或る若者の戦史
1945年 春 北海道の小さな工場町にて
その町は小さな軍需工場を持つ、人口数千人ばかりの小さな町だった。軍需工場と言えば聞こえは良いが、実際に造っているモノは戦前と同じく何の変哲もない木製合板である。もう戦争も先が見えているが、たぶん、戦後になっても変わらずに合板を造り続けるだろう。
北海道の内陸部、しかも小さな町……確かに戦時下ではあったが、町の雰囲気は駐屯する憲兵隊も含めて、どこか間が抜けていた……し、平和と言えば平和だった。
だが、昭和20年にもなれば、ある程度は事情も変わってくる。すでに陸海軍に徴兵され、ついには南方や沖縄で玉砕戦死や特攻散華を遂げた町出身の若者も出ていた。それは長い間、余りにも平和だった町にとって、一種の“事件”として大々的に喧伝される。そこには“お国のために戦って良く死んだ”などという愛国主義的な思想も美談もなく、ただただ“この町の若者が死んだ”という、衝撃だけを素直に伝播するのだ。
陸の孤島のような平和だった町にも、やがて米軍の艦載機による散発的な爆撃が行われるようになった。もっとも、軍需工場があると言っても少し大きめの掘っ立て小屋にしか見えないため、戦略的な爆撃と言うよりは、米軍の単なる“嫌がらせ”以外の何者でもない。
あるいは米軍は軍需工場があるということすら知らずに、攻撃を行っていた節さえあった。学校や商店や駅舎が爆撃され、町民の志気は下がる。むしろ当初から厭戦気分にさせることを企図した攻撃だったのかもしれない。死者は出なかった。
やがて町にも守備隊が駐屯するようになった。守備隊と言っても数人の陸軍さんの兵卒だ。しかも全員がこの町から出征した若者である……つまり一旦は旭川に呼ばれた町の若者たちが、結局、戻ってきた寸法になる。
もっとも……この若者たちは徴兵検査で“乙”をもらった、いわば陸軍にしてみれば“いまひとつ使いでのない”者たちだった。だが命あっての物種だ、多少は屈辱ではあるが、戦時下にこうして自分に家に戻ってくることができ、また、まず命の危険はないのだから、当人たちも町民たちも、みな一様に“儲けた儲けた”と喜び合った。
……ただひとりを除いて。
その若者は、戦争が始まるまでは鉱山で働いていた。そのため頑強ではあったが、軽度の塵肺と目を患っていたため甲種合格に至らなかったのである。いちおうは陸軍の航空隊に所属していたのだが、仕事と言えば雑役ばかり。ウンザリしている最中にも、同期で航空隊に入隊した仲間たちは沖縄や九州に移動させられ、毎日のように特攻散華していた。
「私も往かせて下さい」そう上官に陳情するも、未だに操縦桿さえ握ったことのない者を訓練している余裕もない。なにより“乙種合格”である……飛行機に乗れる道理がなかった。
そうこうしているうちに、生まれた町へ帰って守備をしろという辞令が下った。まるで予備役同然の扱いに、若者は大いに憤りを感じ、ついに所属する隊の隊長である少尉に直訴する。
「私は落第者ですが、鉄砲を撃つことはできます! 爆弾を抱えて走ることもできます! 死ねと言われれば死にます! 南方でも内地(本州)でも沖縄でも、どこにでも往きます!」
言った傍から怒声と共に鉄拳が返ってきた。
「貴様! 上達を蔑ろにするのか! だから貴様は乙種合格なのだ! 命令を聞けん奴は陸軍人ではない!」
「ですが、このままでは生き恥を晒します! 万歳三唱で送り出してくれた町に、戦時中に生きながら帰れません!」
「そんな貴様の都合など知ったことではない!」
何発も殴られ、ついに膝を着く。しかし若者は少尉の足にしがみついて離れようとしない。
「では腹を割ります! 軍刀を貸して下さい!」
「この野郎! まだ判らぬのか!」
下げていた軍刀に手を掛けた若者を少尉は思うさま足蹴にして怒鳴る。
「いまさら貴様が死んで何になる! 貴様と同じ年頃の若者が毎日、何百人と死んでいるのだぞ! このままでは日本から若者がひとりもいなくなってしまうではないか!」
そして少尉は伏している若者の襟首を掴み、無理矢理に正座させる。
「聞け! 俺はもう来月には生きていまい! 九州に移動になった! 俺は貴様が羨ましい! 貴様は生きろ! 生まれ故郷を護るのは貴様の使命だ! それは立派な軍人にしかできない仕事だ!」
涙声で怒鳴る士官学校出の少尉は、若者よりも2歳ばかり若年だった。
生きて生家に戻ってきた若者は、それからも戦後も少尉の消息を追い求めたが、酷い混乱と北海道という地理的な不利もあり、何一つとして信用に足る情報は得られず、その生死を知ることはついになかった。
例によって用語・用法・公証などに間違いや誤用があるかとは思いますが、お許しください。
まったく戦記ではありませんが、ある意味、史実です。
勘の良い方はお判りかとも思いますが、私の祖父の話なのです(多少の脚色はありますが)。
祖父は昨年に亡くなりましたが、「今の自分があるのは、あの○○(少尉)さんのお陰だ」と折々語っていました。
祖父が昏睡状態に陥る寸前、制服姿のまま死に目に会いに来た私の実弟(自衛隊員ですw)を目にした際にも、
「○○さん、よく来て下さった」と、せん妄状態の中、涙を流して喜んでいました(ちなみに祖父は死ぬまで痴呆症の兆候はありませんでした)。
まるでドラマみたいだなあ…と、その時は思いましたが、同じようなことを感じたり考えたりする戦争体験者の方も多いと思います。
そして、件の少尉さんがいたからこそ、戦後も祖父が生き、私の母がおり、ひいては私がいる…
そう考えると、自然と感謝の念が沸くものです。
非常に粗雑な文章となってしまいましたが、祖父の一周忌を祈念して、この掌編を上梓させて頂きました。