晩秋ーーEnd of Fox Maidenーー
「れ、暦有馬……先輩」
それを言ったのは、祭壇の下に居る亮だった。用意周到に持ってきていた包帯で、応急処置をしつつ、祭壇を仰ぎ見ている。
「君は……文芸部の詞宮君だったかな」
それは実に気さくな口調だった。とても、この異常な状況に臨んで参加した者とは思えないーー。
だが、彼がその「気さくな調子」を見せたのは一瞬だった。直ぐに、彼はさっきまでの冷酷さを取り戻し、狐面に向き直った。
「さて。さよならだ、狐面」
「い……いやだ」
か細い声で言い、狐面は、左肩の翼で、暦有馬を殴りつけようとした。
しかし、その翼は『外れてしまった』。全く見当違いの位置を叩き、それで沈黙する。
「ーー『Advanceを失ったことによるショックで、彼女は、まともに翼を繰り出せなかった』。全く、ここで使ってしまうとはな。その気性同様、厄介な女だ」
言い終わると同時、また、さっきと同じガラスが砕ける音が響いた。
それは、彼の横に立つ山城の手中で、ガラス玉が砕ける音だった。何らかのAdvanceで顕現されたものだろう。その玉は、彼女が少し触れただけで割れてしまったのだ。
ーーと次の瞬間。気づいた時、暦有馬の掌は、狐面の綺麗な顔を掴んでいた。
「さようなら」
言い、彼は掌に僅かに力を込めた。
それで、狐面は、まるで糸が切れたかのように、静かに崩れ落ちた。
「な……なにしたんだ………」
彼らに迂闊に近付けない俺は、隙を伺いつつ、訊いた。
その声が震えているのは、自分自身、よく分かっていた。ーー狐面はおそらく、死んでいる。暦有馬が殺したのだ。
ーー彼は今、平然とした顔で、人を一人殺した。
「安心したまえ。彼女はまだ死んでいない」
暦有馬は、羽で作った足場の上に立っている俺に向かい、微笑をたたえてそう言った。
その言葉に、俺はホッとした。狐面が生きていたこともそうだが、暦有馬のような、歳の近い人物が、平然と人殺しをしていなくて良かった、と思ったのだ。
「だが、まあーー」
しかし。その期待は、裏切られることになる。
暦有馬は、さっき俺が弾き飛ばしたハンドガンを拾い上げた。
それで、俺は、彼が何をしようとしているかに気付いた。ーーしかし『暦有馬を信じたい俺は、その場から動くことができなかった』。
瞬間。
暦有馬は、くずおれた狐面の脳天めがけ、銃弾を放った。
こめかみから血しぶきが舞い、そのまま、狐面は完全に動かなくなる。
ーーさっきのそれとは違う、歴然とした、確実な、死の気配。
「ころ……した………のか………!? おまえが……狐面を………!」
憤慨。奇妙なことだが、俺の胸に湧き上がってきていたのは、その感情だった。
「これは「罰」だ。当然の執行だったとーーそういうことだよ」
「当然……だと………」
その言葉を、暦有馬は「そうだ」と肯定した。
「彼女が持っていた狐化しのようなAdvanceはーーいつの時代も、世界に存在していた。
ーーおっと、勘違いしてくれるなよ? それはノヴァ・シリーズや停止者のように、世界に必要だから出現したものじゃないんだ。そうだな……「狐」が現れたのは、必然だったーーと、そう言えばいいかな」
必然。その言葉に、俺は眉を顰めた。
「Advanceというのは、人の欠落を埋めるために成立したものだ。ーーでは、「他人のAdvanceをコピーする」力は、一体、どんな欠落を埋めるためのものなのか……君も、薄々勘付いているんじゃないのかな」
どきりとした。彼の発した言葉は、電車の中で、亮が発したものと同じだったからだ。
ーーいや、その表現は誤りかもしれない。
俺は、信じたくなかったのだ。ーー「そんな人間」が存在するということを。
「狐化しは、完全な空洞を埋めるためのAdvanceだ。一切の個性のない、無味乾燥とした、虚無的な人間性を繕うための力だ」
「自分」というものは、幼い時期に形成され、年齢経過とともに成熟していく。
だが。彼女には、それがなかったのだ。幼児期に形作られる筈の「自分」がなかったためにーー彼女は、他人の「主体」を模倣して、それを「自分」と言い張る他に、生きる術がなかったのだ。
美貌も、教団も、性格も、そして、その目的すらも。彼女に関するものは全て、薄っぺらい模造品に過ぎなかったーー。
「全く、つくづく厄介な力だ。ーーだがまあ、利用価値だけはあったというわけだな」
「利用価値……?」
狐面の本性を知り、虚無感に満たされていた俺の心に、一瞬にして、強い感情が沸き起こる。
ーーそれは「怒り」だった。莫大で鋭い、最も人道的で非道な激情。
「ふざけるな……お前、人を何だと思ってるんだよッ!」
「ーーAdvanceの器さ。その他に存在価値はない。ああ、そうそう。私のAdvanceは、相手の脳を変質させるものだ。「洗脳」ではない。脳の構造を作り変えるのだからな。ーー発動条件は、頭に触れることだ」
その言葉を律儀に最後まで聞いてやると、俺は、外却色の刹那を再び起動し、一気に、祭壇まで飛んだ。その視界の端に、山城が、ガラス玉を掌に顕現する様子が映る。
あれは「周囲の相手を停止させる」類のAdvanceを発動させる時の、その予備動作だろう。
(発動させてしまえば勝機はないがーー発動さえさせなければいい! やれ、柊人!)
