呪文は嘘の香り
激しい雨の打ちつけるナバテ湖の入り口。
複数の人間が対峙していた。
一人は銀のスプーンを手に、対するは各々の武器を持って。
スプーンを突きつける女の立ち振る舞いに臆したところは無く、足元に転がる老女を守らんがための決意が滲み出ていた。
『小金持ちから路銀をちょちょいといただくだけ。偉そうにしてる貴族の金なんて元々は庶民のものだ』
魔法使いの少女、アビゲイルの所属する冒険者パーティーのリーダーであるウルは、何ひとつ罪悪感の無いそぶりでそう言っていた。
だがスプーンの女は何不自由の無い生活を送ってきたかのような口ぶりではなかった。
それに50歳だという彼女の風貌は若く、それが確かなら貴族の中でそのような特徴を持つ者にアビゲイルは心当たりがあった。
「しかたねぇな。やっちまおう」
ウルは最悪の判断を下したとアビゲイルは焦る。
「ダメよっ、その人は──!」
アビゲイルの声と同時に、巨躯のオーガンが両手剣を振りかぶっていた。
盾を具現させる呪文が唱えられ、オーガンの両手剣がめり込むように防がれていた。
アビゲイルの眠りの魔法で倒れていたはずの老女フォルセットが続けて次の呪文を口ずさむ。
「ラオデルス・エト・ストルム」
アビゲイルはその呪文を良く知っていた。
魔法学院で習う初歩の攻撃呪文である。
「雷玉の呪文! ラオデルス・エト・マディサクレス! 魔雷の防ぎ手よ!」
「雷玉よ、あれ!」
アビゲイルとフォルセットの呪文が互いに完成するのはほぼ同時だった。
アビゲイルの唱えた魔法の雷玉を防ぐ対抗呪文がウルたち全員を包み込むと、フォルセットの放った雷玉の呪文は狩人のトビアの頭上にその姿を現した。
「!?」
アビゲイルは違和感を感じた。
雷玉の呪文は召喚した雷の玉を目標にぶつけて攻撃するためのもので、突如頭上に現れるようなものではない。対抗呪文を意識して軌道を変えたにせよ、それではまったく無意味な行動である。
そして空が真っ白に光った時、アビゲイルはフォルセットの意図に気付いた。
「みんな伏せて!」
アビゲイルの声に反応できたのは前衛のオーガンとシャーリーだけだった。
弓をつがえていたトビアはあろうことか雷玉を見上げた。
天からゴッと重たい音を響かせて一条の紫光が雷玉に打ち下ろされた。
ドンという衝撃音が響き渡る。
「ぐあああああっ!」
叫びを上げたのはウルだった。
彼の露出した肌の左半分には葉脈のような赤い文様が浮き上がり湯気を立て、彼の足元にはバチバチと着衣の燃え上がるトビアだった物が転がっていた。
「実に優秀だねぇ」
フォルセットは落ち着いた声を発した。
自分に向けられたものだと分かったアビゲイルがうずくまった姿勢のまま顔だけを老女に向けると、彼女は涼やかにアビゲイルを見下ろしていた。
「優秀すぎるがゆえに、わたしの呪文に正しく反応した。優秀すぎるがゆえに、その判断を誤ったのだよ」
老女フォルセットはまるで師匠然とした態度で言う。
「魔法学院第38代筆頭卒業魔法使い、アビゲイル・ドゥムスティエ。おまえさん、魔法学院支給のローブをご丁寧に着ていちゃあ、自己紹介して歩いているようなものだよ」
指摘されたアビゲイルは自分が素っ裸であるかのように体を両手で覆い隠す。
「それほど優秀なおまえさんが悪事に加担しているとは看過できない。たっぷりとお仕置きをしてあげないとね」
フォルセットは口の端を吊り上げるように笑う。
アビゲイルは背中にぞくぞくと走る悪寒に襲われた。
「おいっ、魔法使い! 殺せ、ババアを殺せっ! オーガン! シャーリー!」
顔面の左半分を手で覆い、半狂乱になって指示を出すウル。
恥じも外聞もない。
追い詰められた気分でアビゲイルは立ち上がって炎の呪文を唱える。
