どうか、安心して下さい
[chapter④]
「じゃあ出来上がったら呼ぶから、宿題でもしながら待ってなさい」
正直、突然のことで頭の整理もつかない状況である。
だって、もうこの世にはいない筈のお母さんが再びこうして私の目の前に何食わぬ顔で現れているのだから。
「ッフゥーー、、」
とりあえず私は、深く全ての息を吐き出すかのように深呼吸をし瞼を閉じた。
真っ暗な世界の中で、私は自分の胸に言い聞かせる。
いい?これは、私に与えられた母との惜別の時間。
私と母の間に許された最後の時。
大事にしなくてはならない。
そう胸の中でこだまさせ、顔をあげると私の視界の中にふと一枚の写真立てが入り込んできた。
小さい頃からずっと部屋の隅に位置する本棚に飾ってある、若干の埃を被った写真立て。
確かまだ私が7才くらいだった頃に撮ったものだ。
満面の笑みを浮かべた私を挟んだ両脇には同じく楽しそうな表情をみせるお母さんと半ば泣き面のお父さん。
「そっか。この時 お父さん、自分の手に持ってた凧糸に足を絡ませたんだっけ笑」
不思議なもので、未だに覚えている記憶というものは他愛もない休日に凧揚げをした日の天気なのである。
それは、まだ冬の寒さが残る雲ひとつない晴れ日だった。
ーー
「ほらー、パパはやくー!写真に写らないよ?!」
「よーし待っててなぁ、楓。お父さんすぐそっちに行くから、、って イテェッ!!」
「ちょっと、お父さん!?」
お父さんがあまりに豪快に転けるものだから、お母さんも慌てて甲高い声をあげてしまう。
「イテテテッ汗 足が糸に絡まっちまった、、」
「もぅあんたおじいちゃんね笑」
「ねぇーえー!パパ、のろのろしない!」
「ほら、言われてるわよお父さん笑」
「わ、わかったよ楓ちゃん! よっこいせっと汗」
「ほら、楓〜、お父さん〜、シャッター切られるよ〜 3..2..1..」
「いえーーい(≧∀≦)(ピース)」
パシャッ。
ーー
しみじみと蘇る昔の記憶に想いを馳せ、私の胸はじんわりと温かくなる。
振り返れば、私の母が亡くなったのは40過ぎ。私がちょうど大学生に進級した頃だった。
私が高校生だったちょうどこの頃も既に身体は弱り始めてたっけ。
当時、高校では給食が撤廃され、弁当の持参が認めらるようになっていた。
しかし、お昼の時間 周りの友人達が楽しそうに弁当の具材を交換をする中、私に笑顔が灯されることはなかった。
体の弱い母の作る弁当は決して褒められたものではなかったのだ。
並びは乱雑で見栄えも悪く、味も調理の過程を覗きたくなるほどに不味かった。
次第に、日を重ねるごとにその味は母の身体と共に劣化していき、とうとういつしか私は母の知らないところで弁当の中身を裏庭のゴミ箱に捨ててしまうようになっていた。
今思い返しても、親不孝な娘である。
しかし、不味いからもう作らないで とはなかなか言い出せなかった。
そして、とある日の朝。私が眼をこすりながらリビングに顔を出すと、やけに張り切った様子でエプロンをぶら下げる母の姿が台所にあった。
どうやら、その日は私の誕生日記念として弁当の中に私が幼い頃から大好きだった味付け卵を入れたいのだという。
その時の母の言葉はいまだ尚、脳裏に鮮明に焼き付いている。
「お母さん、楓のために味付け卵作ってみたんだ。口に合うといいな」
私は居た堪れない気持ちでその弁当箱を受け取り、学校で試しに蓋を開けてみればいつもと変わらず、中身はぐちゃぐちゃだった。
肝心の卵はというと、殆んど色合い的にも煮込まれておらず、殻の欠片が散乱していてとても食べられたものではなかった。
私が家に帰ると母は「楓、、今日のお弁当 美味しかったかな?」と聞いてきた。
何も知らなかった私は思わず、「悪いけどお母さん、全然美味しくなかったよ!もう、これから弁当なんて作んなくていいから!」
言葉にした後になって私は母が怒ると思って身を竦ませたが、母の反応は予期していたものとは違った。
「そぅ、、ごめんね 楓。せっかくの誕生日なのに、、上手く作れなくて、ごめんね、、」
その日の母は、やけに小さく見えた。
それを境にお母さんは弁当を作らなくなった。代わりにテーブルの上には少し多めに、食事に変わる小銭が置かれるようになった。
それからほんの数日後、母は他界した。
ここ最近、調子が悪そうだとは思っていたが まさか心臓病にかかっているだなんて思いもしなかった。
母のことだから、私の前では一生懸命元気なフリをしていたのだろう。
私は母を失った日、家に帰り 力無く居間に足を運ぶと、母の居ない現実を叩きつけられては膝から崩れ落ちた。
酷く自分を呪い、恨んだ。
何日も、何日も 布団に蹲って私の体の代わりに私の布団を叩き続けた。
