母の言葉
[chapter⑦]
翌日、私が教室のドアを開いて中に足を踏み入れると一気に私の元にクラス全体の視線が集中した。
直視するわけではなく、私の反応を遠くから伺っているようにみえる。
同時に短い沈黙が訪れる。
私の机の上を確認すると予想通り黒ペンで無数の文字が乱雑に書かれていた。
私は机の側まで近づくとそこに雑に筆下ろしされた文字を眺めた。
正義のヒロイン参上www
男の気でも引きたいの?転校生
ビッチ
死ねババア
なんやら一つだけ的を射ているような気がしなくもない悪口があったので私は呆れて溜息を吐く。
再びクラスメイトたちに視線を戻してみると、亜紀のようにショーを観に来た観客のような目つきをしている生徒も多少いるが中には同情や憐憫といった感情を持ってくれている生徒がいるのも見てとれる。
すると、俯いた千佳が濡れた雑巾を持ちながら私に歩み寄った。
「昨日助けてくれたから、、今日は私も拭くね、、」
怯えた小声ではあるが、真摯な気持ちを伝えてくれる千佳に私は優しく微笑む。
「うん。ありがとね、千佳ちゃん。けど、大丈夫っ。
私の机はこんなにも綺麗だから」
「え?」
私のこの言葉には千佳のみならず、亜紀を含めたクラス全員がはてなを頭上に浮かべる。
「だって、ここはるかちゃんの席、、」
「うん?あ〜、確かに 私の席だね。けど、机は違うな。中見てみなよ」
そう言うと、亜紀は慌てて千佳を手でどかして落書きされた机の中身を確認する。
中から姿を現したのは、氏名欄に“江頭亜紀”と書かれた国語の教科書であった。
「ちょっと、これ私の教科書じゃない!?
てことはこれ私の机、、なんで」
「代わりに亜紀の席には私の机があるね、おかしいな?入れ替えなきゃ。
にしても亜紀の机すごい華やかだけど それ自分で描いたの?変わったデザインだね、私嫌いじゃないよ笑」
私は状況を呑み込めていない亜紀に嘲笑を浮かべる。
「あなた、、まさか、これを見越して机を入れ替えたとでもいうの、、!」
怒り狂った獣のような目つきで私を睨みつける亜紀を他所に、私は知らぬ顔で互いの机を移動させた。
私が昨日の放課後に仕掛けた策に気づいたクラスメイトからはクスクスと若干の笑い声が聞こえる。
「あなたねぇっ、、調子に乗ってくれるじゃない!」
「そんな怖い顔されても困っちゃうな、それ書いたの私じゃないし。誰なんだろうね」
すると、亜紀は私の目前まで迫ってくると私の襟を強引に掴んできた。
担任の先生がクラスに到着したのはまさにそのタイミングである。
「ほーい、おまえら席つけ〜。HR始めんぞ、日直あいさーつ」
亜紀は軽く舌打ちをすると襟を離してデザイン性に富んだ机へ戻り、いかにも機嫌の悪そうな表情をみせながら椅子に腰を下ろした。
「えーと、まず先週言ってた体育祭の実行委員だが結局誰かやってくれる奴いないのか?」
そう言いながら教室を見渡す先生に向かって亜紀は口を開いた。
「先生〜。個人的な推薦なんですけどー、結城遥香さんがいいと思いまーす。
結城さん責任感も強くて、どんな仕事も余裕でこなせちゃうも思いまーす」
はぁ、本当に若い子の執念って尽きないというかなんというか。
相手してるの超疲れるんですけど。
「ん。そうか、江頭はそういうことだが他にはいないか。
いないなら、じゃあ結城になるぞ」
担任の先生はどこか気怠そうな様子をみせているため、とっとと決め事を済ましてしまいたいタイプであると見受けられる。
本当にこのクラスの教師さんはもう救いようがないんだね。
保護者の皆さんがこの実態を知ったらどうなるんだろう。
私のお母さんなんて形相を鬼にして喝を入れるんだろうな。
我が子がこんな大人に教育される日が来ないことを願うばかりだよ。
私は呆れて溜息をつくと、鋭く担任を見据えて徐に口を開いた。
「わかりました。先生がどうしてもっていうなら責任持ってやらせて頂きます。
近頃、両親は仕事で忙しいので朝食も夕食も私が準備しなければならず、転校期間で周りと差がついてしまい成績不振に陥った英語の復習にも時間をかける予定でございまして、そのため短期間ですが予備校にも通うことになった上に、その学費を親に負担を掛けたくないためファミリーレストランにおけるアルバイトも高い頻度で行っておりますが、
先生が私に実行委員をやる余裕があるか否かを確認なさらないということであれば、生徒という立場上それを断わる義務は私にはございませんので、
私なんかでよければ責任感を持ってやらせて頂ければと思います」
静寂に包まれる教室。
隣の生徒の凍りついた背筋。
しかし、いいですか先生。
これは私の都合とか、そういったものをただ単に詳細に並べているわけではありません。
というか、こんなの全部デタラメです。
わかりますよね?