「ヴェクタ・アデ・サーラム・フェルエルン! 炎の槍よ!」
「ご丁寧に唱えるかね? 盾よ、あれ!」
アビゲイルの指先から放たれた炎の軌跡は、わずか掌に作られた老女の小さな魔法の盾で防がれた。
「省略詠唱!?」
アビゲイルは驚愕した。
魔法学院でも話には聞いていたが、実際に詠唱を省略して具現化させたのを目の当たりにしたのは初めてだった。
フォルセットはアビゲイルの様子どころか、続けて攻撃を加えようとするオーガンとシャーリーを気にする事も無く、ビオレッタの手からスプーンを奪い取っていた。
「およこし」
「あぁ、わたしの大事な大事な宝物ぉ」
すがるビオレッタごと振り払うように、フォルセットは銀のスプーンをプリンでも掬うかのようにオーガンに向けて宙で振った。
アビゲイルはオーガンを狙った老女の動きに対抗して、再び呪文でオーガンの前に巨大な盾を作り出す。
しかし、フォルセットが呪文を詠唱することは無く、次の瞬間にはオーガンの足元の土が巨大なスプーンで掬われたように持ち上げられ、戦士の巨躯ごとシャーリーに向かって放り投げられた。
「なんじゃあこりゃあっ!」
「きゃあぁっ!」
二人の叫びが絡み合う。
アビゲイルは見知らぬ魔法が使われたことに絶句した。
「無詠唱……」
「そうさね。魔法学院で教えてる魔法なんてものはね、私が誰でも使えるようにわざと必要の無い呪文の詠唱を付け加えたものなのさ」
「えっ? 必要の無い呪文ですって?」
フォルセットはアビゲイルと問答しながらもスプーンを振りかざし、ウルのソードを風刃の衝撃で打ち落とし、シャーリーの手から短剣を零れ落ちさせた。
金で雇われただけのアビゲイルとはいえ、形なりにも仲間が翻弄される様に立ち上がる。魔法使いとして為すすべが無いことは自尊心が許さなかった。
「それなら私にだって無詠唱で使えるはずよ」
アビゲイルは両手をフォルセットに向かってかざし、魔法の水壁を形作ろうとする。足元から雨水が集まり、グネグネと踊るように歪な壁が崩れながらゆっくりと出来上がってゆく。
「無理だね」
フォルセットはため息をつきながらスプーンの背で宙空を叩いた。
出来上がろうとした水壁はざばあっと音を立てて周囲に飛び散った。
「魔法は50年前に滅んでいるのだよ。そもそも人に使えるものなんかじゃあなかったんだ。それを私が──」
「──つくった?」
「そうとも、アビゲイル。魔法学院42年の歴史も私の私財から作り上げたものだ。おまえさんの学んだ魔法なんてのは私の足元にも及ばない。そうでなくてはいけない計画だったのだよ」
あまりに不遜な物言いだった。
人間離れした考え方だった。
「50年……もしや魔王を封印した勇者に同行した魔法使い……」
アビゲイルの絶望の表情にフォルセットは大きく笑みを歪ませた。
アビゲイルは絶望から恐怖に顔色を変えた。
「まさか、神……!?」
ナバテ湖の水面が俄かにざわめき立って、ニノフィロアの花草を掻き分けながら現れた異人の群れは、まるで人型の青いトカゲのような姿だった。
20匹を優に超えるその群れの先頭は一際大きな体つきで、上半身を覆う着衣は他の者たちよりも豪華なものだった。
「我はフェル・ゴス・フェル・チャチャバン・ガ・ンガ・ナバテ! 友よ、助ける」
彼はぎこちない人語で手に握った棒槍を高く掲げた。
フェルと名乗った彼に付き従う者たちも同様に鬨の声を上げ、手にした槍で高く天を突いた。
ビオレッタとアビゲイルはその場で腰を抜かし、ウルたち3人の冒険者は一目散に逃げ出した。
ただ一人、フォルセットだけがゆったりと振り返り、懐かしそうに目を細めたのだった。
「久しいのぉ、フェル」
雨は、やんだ。