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恐るべきもの

「殺した」

 その単語が耳に飛び込んできたとき黒曜はしばらくかたまっていた。

 黒曜は軍人の娘だ。子供のころから家に出入りしているうちのかなりの数の人間が、殺人の経験があるはずだ。

 いまさら人を殺した経験のある人間が現れてもどうってことないと思っていた。

 だが、その対象が、自分と敵対関係になるかもしれないとなると話は違う。

 黒曜と翡翠は皇帝の寵愛を争う敵対関係だ。

 事実上絶対的な戦力差があり、それは成立していないが。

 そして、たおやかなどこか寂しげな顔をしたその女が人を殺せるその事実が理解できなかった。

 珊瑚は、人を殺せと命じることはできるだろう。しかし、自ら武器をとって、人の心身を傷つけ死に至らしめることができるかどうかはどうだろう。

 だが翡翠はやったのだ。

 翡翠は煮えたぎるような憎悪の視線を受け、それを何の感情も交えない冴え冴えとした目で見返していた。

 凍り付いたように二人の男女は見つめ合っている。

 二人の間にあるものは片やふつふつと吹き上がらんばかりの憎悪。方や凍てついた沈黙。

 あんな目でにらまれたら自分ならその場で泣いてしまう。しかし、翡翠は悠然と相手を見返している。

「あの方を殺めた罪を償ってもらう」

 その時翡翠は目を伏せた。

「そうね、あの時のことを、私はずっと悔やんでいたわ」

「だがもう遅い」

 男は一歩踏み出した。

 その背後に翡翠についていた妓女がいた。

 あの妓女は翡翠にずいぶんと信頼されていたはずなのに。翡翠を裏切ったのかと黒曜は呻く。

 そして、このままでは翡翠が殺される。そして、どうしてこんな場所に自分がいるのかということに非常に説明が難しいことに気づいた。

 下手すれば、翡翠殺害の濡れ衣を着せられてしまうかもしれない。

 妓女も一歩進む。そして、笄を引き抜くと男の足首めがけて投げた。

 踵に深々と突き刺さる笄に男は体を傾ける。

 次に翡翠が自分の笄を引き抜き男に向かって投げた。

 今度は左目に刺さる。

 悲鳴は上がらなかった。恐るべき精神力でそれだけはこらえる。そして立ち上がろうとしたときまた誰かが入ってきた。

「こいつの仲間は片付いたぞ」

 見覚えがある、黒曜の父がつかっていた配下の男達だ。

「そうよ、ずっと悔やんでいたわ、あの男を殺した時、たった一撃で頭をたたき割っておしまいだった、そのことをどれほど私が悔やんだかわかる?」

 聞いていた黒曜は冷たい汗が背筋を流れるのを感じた。

 薄々、翡翠の話している内容が理解できたのだ。

 首都を襲った反乱軍の顛末だ。

 首謀者は民衆の反撃にあって死んだと伝えられた。黒曜は軍人の娘ではあったが、深窓の令嬢として、屋敷の奥深くで、そうしたことは伝聞でのみ聞いていた。

「そこにいる女は、お前達が殺した男の娘。お前達が殺した女の娘。お前達が殺した女の妹。お前達が殺した子供の姉。それがどうすれお前達の味方をすると思うのかしら」

 翡翠はいつも寂しげで微笑みすら憂いを帯びていた。もし晴れ晴れと微笑めばどれほど美しいかと思っていた。

 しかし今晴れやかに笑うその笑顔は、美しいのに、とてつもなく恐ろしく映った。

 とてつもなく恐ろしいものがそこにいた。


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