むこう岸
石まみれの河原。歩きにくく、小石が足の裏に濡れた布のようにつく。
行ったり来たりを繰り返し、数十分。
船を見つけた。ちいさな船。それにはくたびれたような男が一人で乗っていた。
「乗るかい?」
男は尋ねた。
私は
「むこう岸へ行くのか?」
と、問うた。
男はおんと頷き、手を差し出した。
私はその手を取り、しっかりしない小石の足場から船へと乗り込んだ。
「お代を貰おうとしたんだがなぁ」
「それはすまない。いくらだ?」
「いや、いいさ。袖振り合うも多生の縁って言うからな」
男は船の先頭に付いている小さな鈴を
りんりん。
と鳴らした
すぅっと吸い込まれるように船はむこう岸へと進んでいく。
「あんた、名前は?」
私は名前を告げた。
へぇ、と小さな声を上げ、男は何か考えるような仕草で俯いた。
「俺ぁその名前に聞き覚えがあるな...あぁ?だが思い出せねぇ....何かあんたの事を話してくれねぇか?そうすればどこで聞いたか思い出せるかもしれねぇ」
私は船のへりに肘を置き、少し考えた。
私の名前に聞き覚えがある。だがどこで聞いたか思い出せない。と男は言った。自分自身この男にどこか覚えがあるのは確かだった。この船の上、娯楽も無く向こう岸まで遠い。ならば暇つぶしがてらこの男の為に私の人生を語るのもありだと、私はそういう考えに至った。
「では。話させていただきましょう」
「よっ!」
男はそう言って手をぱちぱちと叩いた。男が少しはしゃいだせいで船が揺れ、河の水が跳ね散る。
私の肘に少しかかり、船のへりから腕を引っこめる。
「あぁ、では昔の事から。昔々、私がまだ一人で小便もできない童だった頃。生まれて初めて電車に乗った時の出来事です」
「ほうほう」
「車内は私が住む田舎と都会の匂いが混じった不思議な匂いが漂っておりまして、シートはけっして柔らかくは無く、しかし初めて乗るということで普段使っている椅子よりも心地よく感じました。恐らく電車の揺れのせいもあったのでしょう」
男は目を瞑り、空を仰いでいる。
私も目を瞑り、その時の情景を思い出す。
「進行方向向かって右。私の生まれ育った村が凄い速度で流れて行ったのを覚えています。左は、山でした。えぇ。私は左の窓際。開け放たれた電車の窓から手を出そうとしていました」
「あぁ、そりゃ危ねぇ」
「えぇ。それを見た親父がこう言ったんです。『食われるぞ!!』私はびっくりして手を引っ込めました。親父はけらけら笑って窓を閉め、一人で弁当を食べ始めました。私は何に食われるのかと聞いたのですが、親父は何も言わずにただ弁当を食べていました。その時にね、あなたが現れたんです」
「んん?あ、俺かい?」
「えぇ。思い出しました、あなたは車掌でした。『切符を拝見致します』と言って、切符を確認していました」
「へぇ。それで?」
「私は尋ねました。『食われるって、何に?』と。するとあなたは.....あなたは........?」
私は言葉を詰まらせた。今まですべるように出てきた言葉が出てこなくなった。いや、正確には思い出せなくなった。一部が。電車を降り、買い物をした所は覚えている。だが、その電車の事だけが思い出せなかった。
「どうした?大丈夫か?」
「すいません、ここから先は忘れてしまいました....でも車掌のあなたなら覚えていませんか?」
「あ〜........?うん、それは多分俺じゃねぇな。俺はこれっぽっちも覚えていねぇ」
男はまた俯いた。
「まぁ、いいや。別の話はねぇのかい?」
「別の話ですか?待ってください。今思い出しますね....」
「おう、ゆっくりで構わないぜ」
私は静かに水面を見つめた。ふと、頬の所に大きな切り傷があった事に気づいた。
