はじまりはメイテイの香り
街道のあちらこちらに7枚の花弁を持つ小さな白い花が咲くのは初夏。
モーレスト王国の国花でもあるメイテイの白い花の香りは強く、群生するのは王都ガルティア付近に限られていた。そのため王都から馬車で三日はかかる宿場町でメイテイの香りがすれば、いずこからの旅人なのかと勘ぐるまでもないことだった。
宿場町エレシスでそのメイテイの香りを振りまいているのは、二人の女。
若い方の女は背を丸めて街路樹に両手を付き、なにごとかブツブツと呪詛の如く呟いている。
一方、老女のほうはピンと伸びた背筋で微動だにしない。
「やだ。もう帰りたい。湯浴みしたい。帰る。おいしい食事がいい。湯浴みしたい。もう干し肉やだ。帰りたい……」
「ビオレッタ様、いい加減に諦めてください」
欲望の呪詛を紡ぐ若い女にピシャリと言い放つシルバーブロンドの老女。
「でもフォルセット!」
ひとつに束ねた長い金髪を振り回して、若い女ビオレッタは老女の名を呼びつける。
「王宮に戻ればおいしい鴨のスープや白いパンが食べられるのよ?」
目を輝かせ、今にも口の端からよだれが垂れそうな、とてもうら若き女性のする表情ではなくなったビオレッタ。
「まったく……なんという表情をしているのです。確かに食べ物は美味しゅうございますけれども、あの場所に戻ってはまた忌み児と誹られ軟禁の毎日に逆戻りなのですよ」
老女フォルセットは嗜めるように言い、ビオレッタの両の頬を手のひらで包んでこねる。皺の刻まれた手が離れれば、ビオレッタの顔は道行く人が振り返るほどの元の美貌を取り戻した。
「よいですか、ビオレッタ様。兄王様が崩御なされた今、後継者争いに巻き込まれるわけには行かないのです。混乱に乗じて脱出できたのは幸いでした」
周囲に聞かれてはまずかろう内容にも拘わらず、フォルセットは毅然とした口調で言葉を続ける。それもそのはず、二人の周囲には幽かな空気の球形の膜が張られ、その外部に音が漏れ出ぬように魔法がかけられていた。
50年も前から稀代の大魔法使いと謳われたフォルセットには造作もないことであった。
北の魔王が封印されて50年という年月が流れていた。
封印に関わった討伐隊の中で『筋肉の盾』と呼ばれ、防御の要を担っていたバルガッソという騎士は、封印の報酬として大衆酒場兼食堂の経営権を賜り、宿場町エレシスに居を構えることになった。
当時はまだ小さかった宿場町エレシスはバルガッソの店を中心に繁栄し、今では王都に行く者にバルガッソのスープを飲まぬものはいないと言われるほどだ。
しかし、屈強な男であったバルガッソとはいえ病には克てず、フォルセットが訪れた時には数年前にこの世を去ったのだと、二代目の店主である息子に聞かされた。
「そうかい、そうかい。存命のうちに来られなかったことは詫びさせておくれ」
齢七十になろうかという老女に頭を下げられれば、四十も半ばの屈強なバルガッソの息子であってもその身を小さく丸めて恐縮した。
別段老女だからという理由だけではなく、亡き父の旧友だという彼女からは、神々しいほどの婉然たる挙措が窺えたからだ。
フォルセットは話を切り上げて、席で待たせてあるビオレッタのもとへと急いで戻る。成人していても世間知らずのあの娘のことだ、とフォルセットは何事かやらかしてはいないかと心配だった。
案の定。
「なんて美味しいのでしょう、おじ様! このふわふわとろとろとした卵の食感、そして大事に大事に包まれた中の小麦の麺のピリ辛との対比。わたくし、このような美味しいものは食べたこともございませんわ」
「そりゃあ、よかった。こっちのスープも飲んでみな。バルガッソに来たらば、こいつを知らねぇってわけにはいくまいよ」
「あら、では遠慮なくいただきますね。……んーっ、美味しいわぁ! 濃厚な牛肉の旨みがたっぷりですわね」
「おいおい、ねぇちゃんこっちも食べてみてくれよ」
などと、まだ注文もしていないというのに、フォルセットとビオレッタのテーブルは大皿小皿の料理たちが所狭しとひしめき合っていた。
バルガッソの店はすでに昼時を過ぎたというのに未だ客足は多く、中には酔いの回った者も少なくない。
酔えば男はそういう生き物。
一人でテーブルで待つビオレッタも見た目は若い女で、ましてや美貌も持ち合わせている。男たちは下心たっぷりにこぞって料理を持ち寄り、女を餌付けしようとした。
それらを初めて食べたと逐一感想を口にする娘に、男たちは次第に目的を忘れて「こっちもおいしいぞ」「こっちだって負けていないぞ」と素面の男たちまで参加する始末だ。
目の前の惨状にフォルセットは天を仰ぎ、震える声を絞り出した。
「みなさんっ!」
老女の怒気をはらんだ声に店の隅から隅まで静寂が拡がる。
しかし次の言葉に、まるで宴のように歓声が沸きあがった。
「みなさんの飲食代は私がすべて受け持ちましょう」
ただ一人、フォルセットだけが大きなため息を吐き出した。
成り行きで始まった宴は、結局日が落ちるまで続いてしまった。
フォルセットは翌日からの旅路のために護衛を募集する予定だったが、勧められるままに普段飲まぬお酒を口にしたために、宿を取るだけで精一杯だった。
それというのも、酔いつぶれたビオレッタを老体に鞭打ってベッドまで運んだせいであり、幸せそうな彼女の寝顔を見れば腰だけではなく頭痛まで併発するという体たらくのせいでもある。
予定を先送りにしたことで、少しはこの旅の目的を考える時間が増えたと思えばよいかと、老女は空いたベッドに体を投げ出して目を閉じた。
フォルセットはいつものように無詠唱で部屋に結界を張って、眠りの底へと沈んだ。