜まった悲しみと孤独。かつては、どこまでも純粋で天使のような少女だったマリーナの悲しみを全く理解していなかった。彼は愛に狂ったことがなかった。
(つづく)