湖岸はニノフィロアの香り
宿場町エレシスから定期便の馬車を乗りつないで3度目の朝を迎えたときには、しとしとと雨の便りが届いていた。
フォルセット一行が、ナバテ湖のほとりにほど近いニーア村から湖へと出立したのは日が昇ってすぐのことである。
ニーア村から湖までの道のりは馬車など使えない悪路が続くため、徒歩で向かうしかない。フォルセットたちは細かい霧雨に濡れそぼっていた。
「湖についたら朝食にしましょう」
そう言ったフォルセットのおかげか、ビオレッタは自慢の銀のスプーンを振りかざしながら揚々と歩みを進めてくれた。
しかし、革の雨合羽をしっかりとかぶっている彼女たちとは対照的に、護衛のウルたちは肩から腰までを覆うようなマントで雨を凌いでいたため、一様に暗い表情である。その職業的な性格ゆえか、冒険者が革製の厚手の雨合羽を装備することは稀だ。
ウルたちは長い冒険者生活で慣れているとは言っても、しっとりと降り注ぐ弱い雨には毎度のごとくうんざりさせられていた。
「こんな天気の中、強行軍とはねぇ……」
女戦士のシャーリーが長い髪を掻き揚げてひとりごちる。
普段はふんわりとボリュームがあるであろう髪は、塗れてぺったりと首や肩に貼り付いていた。
同じ戦士であろう巨躯のオーガンがそれに反応する。
「いつもより色っぽいお前が見れて、俺は眼福だぜ」
「ばっ! な、なにいってんだい……」
シャーリーは顔を赤くしてオーガンの背中に文句を言うが、まんざらでもない様子だ。リーダーのウルと狩人の男トビアは互いの顔を見合わせて肩をすくめた。
ただひとり魔法使いの少女だけはローブのフードを目深にかぶって、黙々と歩みを進めていた。
ウルはちらりと少女を見やったが、すぐに視線をはずして他の仲間に声をかける。
「まぁ依頼終了まであと少しです。気を引き締めましょう」
前向きな言葉とは裏腹に気の重いため息を吐いて。
さらに彼らがうんざりするのは、一行の歩みが速いことである。
「皆さん、また歩調が遅くなっていますわよ! 朝ごはんはすぐそこです。がんばりましょう!」
空気をまったく読めないポンコツぶりである。
このビオレッタに引率されっぱなしでは、護衛の冒険者たちは湖に着いた頃にはへとへとで、ナバテ湖という最も魔物との遭遇率の高い場所で戦う体力がなくなっているなんてこともあり得た。
しかも依頼主の老女は、その湖のほとりで暢気に朝食を取る算段でいる。
このあたりに詳しいと自負するウルたち冒険者にとって、それは半ば自殺行為に等しいとも言えた。
ウルが老女をおかしいと感じているのはそれだけではない。
ウルたちのパーティに所属する若い女魔法使いを、
「彼女はさぞ有能な魔法使いであろう?」
と、勘違いも甚だしい質問を投げかけてきた。
彼女──アビゲイル・ドゥムスティエは魔法学院を卒業してわずか数年、ウルのパーティではお荷物的存在であると思っている。冒険者にとって必要な魔法を唱えてさえくれれば、魔法使いなんてのは誰でも同じ。優秀かどうかなんてのは二の次である。
「さようでございます」
と、ウルは老女に対し笑顔を貼り付けて心にもないことを答え、内心は『世間知らずのご婦人の考えることは理解できぬ』とせせら笑っていた。
当然老女は疑いもせずに聞き入れたのであろう、その後はアビゲイルが話題に上ることもなくなった。
ただ依頼主の老女の不穏な発言は変わらない。
「ちょうど湖に着くころには振りが強くなるねぇ」
しみじみと空を眺めている。
どんよりとした雲が低く垂れ込み、いつ雨が本降りになってもおかしくない。遠くの山を見れば霧雨が真っ白に覆い隠していて、その中腹から上の山体を拝むことはできなかった。
なぜ彼女が雨を望んでいるのか、ウルにはさっぱり予想もつかなかった。
フォルセットの予想通りであった。