「ああーー」
俺は祭壇の上に到達すると、山城の手を掴み、ガラス玉から引き離してから、その首筋に手刀を叩き込んだ。それで、彼女は昏倒した。
ーーそこで、加速は止まった。目の前には、手をこちらへと伸ばしてくる暦有馬が居るーー。
さっき、奴は、「脳に触れることが発動条件」だと言った。ブラフの可能性は捨てきれないが、しかし、何も情報がない現状では、それがブラフではない、自己顕示欲の発露だと信じて戦うしかない。
俺は、自らの頭へと伸びてくる暦有馬の手を、頭を動かすことで回避しつつ、左拳でジャブを放とうとした。
と次の瞬間、暦有馬の狙いが、頭から逸れた。奴が次に狙ったのは、胸だった。
「らあッ!」
俺はどうにか態勢を立て直し、右腕でその手を弾きつつ、左手を定位置へと引き戻した。
瞬間。その右腕に、僅かに、今までに感じたことのない痛みがはしった。驚いて右腕に視線を移すと、視界に、皮膚の表面が崩壊した腕が映った。
「おっと、なかなか上手い立ち回りをするじゃないか。このAdvanceを知っているのか?」
それには答えず、俺は、大きく後ろへ飛び退き、祭壇から身を躍らせると、その態勢から羽を放った。
「無駄だ」
しかし、その羽は、暦有馬の腕に防がれてしまう。奴は、何らかのAdvanceによって変容した腕で、羽をなぎ払ったのだ。
羽は、まるで、最初からそこに存在していなかったかのように、虚空へと消えて失せた。
ーーその現象に、俺は見覚えがあった。ーーそれは、停止者能力による攻撃の際の、その現象なのだった。
「……そうか、狐化しの力は、停止者すらも……自分に仇なす敵の力さえも模倣するというのか……」
そう言い、暦有馬は凄絶な笑みを浮かべた。それは、とても、男子中学生のそれとは思えないものだった。羽でクッションを作り、再び空中に静止した俺は、少し身震いした。
「しかもこれはーー完璧なコピーだな。何代も受け継がれる力の、その模倣は、並のAdvanceとは勝手が違う、ということか」
どこか感心したような声で呟くと、暦有馬は、こちらへと手を突き出した。その手には、黒色の粒子が集まってきておりーーそれらは寄り集まり、やがて、「槍」を形成した。
ーーそれは、暴走したノアが顕現していたものと、瓜二つだ。
「お前……!」
軋む声で叫ぶと、俺は、背の翼から、再び羽を射出した。今度は、さっきとは訳が違う。30を超える羽の群が、一斉に暦有馬へと襲いかかっているのだ。
「何故怒り狂うことがある? 君は知っているのか。あの女がーー君がノアと呼ぶ少女を使って、本当にしたかったことが?」
その言葉に、俺はハッとした。しかし、攻撃の手を緩めることはない。
羽は暦有馬へと殺到し、やがて、完全に包み込んでしまったーー。
「彼女は、信者の前では違ったようだが、自分自身の力にさえ、自身が持てていなかった。そのため、莫大な野望をその身に持ちながら、その力を増大させるのを恐れていた」
ーー羽が、砕ける。それも、一斉に。
羽たちは、槍の一振りで砕けたのだ。槍だってノヴァ・シリーズなら、Advanceと混ざり合う性質を有している筈だ。奴はそれを利用し、槍に「物体を崩壊させる」能力と、「Advanceを消滅させる」停止者能力を付与し、効率的に羽を砕いたーー。
「そのため。彼女は、ノヴァ・シリーズを全て揃え、「神の戦士」に覚醒したかったがーー厖大な力を手にすることは、何としても拒みたかったのさ」
だから、ノアは作られた。暦有馬はそう言い、無表情になった。
