スターリングラードはもはや街ではない
1942年 冬 スターリングラード近郊
犬も逃げ出すと言われたスターリングラードの戦いはクリスマスには終わらなかった。飢えと寒さの中、もはや巨大な瓦礫の集合体と化したスターリングラードの市街で、いつ終わるとも知れない不毛で苛烈な消耗戦は終わりが見えないまま継続されている。
とは言え、次第に戦闘の趨勢と均衡が傾ぎつつあるのも事実。どこから湧き出てくるのか赤軍兵士の尋常ではない人海戦術によって、包囲され逃げ場を失ったドイツ軍は、まるで挽き臼にでも掛けられたかの如く次第に摩滅していくのだ。
優秀な愚か者であるふたりの独裁者の意地の張り合いに付き合わされている独ソの将兵、そしてスターリングラードの街に住む人々は、もう“日常”という言葉の意味さえ忘れているのだった。
真夜中、吐息も凍えるような寒さの中、スターリングラード郊外の森の中を迷走するドイツ兵がひとり。顔は煤と垢で真っ黒になっており、戦闘服はボロボロに破れ、鉄兜も被っていない。何よりライフルの一丁すら持っていない。その手に握られている唯一の武器は“ジャガイモ潰し”と呼ばれたM24手榴弾だけであった。
「クソったれ……クソったれ……!」
ドイツ兵は悪態を吐きつつ、真っ暗な森の中を蹌踉めきながら遮二無二、スターリングラードとは反対の方向、西の方へ向かって走っている。どこからどう見ても、男は脱走兵であった。
どのようにしてスターリングラードの包囲網から脱したのかは判らないが、とにかく地獄の坩堝から逃げ出すことができたのは幸運としか言いようがない。しかしスターリングラードを出てもなお、ここは赤軍が支配する人外魔境であることに変わりはないのだ。友軍の所在など知ったものではなく、生きた心地など味わいようもなかった。
あるいは、地獄の様相を呈していたとは言え、スターリングラードには仲間がいただけマシだった気すらした。今は完全な孤独である。ましてや戦闘を放棄した脱走兵、現状は友軍に処刑されても文句の言えない身分なのだ。
男は疲れ切っていた。もうかれこれ丸々2日も寝ていない。半年にも渡る抑圧された戦闘で寒さや空腹には慣れていたが、疲労と睡魔には逆らえない。
ふと見れば、前方に藪に囲まれた手頃な窪地があることに気付いた。まるで天然の塹壕だ。ドイツ兵は何も考えずに窪みの中へ転がり込み、凍死の可能性を憂う間もなく眠った。
どれくらい時間が経ったのだろうか。男は頬を照らす暖かな気配を感じて目を覚ました。それは小さな焚き火だった。目の前に金色に輝く炎が揺らめいている。
「おい、目を覚ましたか、ジャガイモ野郎」
何が起きているのか理解するよりも先に酒焼けしたような男の声がした。酷いロシア訛りはあったが、何とか聴き取れる程度のドイツ語だ。
「……ウォッカ野郎か」
小さな焚き火の向こうに座っているのは熊のような巨漢の赤軍兵士だった。ドイツ兵に優るとも劣らないほど薄汚れた格好をしている。
「オレを捕虜にする気か」
「いや。オレも脱走兵だ。この森で迷っているうちに偶然この穴ボコに落ちて、お前さんと相席することになったというわけだ」
そして小瓶を放る。ドイツ兵は躊躇いもなく瓶をクチにしたが、中身は油臭い強烈なアルコールだった……たぶん酒と呼べるようなモノではなく、工業用の何かだろう。一頻り咽せてから小瓶を投げ返す。
「たいした酒だな、ウォッカ野郎」
それを聞いた赤軍兵は怪訝そうに顔をしかめる。
「オレはウクライナ人だよ、ジャガイモ野郎」
「それを言うならオレだってルーマニア人だ」
そしてふたりは自嘲気味に嗤った。
「お人好しだよ、オレたちは」
「まったくだ」
スターリングラードの戦いは43年2月に赤軍の勝利によって終局した。
戦死者(行方不明含む)は両軍合わせて約60万人以上とされ、史上最大規模の市街戦であり消耗戦であった。
例によって用語・用法・公証などに間違いや誤用があるかとは思いますが、お許しください。
数ヶ月に渡って更新が滞っていたくせに、書いたら即UPしたくなるという悪癖のため、なんと1日に2話更新というアホらしい妄動をカマしてしまいました。
しかも例によって例の如く、戦記だか何だかも良く判らない殴り書きです。でも年が変わってから少しずつ調子が上がってきているので、テンションを維持するためにもムチャを承知のショック療法って感じですか。お付き合い頂いた読者様に申し訳ないです。
ポツポツ架空兵器の物語を書こうかな、と思っている近況でした。
追記:
副題を変えました。良く考えたらチュイコフの名台詞は内容にそぐわなかったですw