「あぁ、では」
「おっ、待ってました!」
「あれは私がやんちゃをしていた八つの頃です。あれは夏の暑い日。朝から私は山に出かけ、木登りや虫取り、川遊びに散策と山を満喫していました。田舎の夏にこれ以上の娯楽は無いかのように。あの山は私の庭のようなものでした。だから目を瞑っても駆け抜けれました。今でも思い出せます」
目を瞑り、あの山を思い浮かべる。双子山で、イノシシやシカ、リスやクマもいる山だった。自然豊かなのはもちろんの事、山菜も川魚も取り放題の自然の宝箱。いつしか入らなくなってしまったあの山。
私はゆっくり目を開けると目の前の男が心配そうに見つめているのに気がついた。
「おっとすいません。少し思い出しすぎました」
「よかった、息が止まってるかと思ったぜ」
「えぇ、では続きを。あの日も変わらず自分の作った秘密基地へと急いでいました。道中、人が一人ギリギリ通れる崖際の道があるんです。私は子供だったので普通に通れたのですが、大人たちは苦労しなければ来れない。その道を通っている最中、私は足を滑らせて崖を滑り落ちました。木や葉っぱ、木の根に石岩。ありとあらゆる物が私の体中に当たり、それでも止まることができない。どれくらい落ちたのでしょうか。気づけば陽の光届かぬ所まで。顔には木の枝で作った大きな切り傷が」
「それがその傷かい?」
男は私の頬の傷を指さした。
私はその傷を撫でながら、えぇ、思い出ですね。と小さく呟いた。
「私は足をくじいたのか立ち上がれず、その上陽の光が届かぬので寒さに襲われていました。夏と言えども山の中。子供一人を殺すなど造作もないことでしょう。私は膝を抱え、血の出るところを手で抑えながら震えていました。死の危機を目の当たりにしているのですから。どれだけ泣き叫んでも、その叫びはセミの叫びによって掻き消されていました。そしてそのまま時は経ち、日が落ちました。私は『お腹が空いた』『暖かい物が食べたい』とか食べ物の事ばかりを考えていました。体が本格的に冷え、体中が寒さに震える中、私を呼ぶ声が聞こえました。えぇ、村の人達が私を探しに来てくれたのです。私はからからの喉から声を絞り出しました。ですが、大人たちは気付くことなく、声は遠のいて行きました」
「そりゃ大変だ!死んじまうよ!」
「私もそう思い、目を閉じようとしました。その時、一筋の光が見えました。私の目の前数センチ先。私は手を伸ばし、その光に触れました。光は私の手をすっぽりと包み、次に私の体をすっぽりと包みました。えぇ、懐中電灯の光でした。大声でみんなを呼ぶ声が聞こえ、父親が斜面を滑り降りてきました。安心したのでしょう、私はそのまま眠ってしまいました。次に目覚めたのは病院でした」
男はまるで自分の事のようにほっと息をついた。
「えぇ、今ので思い出しました。あなたはあの時私を治療して、そばで見守っていてくれたお医者様ですね。あなたがほっと息をついた仕草が、そっくりですもの」
男はうんうんと唸り、首を振った。
「俺は昔から不器用で、人の命を助けるお医者様にはなれそうにもない。それは俺じゃぁないんだと思う」
「いえ、でも」
また、言葉が詰まった。
お医者様では無い。でもこの人は、私をベッドのそばで見守っていてくれた人だった。それだけは間違いがない。覚えている。確実に。
男はまた、俯いた。
だが、すぐに顔を上げ、周りを見渡した。
「霧が濃くなってきやがったな」
私も辺りを見渡す、自分が霧に包まれているのを感じた。目の前に座る男の顔すらもよく分からないほど、霧が出ている。
「しょうがねぇ。俺が漕ぐから、あんたはまた話をしてくれ」
男はどこからか木の切れ端を取り出し、それで船を漕ぎ始めた。