ナバテ湖に到着してみれば、彼女の目の前には黄色い釣鐘型の花をV字に九つ咲かせるニノフィロアが湖のほとり一面に咲いていた。
ニノフィロアの腐ったような甘い蜜の香りは、強くなりはじめた雨に逆らって彼女の鼻腔を湿らせた。
「死出の花か……なるほど」
フォルセットは合点を確かめるように口にした。
その言葉は雨音だけでなく、ビオレッタの大きな声にも遮られた。
「うわぁぁん! こんな雨じゃ朝ごはんが食べられないじゃないですかぁ!」
彼女は自慢の銀のスプーンを駄々っ子のように振り回し、その緊張感のないポンコツぶりはフォルセットを少しだけ安心させる。
死出の花と言われるニノフィロアは、死骸の上に咲く花としてよく知られていた。それもあたり一面に咲くほどであるとしたなら、この湖の入り口にはいったいどれだけの数の死骸が埋まってることやら想像もできない。
カーシアス侯爵ドラン・セドゥルーの威光を笠に着て、ウルを筆頭とするこのパーティだけがナバテ湖までの切符を手にしているとしたなら、死出の花の原因は彼らしかいないであろうことは明白だった。
「ビオレッタ様、こちらへ!」
「ルピスオ・レル・ディオム! 眠りの砂よ!」
フォルセットがポンコツ娘を呼び寄せると同時に、老女の眼前を濃い紫色の煙が覆った。
護衛の魔法使いの少女、アビゲイルが右手を真っ直ぐにフォルセットへと差し出していた。
老女の体は膝からくずおれるように濡れた草地に倒れ伏す。
さしものポンコツ娘でも事態の異常さを把握した。
「なにをするのです! 依頼主にこのようなことをして」
ビオレッタは毅然と振舞おうとするが言葉が続かない。
アビゲイルを除く4人の護衛たちが一斉に武器を抜き放ったからだ。
「命までとろうとは思っちゃいない」
今までの丁寧な物腰とは違うウルの言葉遣いは低く、慣れた脅し文句のように紡がれた。
「腰にぶら下げた巾着にたんまりと入った金や宝石を分けてもらえリャいいのさ」
「そんなもの──」
「ないとは言わせないぜ、お嬢さん」
反論するビオレッタを制するウルの口調は鋭い。
しかし、負けじとビオレッタは声を大きくする。
「そんな大事なものわたしに預ける馬鹿がいますかっ!」
よく聞けばとんでもない事を口にしていた。
とはいえ、さすがに一同顔を見合わせて
「確かに」
と、納得するほかはない。
「ならば、その老女が持っているって事だな」
大柄なオーガンが下卑た笑いを見せて歩を進めると、ビオレッタがさっと間に割って入る。
彼女は自慢の銀のスプーンをまるで短剣のように右手に握って前に突き出していた。
「させません! 彼女には指一本触れさせはしませんからっ!」
この数日の様子からはまったく想像もつかない真剣な態度だった。
だが、スプーンごときで何ができるものか、と先ほどまで護衛だった強盗たち4人は笑う。アビゲイルだけがその視線を伏せていた。
「あんた貴族だろ? 旅の路銀なんざたいした額じゃないんだろ? 命と引き換えにするこたぁないよ」
女戦士のシャーリーが嘲笑う。
「笑わないでよ……」
ビオレッタはシャーリーを睨み返して震える声を振り絞った。
それは多勢に無勢からくる震えではない。怒りと悲しみの入り混じった声だった。
「わたしが幼い頃からフォルセットと二人で40年もかけて貯めたお金なのよ……そう簡単に渡せる物ですか」
「40年?」
声を発したのはアビゲイル。
「あなたいくつなの?」
アビゲイルは目を丸くして、見た目20代としか思えない容姿のビオレッタに尋ねる。
ビオレッタは荒々しく、ふんっ、と鼻を鳴らして答えた。
「今年で50歳丁度よ」
雨は降り注ぐ強さを増し、雷鳴がひとつ轟く。
雨粒に打たれたニノフィロアの黄色い釣鐘が今にもしゃんしゃんと奏でられんがばかりに激しく揺れていた。