身体が辛くても、私のために必死に汗水を垂らして懸命に作った弁当という名の愛情を無下にした無知な私を過去に戻れるものなら戻って殴ってやりたいと、何度もそう思った。
そして、ただひたすらにもう一度だけでいいから
お母さんに会いたいと、そう思った。
「楓〜、ご飯出来たわよ〜」
私は、はっとして俯かせていた顔を起こすと、 リビングに歩を進める。
居間に立ち入ると、香ばしい匂いの広がる肉じゃががテーブルに広げられていた。
身体の弱いお母さんの代わりに夕食はいつもお父さんが作っていたが、今日みたいにお父さんが出張でいない日はお母さんが作ることになる。
夕食だって弁当同様 とても褒められたものではないが 唯一肉じゃがだけは 何故か 日々美味しくなっていた。
これは母が亡くなった後に耳にした事なのだけれど、なんでも母は 家の近くの料理教室でひたすらに肉じゃがの練習をしていたのだという。
母が亡くなった後のある日の夜、料理教室の先生が私を訪ねてはこれだけは貴女に伝えておきたかったのと断りを入れられ、その話をされた。
何故、肉じゃがだったのか。
そんな事、考えなくてもわかる。
私が大好きなメニューだったから。
たった一つだけでも、私の好きなメニューの内たった一つだけでもいいから美味しく作ってあげたいんだ。
って、料理教室に来る度に母は先生に伝えていたのだという。
それを知った私は、より一層 今はもう亡き母の愛情に胸を締め付けらるのであった。
「、、いただきます」
「どうぞ〜」
熱い湯気の立ち込める肉じゃがを箸ですくい、口に運び入れる。
一回一回、しっかりと歯で味を噛みしめて喉に流し込む。
「、、どう、かな?」
「お母さん、、っ 美味しいよ、すっごく美味しい」
お世辞でもなく、本当だった。
本当に、心から 美味しかった。
そこらへんの高級料理店では決して加えることのできない 調味料 「母の温もり」が入ってるんだから。
この肉じゃがだけはどの店舗にも負けない自信がある。
「そう?よかったぁ」
お母さんは胸を撫で下ろして安心した表情をみせる。
しかし、肉じゃがの味がここまでに洗練されているということは、同時に母の死期も間近に近づいていることを暗示していた。
そっか。この世界でもお母さんはもう、長くはないんだ、、。
お母さんも、私の感想を聞き終えると 私よりも一回り小さい茶碗にご飯を盛って 前に向かい合う形で腰を下ろす。
お母さんも遅れて肉じゃがを口にする。
改めてみると、本当にお母さんって痩せてるなあと思う。
ご飯の量も異様に少ない。
手首や首元なんて特に、骨格がくっきりと浮かび上がっている。
当時の私はこんな事にすら気がつけなかったのかと今になって後悔の念がどっと荒波のように押し寄せてきた。
「どうしたの、楓」
「え?」
突然の問いかけに私は目を見開く。
「なんだか暗い顔してるけど、何かあった?」
「!!」
咄嗟に、私は目頭が熱くなりそれを隠そうと顔を俯かせる。
一体、いつぶりだろうか。
こんな些細な表情の変化で私の心理を読まれてしまったのは、改めて考えてみると私の母くらいしかいない。
唯一、お母さんだけには私はいつだってどんな嘘をついてもすぐに見抜かれていたんだ。
「凄いね、、なんでわかったの?」
「そりゃ私の娘ですもん。わかりますよ」
母は得意げな表情でそう言う。
やっぱ、敵わないな。
私の良いところも悪い所も、包み隠さず全て見抜いたうえで愛してくれる。
そんな存在って他にいるのだろうか。
若くして母を失った子供が知らず知らずの内に封じ込めていた、、否、封じ込めることでしか前に進めなかった感情。
それは、「人に甘えたい」というものであった。
いつからだろう、こんな感情を封印していたのは。
夫が出来て、子供ができて、気が付けば自分は家族を支えなければならない責任を背負っていて、年は優に30を超えて、、、
なのに、、、なのに、こんな年になってもまだ、思ってしまう。
この人には 甘えていたい、って。
赤子のように母に飛びつきたくなる衝動を抑えて、私はずっと母に尋ねたかった質問をしようと決心し箸を置いて顔を上げる。
「おのさ、お母さん」
「なにー」
「お母さんはさ、、これまでの人生、生きてきて、その、、幸せ、だったのかな、、」
「え、、?」
「い、いいじゃん// たまにはこんなこと聞いても、、」
「えぇ?なんだか今日の娘はやけに素直ねぇ、まぁ可愛いからいいけど♪」
気まずくてとても目線は合わせられないけど、それでもこれが本当に最期だと思うと、呑み込むわけにはいかなかった。
あの日、母を失った日、何度も空に向かって問いかけても答えは得られなかった。
