胎児
宰相の姿が消えた後、貴妃は大きく息を吐いた。
「お茶の一つも出すべきだったでしょうか」
鈿花が茶器を横目で見た。
「妃がもてなしていい男は皇帝陛下だけだからね」
額にほつれた髪を払いながら貴妃は唇を噛む。
「釘を刺されたと考えていいでしょうね」
賢妃は不思議そうな顔をする。
「おそらく、国母となる可能性の高い人間は私かあなたであることを考えてああいうことを言い出したのですよ」
後宮に入ってしばらく経っている。人間関係や権力の対比図そんなものをある程度読み解けるほどの時間は余裕であった。
「徳妃は最初っから子供を作るつもりはない。淑妃は皇帝が警戒して子供を作るようなことをする気がない。つまり候補者は私たちだけなのですよ」
「すでに決まっているのでは?」
賢妃は貴妃の腹を見た。
「子供が男とは限りません。それに、聞いた話ですが、二人以上子を産んだ妃はいないと」
子供を産めばどうしても体形が崩れる。そして容姿の衰えた妃はサッサと別に乗り換えられてしまうものだ。
「皇帝陛下次第だけどね」
すでに皇帝陛下に見放されて、別の妃をあっせんしろと言われている身にはもはや手が離れたことだ。
「さて、皇帝陛下はお若い、私が古株の妃として見向きもされなくなる日はそう先ではないかもしれませんね」
物憂げなしぐさで長椅子に寝そべる。
「鈿花、ちょっと飲み物を用意して。さっきのお茶はにおいがきついの、さっぱりしたものをお願い」
「青茶にしますか」
「それでいいわ、賢妃殿、どうなさいます」
「私はいいわ」
そう言って、貴妃の傍に歩いていく。
「それで、貴女はこれからどうするつもりですの」
賢妃は、不意に気が付いた。
「どうして宰相は、釘を刺そうと思ったんでしょうか」
貴妃は傍目には欲のない物静かな女だ。皇帝の最初の子を孕んだというのに、いまだおごり高ぶった様子は見せず、物陰に潜んでいるかのような物腰のままだ。
だけど、さっき宰相の話を聞いている途中から、別の女のように雰囲気が変わった。
「さあ、私にはわからないわ」
唇は笑みを描いているが、目は笑っていない。
ぞくっと背筋に冷たいものが走った。
宰相は何を知っているのか。たぶんこの女には裏がある。
そう確信したが、その裏が、どういうものかわからない。
「淑妃に気を付けてください、あの人は本当に馬鹿だから」
かかわりあってはいけないと賢妃は確信した。皇帝の寵愛を争う羽目にならなくて運がよかった。
もしこの女と敵対したら、ものすごく巧妙に抹殺されるかもしれない。
貴妃は茶を飲んでいる。
目が急に虚ろになった。
「宰相が言いたかったのは、もしかしたら、かつて国母になりたがった女が作り出した地獄を私が知っているということ」
「地獄」
「私に何ができるのかしらね、私は地獄の片隅で震えていただけ。何もできなかった」
表情は無だった。もともと整った顔がまるで人形のようだ。
「たぶん、私は何も知らないし、国がどんなことになっても屋敷の奥に閉じこもっていた。だからわかる。見たことがあるというだけで、それは力なんでしょうね」
そう言って賢妃はため息をついた。
「女の子のほうがましに思えてきたわ、おそらく男の子だったとしたら、下手をすれば用済みとして消されかねない」
そう言いながら腹を撫でた。