「あぁ、一番悲しかった思い出とか聞いてみてぇな。あるかい?」
男はそう言った。
悲しい思い出。すぐに思い出せた。
「あれは私の歳が十になった次の日。私の誕生日は秋の頃。紅葉が綺麗でね。誕生日の頃には川魚を自分でたんまり取って好きなだけ食べる事を許されてました。えぇ、そんな夢のような日の次の日の朝。私は言い争う声で目を覚ましました」
「........」
「眠い目をこすり玄関まで向かうと、母が、父の足にすがりついていました。父はそんな母を引き剥がし、そのまま出ていってしまいました。そして帰ってくる事はありませんでした。ことある事に母は泣きながら私を抱きしめ、『父さんのようにはなるな』『父さんのようにはなるな』と言い聞かせてきました」
「........」
男はついさっきまでの相槌を失くし、ただ船を漕ぎ続けていた。時々鈴の音がどこかから聞こえてくる時があった。鈴の音が聞こえると、男もちりんと鈴を鳴らした。この鈴の音はきっと船が、霧の中でもお互いの位置を知るための物なのだと納得した。
「えっと、それから母は体を悪くし、私が二十を迎えた頃に死にました。私は家を出て、都会の方で必死に生きました。そして........今はここにいます」
「そうか」
男はぽつりと呟いた。ぶっきらぼうに。不器用に。
「そうだな、あんただけに話させるのも悪い。俺も昔話をしようじゃねぇか」
男は船を漕ぎながら一人、話し始めた。
「俺には愛した女房と、愛する娘が居たんだ。あぁ、あんたと同じような田舎に住んでてな。いい所だった。帰りたいな。元気いっぱいな娘と、暖かい飯を作ってくれてる女房........いや。ある時な、そんな女房に病気が見つかったんだ。でかい病院で治療しなけりゃ死ぬ。そんな病気だった」
男は居住まいを正し、私に背中だけを見せた。
「俺は悩んだ。どうすればいいかってな。どうすればみんなでまたあの時みたいに笑えるか。どうすればずっと仲良く暮らせるか。そんな時、俺にある話が舞い込んできた。知り合いの伝を頼り、都会でいい仕事が見つかった。上手く行けば女房を直せる医者も紹介してくれるってんだ。俺はその話を女房にした。そしたらなんて言ったと思う?『いいの、一緒にいてくれるだけで』意味がわからなかった。あの時の俺はその言葉の意味がわからなかった。だから........家を出た。そして都会へ行き、その仕事をやった。死ぬ気でだ。お天道様に顔向けできねぇような仕事をな。あぁ、悪い事をすれば神も仏も手を伸ばしてくれないんだ。それに気づいたのは女房が死んだって報を聞いた時だ。俺は、怒り狂う事も、泣き叫ぶ事も、女房の元に帰る事も、飯を食う事も、何も出来なくなった。そして飢え死んだ。何も食わなかった。ただ、なんで俺はこんな所にいるんだ。なんであいつの元を離れてしまったんだって事で頭がいっぱいだった。そして.....」
船が揺れ、止まる。どうやら岸へとついたようだった。
「降りろ」
男はそう言って、私を無理やり船から降ろした。
「このまま歩いていけ。あとは分かる」
そう言って男は船をまた漕いで、河の方へと戻って行った。
私は男の態度に腹を立てつつ、何か違和感のようなものを感じながら歩いた。すると、そこには私が脱いだはずの服が落ちていた。あの男は私を騙し、むこう岸では無く、元の場所へと返したのだ。
しょうがないので私は服を着て、また歩き出した。
結局あの男は誰だったのだろう。
そんな事を考え歩いていると、いつしか霧が私の体を包んでいた。自分の鼻先すら見えない程。私を包んで。
私は病院のベッドで目を覚ました。
家を出ていった父の顔は、すぐに思い出すことが出来た。