これは、あなたに教師としての自覚を再認識させてもらうための発言です。
いわば、忠告ですよ。
あなたは、気付かなければならない。
教育者として既にイエローカードを引いている現状を、そして二回目はないということを。
一拍置いてから担任の先生は、慌てて何か言葉を探している。
「あ、あぁ。そ、そうか汗。結城の都合もあるよな、、忙しいということなら強制はできないさ、、
ほ、他にいるか?汗」
首筋に若干の汗を流す担任の先生に少しでも反省の色が出ていればと願うばかりであった。
結局、クラスの学級委員長がそのまま実行委員も兼ねるということで結論づけられHRは終了した。
授業が始まると、亜紀の席とその周辺のギャル気質な女の子たちは私の話題でもちきりとなった。
昼休みになると亜紀はあえてクラス全体に聞こえるような声で私の悪口を連発していたので黙って聞いていれば、なんだか結城遥香が佐藤翔太郎に告ったなどとまたデタラメな嘘話が創り上げられていた。
本日最後の美術の時間はどうやら担当の先生は厳格な方らしく亜紀たちも黙ってデッサン用紙と向き合っていた。
口数の減った亜紀に加えて、絵の具を使った自然画の描写など学生時代以来なため 私はやっと訪れた平穏な授業に安堵の溜息をついた。
しかし、その平穏も長くは続かなかった。
デッサンの途中経過をクラスメイトたちで互いに見せ合いながら講評し合うという時間帯がやってきたのである。
席を離れての行動が許されたこの時間帯、亜紀は案の定キャップを開けた絵の具を片手に持って私に近づいてきた。
間違いない。
あの子、例のアレをやるつもりである。
さて、どうしたものか。
何食わぬ顔でこちらに歩を進める亜紀。
私のすぐ横にさしかかると、彼女はあからさまに転ける演技をすると持っていた絵の具を私のデッサンに向ける形で倒れかかった。
私が40分間かけて描いた小麦畑の上に鮮血の絵の具が勢いよく飛び散る。
「あら〜、結城さんごめんなさいね〜、私うっかり、、って ちょっと?!あ、あなたなたしてくれるのよ?!」
突如として奇声を発した亜紀に周りの視線が集中する。
「亜紀どうしたのって、、、えっ」
心配そうにその場に駆けつけた亜紀の友人は亜紀の上着に目線を固定すると目を見開いて驚く。
それもそうだろう、彼女の上着には鮮血の絵の具になぞられたような跡が残っていたのだから。
そう、私は私のデッサンに絵の具がぶちまけられた瞬間にわざとらしく慌てた様子を見せてから驚いた拍子に絵を投げ飛ばすフリをしてみせたのである。
そして、その絵は見事に彼女の上着に直撃。
彼女が私のデッサンの上に垂らした絵の具の分だけ、彼女の服にも着色したわけである。
「こちらこそうっかりしちゃってごめんねー亜紀。けど、あなたは私の絵を汚して私はあなたの服を汚した。お互い様ってことで問題ないよね?」
「結城さん、あなたねぇっ、、、!」
「こら、そこ騒ぐな」
先生に一喝を受けた亜紀は拳を握りしめ下唇を噛み締めながら私の前から去っていく。
そんな具合に亜紀との冷戦で紆余曲折を経てから私にとって長い長い一日が幕を閉じた。
いくら身体は女の子でも精神面は参っちゃうなぁ。
お母さん、あの亜紀って子ほど強い執念も体力もないから尋常じゃないくらい疲労が溜まっているのが自分でもわかるよ。
ほんと困っちゃったな。
私がこの年齢でやりたかったのはこんなくだらない冷戦じゃないんだけど。
そう内心で呟き苦笑しながら、放課後の部活見学でもしてみようかと廊下に出たところ、散々聞き飽きた声に再び呼び止められた。
「待ちなさいよ、結城さん」
またか、と気怠さの残る体で後方を振り返るとそこには絵の具を洗いとったからであろう濡れた上着を羽織りつつも余裕のある様子で構える亜紀の姿があった。
「なに?」
「あなたにいい加減誰を敵に回したかわかってもらおうと思ってね、いいわよ。
出てきなさい、ラグビー部」
すると、お隣さんのC組の教室からやけにがたいの良い3人組が姿を現し亜紀の前で並ぶと全員揃って私を睨みつけている。
中でも中央に位置する特段に身体の大きい男子はコキコキと首を鳴らしながら私から目線を逸らさない。
その奥で亜紀はほくそ笑んでいるのが見えた。
「ふふふ、あっはははw
いい気味だわ〜結城さん。
そいつら、いくら女の子でも手加減しないわよ。
ってことであなたたち、軽く関節技でも決めて差し上げて」
すると、3人は無言で頷き私に近づいてくる。
私は少し焦りつつも、何か喋ることで時間稼ぎを試みた。
「男子諸君失望したな。女の子に手を出すなんて。親が泣くよ?」
「ふん、聞いた通り生意気な女だな」