私は結局、なんの親孝行も出来ずに なんの恩返しもせずに 親に先立たれてしまった。
そんな私でも、、そんな私だからこそ これだけはどうしても母の口から直接聞きたかった。
「だってさ、、お母さんって いつも私のことばっか優先するでしょ、自分のことはぜーーんぶ後回しにしてさ、、
そんなんで、、お母さん、幸せなのかなって、、」
私のあまり唐突な質問に流石のお母さんも驚いた表情をみせている。
無理もない、無粋な質問だろう。
それでも、どうしても母が生きている内に聞いておきたかった。
お母さんの盛るご飯のお茶わんはいつだって私のより一回り小さかった。
どれだけ自分がお腹減ってても、私に熱々の料理を食べさせるために夕食時間を遅らせたりして、別に先に食べてもいいのに、、
おめかしを怠っちゃ女の子失格よって言いながら新しい服ばかり買ってくれるくせに、自分は古着ばかり。
あまりにお母さんの服が少ないもんだから、卒業式に着ていくスーツもなくてあの時は焦ったね。
そういえば、いつも日曜日は仕事帰りに料理教室に通ってたよね。
けど私知ってたよ、お母さん本当はヨガ教室通ってみたかったんでしょ。
わかるよ、棚にヨガの本ばっかりあったんだもん。
食卓にお刺身が並べばお腹減ってないだのなんだの理由つけて、全部私に食べさせて、、
本当はお刺身大好きなくせに。
お風呂の順番はいつだって私を最初にして、お母さんは2番目だったよね、、
あ、でも 最後がお父さんっていうのは譲れなかったみたい。
そうそう、私 小学校の時バスケやってたじゃん。
あの頃、いつしかの試合でさ お母さんあまりに声張って応援するもんだから 私友達に笑われちゃったんだよ?
楓のお母さんは元気だね、って。
どんなに派手に喧嘩した日でも、夜は必ず私が寝ている間に布団を掛け直しに来てくれてたよね、、
そんなことしてるから快眠できてないってお医者さんに言われちゃうんだよ、、
私が運動会のかけっこで一位になった時も、習字のコンクールで賞を取った時も、第一志望の高校に受かった時も、私より喜んじゃってさ、、
身近にいる者から受け取る愛がどれほど価値のあるものなのか、私がその価値を知ったのはそれを失ってからだった。
情けないだろう、不甲斐ないだろう、それでも私はこの母の愛情を失ってからやっと気づいたのであった。
過ぎ去りし日々を思い返せば、返すほど 昔私の胸の中に積み重ねられていった母の記憶の片鱗が次々に顔を覗かせる。
けどね、お母さん。
私が、子供を持ってお母さんと同じ立場になった今だからこそわかるんだ、お母さんの気持ち。
私が駆と柚子のことでいっぱいになるのと同じで、お母さんも私のことでいっぱいだったんだね。
私の記憶の中にいるお母さんはいつだって自分を後回しにして、私を優先していたんだ。
「いい、楓。私の今までが幸せだったかどうかってのはね、楓次第なんだよ」
「私、次第?」
お母さんは静かに首を縦に振る。
「お母さんはね、楓が笑えば嬉しいし、楓が泣いちゃってたら悲しいし、楓が楽しそうにしてたら楽しいの」
私は思わず下唇を噛みしめる。
「だからね、楓。お母さんは、楓が幸せだったら それ以上に幸せなことなんてないです。
楓はどうですか?」
ぽた、ぽた、と 気が付けばテーブルには数多の雫が私の眼から溢れ頰をつたって落ちていた。
私はもはや声にならない声を必死に言葉にした。
「うぐっ、、だって、、私 まだお母さんになんも恩返し出来てないし、親孝行なんてしたこもないのにっ、、なのにっ泣」
そう言うと、お母さんの手は優しく私の握り拳を包み込んでくれた。
暖かい、懐かしい母の体温が直に感じられる。
冷えていた胸の奥底がじんわりと火照っているような気分だった。
「いいの。お母さんはね、楓が大きくなって誰か素敵な男の人の元で素敵なお嫁さんになって、可愛い女の子とかっこいい男の子を産んで 幸せにしてくれたら それでいいの」
もはや、私は自分の眼から溢れ出るものを堪えることはできなかった。
「なるよっ、絶対なるからっ、素敵な夫も見つけるし本っ当に可愛い子供だって産むし 私、幸せになるから、、だからあっ泣」
「そう。なら、お母さんは幸せ者だ」
お母さんは迷いも屈託もない、真っ直ぐな笑顔でそう口にした。
私がこの世界線の先で出会う未来を、お母さんは見届けることが出来ない。
お母さんが心から願った未来。
それは、素敵な夫と最愛の子供に囲まれて私が笑顔で過ごすことなんだろう。
けど、大丈夫だよお母さん。
私は、今 幸せです。
お父さんも、かけるもっ、ゆずはもっ、、、みんな私にとってかけがえのない本当にかけがえのない、宝物だから。
だからさ、お母さん。
どうか安心して下さい、私は 幸せ者ですっ。