「ところで、君たちはなんでそんなに亜紀の言うこと簡単に聞けちゃうんだろ。
身体の契約でも交わしてたりして?」
「アァ?」
「図星、、だね」
全く、若い子というのは。
時代も変わったね。確かに亜紀の胸は一見して育ちが良いことはわかるけど、それにそこまで盲目的になれるなんて。
「じっとしてろ、大丈夫だ。関節を軽く外すくらいにすましてやるよ。騒いだら、骨までいじってやるぞ?わかるよなぁ」
「っ、、」
気が付けば私の足は、徐々にそのラグビー部3人組から距離を取る形で竦んでいた。
「あっははw いいわよぉ、いい顔するじゃない結城さ〜んっ」
腹を抱えて笑う亜紀とその周辺の友人たち。
緊張と焦りで早まる胸の鼓動。
不覚にもこんな年で恐怖の念が拭いきれない。
助けを乞おうと周りを見渡してみるにも、頼りになりそうな人はおらず 数名がただ単に私を哀れんだ様子で見てくれているだけである。
こんな時になってどんな時でも私の前に出て守ってくれた夫が愛しくなってくる私はなんなのだろう。
「さ〜て調教タイムだ。まずはお試しに右腕からっと」
俊敏に伸ばされたラグビー部男子の手は私の右腕を的確に握ってきた。
私は思わず目を瞑る。
そこから勢いをつけて腕の回る方向とは逆方に捻られようとした瞬間である。
「待てよ。取っ組み合いの喧嘩がしたいってならこの子よりも先にこの俺としようぜ?」
「え、、」
聞き覚えのある澄み渡った声に心臓が強く脈を撃つ。
間違いない、あの雨の日。
八百屋の錆びれた屋根の下で傘を渡してくれたあの子の声だ。
ドクンドクンと早まる鼓動とは裏腹にゆっくりとその子へ視線を向ける私。
すると視界に映り込んできたのは、いつしか私が夢見た肌白くて綺麗な少年の横顔であった。
「君、、あの時の」
「よっ、腕握られてたけど平気?どっか痛むとこねーよな?」
そう言って、私に向き直った少年を正面から見た瞬間 私の中の予感は確信に変わった。
あまりのことで、息ができなかった。
「顔を合わせるのは2回目になるね。結城遥香さんっ、俺の名前は、」
「わかるよ、、」
「え?」
「わかるよっ、、泣
わかる、、、よっ、、泣」
私は今にも泣き出しそうになる。
「えっ?汗 ちょっと、どうしちまったんだよ汗 もう怖がんなくてもいいんだぜ?汗 」
二重でぱっちりとした大きな目に、透き通った黒色の瞳。
線は細くても男の子らしいがっちりとした鼻。
凛としていて、可愛らしさの残る唇。
形は小さいけど、内側に少し巻き込むような形をした耳。
右目とその上の眉の間に薄っすらとみえる小ちゃなホクロ。
ちょっと低くなっているけど、甲高かった頃の面影も残した透き通った声。
間違いない。
君は、、、っ。
「ほ、ほらっ 泣くなって汗
大丈夫だ、あいつらは俺が蹴散らしてやるからよ、な?」
私は震える声で精一杯言葉にした。
いろんな意味での、そして沢山の感謝を込めてこの言葉を口にした。
「ありがとうっ、、、
かけるっ泣」
奇跡って、こういうものなんだと思った。
まだ駆け足ですらおぼつかない程幼かった息子が12年間の時を経て 私の前に姿を現したのである。
私は母の言葉を思い出す。
それは、私が第一児の駆を神様より授かった日に言われた言葉だった。
ーー
「いい?楓。
男の子っていうのはね、時に沢山お母さんに反抗するし沢山お母さんを毛嫌いするかもしれない。
けどね、大切に大切に 愛情を持って育てればいつか必ず大切なお母さんのピンチに降り立ってあなたを何があっても守ってくれるような
そんな世界でたった1人のかけがえのない貴女の味方へと成長するのよ」
ーー
不思議なもので、こんな年齢になっても年を取る度に学ぶことがたくさんある。
私のお母さんに教えられた言葉はいつだって、時間差を経てから私の胸にじんわりと響いてくるのだ。
「お?なんだ、俺の名前知ってくれてたんだな。由奈あたりから聞いてのかな」
ニッと笑って白い歯を見せてくれるかける。
私の前にヒーローとなって現れた息子の成長した姿にもう既に涙を堪えきれていなかった。
私が余命を宣告されてからひたすら心配で心配で思い耽っていた我が子の未来を 我が子自らがその身をもって元気にしてるよって教えてくれたのである。
こんなにも力強く立派に二本足で健康な姿で立っている息子の姿に胸が打たれる。
「オイオイ、てめぇB組のサッカー部主将の宮代駆だよな」
そう言われると駆はラグビー部の男子生徒に向き直る。
「おまえも名前知ってたか?てめぇみたいな女の子に手出す屑に名乗る必要がなさそうでなによりだぜ」
「ほぅ、どうやら口だけは達者のようだな。さっき俺たちを蹴散らすとか言ったか?
はっ、笑わせんなよへなちょこ野郎。
女の子の前だからってちょいとカッコつけすぎちまったんじゃねーの?これから無様な格好することになるぜ」
「はっ、その台詞そのままお返しすんぜ。
別に俺1人でもぜーんぜんっ構わねぇんだけどよ、いかんせん俺たちサッカー部全員、
喧嘩っ早くてよ」
すると、その言葉を待っていたかのように駆の後ろからぞろぞろサッカー部部員と見受けられる多数の男子生徒が姿を現した。
亜紀を含めて周りでこの状況を傍聴していた生徒達も驚いた表情をみせる。
出てきた部員たちはそれぞれ一癖も二癖もあるようで、なんだかこれから起こる喧嘩にうずうずしているようだけれど、みんな共通しているのはキャプテンの駆に絶大な信頼を寄せてくれていることだと私は感じた。
「ったく、キャプテンはすーぐ1人で無茶したがるからなぁ」
「ばーか、別にこれくれぇ俺1人でも十分だよ」
「しっかし、由奈ちゃんの言った通り遥香ちゃんって本当に可愛いなぁ」
「久々に俺の鍛えあげられた右腕が炸裂できそうだな」
「んな、由奈から聞いたけど遥香さんって1人でいじめっ子に対抗してたんだろ?こりゃ、正義感の塊である駆が黙ってるわけねぇや」
やっぱり、そうだ。
正義は必ずいつの日か人を惹き寄せる。
たったの1人でも、必死にいじめに抗うことで駆達みたいな優しくて そして勇気のある子供達が絶対に振り向いてくれるんだって。
当初の私は既に自信を失っていたけど、この子達に正義を貫く大切さを再認識させられたように感じて胸が暖かくなる。
私の短いようで長かった戦いは、この子達が終わらせようとしてくれているのだ。
「仕 方 が ねぇ か ら、手伝ってやるよ。キャープテン」
中には欠伸をしながら呑気に登場してくる部員たちもいて 駆は彼らに一目置くと、口元を緩ませて口を開いた。
「んじゃまぁ。仕 方 が ねぇ から 手伝わせてやるよ。始めんぞ、おまえら! 」
「っしゃ!」
駆の号令によって、二大勢力の拳の殴り合いが幕を開けた。
止めるにも止められない、男子高校生らしい見ていて危なっかしい喧嘩だったが、私は駆が致命傷を喰らうことだけはないようびくびくして震えながら見守っていた。
にしても、カッコいいねえ男の子というのは。
どうにでサッカー部って女の子達にモテちゃうわけだ。
それぞれの子供達のお母さんたちに見せてあげたいけど 怒るお母さんもいるか笑。
その喧嘩は思っていたよりも早急に幕を閉じた。
後ろに守るべき存在を控えた者達と控えていない者達ではその力差は一目瞭然であった。
顔に無数の痣を貰ったラグビー部たちは荒い息遣いで駆たちに尻を向けて走り去った。
「て、てめぇら。今度はこっちも部活全員で相手してやるからな。覚えとけよ。
ご、ごめん亜紀ちゃん。君とのラブラブワンナイトはまた今度にしてくれっ」
「ちょっと!?待ちなさいよ!汗」
そう怯えながら、呼び止めるも彼らは止まらない。
亜紀が恐る恐る前を振り向くとそこには瞳に怒りの闘志を宿した駆が立っていた。
「きゃっ!こ、こっち寄らないでよ!」
「さっきのあいつらは遥香に手出したけど、俺は絶対っにださねぇ。
なんつったっておまえ女だから。
女を殴る男はクソダサいからな、1回目は許してやるよ。
けど、一度しか言わねぇからよーく覚えとけよ。
次やったら骨折るぞ」
「ひゃっ、キャーーッ!!」
まるで漫画に出てくる悪役の終幕のような姿で逃げ惑う亜紀を見て私は若干気の毒に思った。
そして、駆は私に向き直ると無垢な笑みを浮かべてこう言ったのである。
「ほらなっ、怖がんなくていいつったろ(ニッ)」