「ノアという、Advanceの器を創造し、そこに、解名を得た状態のノヴァ・シリーズを流し込む。それにより、彼女は、自らの体に力を流し込むことなく、神の戦士の全権を握った存在になろうとしたーー」
「なん……だって………」
俺は愕然とした。
ノアが暴走したのは、そのためだったのだ。ノヴァ・シリーズの多くをすでに流し込まれていた彼女は、その力を抑え込むことができず、不完全な神の戦士に覚醒したーー。
あの姿は、神の戦士そのものだったのだ。
自我がなく、ただ、莫大な力を悪戯に振るう、あの姿こそが。多くのAdvance使いが求めてやまない、核却色の終末の本性なのだ。
「そんな女のために、君が義憤を燃やす必要はない。それは、所詮は汚らしいエゴでしかない……」
その言葉が言い終わるが早いか、俺は再び大量の羽を撃ち込んだ。そして、その羽に隠れ、生身のままのスピードで、暦有馬の元へと駆ける。
アウターノヴァが発動したままでは、羽による攻撃はできない。だから、俺は生身のまま突撃したのだ。
(ーー今だ、やれ!)
次の瞬間、俺は、頂上までの距離が近づいてきたのを感じたので、アウターノヴァを解放し、暦有馬に殺到していた羽を全て消滅させつつ、加速して猛追した。
世界の規定から逸脱するAdvanceの作用により、体からあらゆる感覚が消えーーそれとは裏腹に、剛速、という形容がふさわしい勢いで体が動き。
そして、次の瞬間、加速が止まる。ーー俺は、それ以上先へ進むわけにはいかなかった。
今、自分の視界を埋め尽くしていたのはーー槍だった。視界の半分が槍で埋まるほど、俺は、暦有馬の黒色の槍に接近していたのだ。
「……分かっていたのか」
「愚問だな。君の弄した策ははっきり言って、二流だ」
言い、暦有馬は、槍を横薙ぎに振るった。
それを左腕で受けると、俺は停止者能力を発動させ、槍を消してから、奴へと肉薄した。拳を振り上げ、殴打の準備をする。
しかし、俺が奴の間合いに入る寸前、奴が身をたわめ、こちらへと、アッパーカットの軌道で拳を打ち込んできたので、その拳は下げざるを得なくなった。
俺は奴の攻撃に即応し、反射的に、翼仕込みの体術で、その拳を受け流した。Advanceによって黒く、鎧のように変容していたその拳の軌道はこちらの顎から逸れ、大きく外へ弾かれる。
ーーその腕は、先ほどとは違い、崩壊していない。
「ほう……? 妙だな、この静動刹那の外殻で、腕が崩壊しないとは」
ノヴァ。その名称で、俺は合点する。
道理で、奴のAdvance現象に見覚えがあったわけだ。それは、ノアが暴走した時に発生させていた崩壊現象と同じものだった。
そして、俺は、翼の体術の本質にも気付くことができた。
翼仕込みの体術。あれは、静動刹那の外殻とかいうAdvanceに対抗して編み出されたものだったのだ。
相手の攻撃を受け流し、こちらの攻撃につなげる。
ーーそれは、あのAdvanceの歯牙にかけられ、体組織を崩壊させられないためのものだったのだ。
「君はなかなかやるな。相手にすると面倒だ」
ふと。暦有馬はそう言い、素早く掌に槍を顕現して、それを地面へと突き刺した。
一拍遅れて、そこから爆煙が巻き起こる。翼による推力発生と踏ん張りによってなんとかその衝撃に耐えると、視界の端に、その爆発によって跳躍し、爆煙から飛び出した人影が写った。
それは、暦有馬治その人だった。今度の彼は、腕だけでなく、胸も変容している。黒色のチェスト・プレート。奴がまとっているのは、それだった。
奴が飛んだのは、俺の方向ではなく、祭壇に取り付けられた階段の方向だった。階段の中腹辺りに着地すると、息一つ乱さず、背に翼を展開する。
(まさかーー)
俺は刹那、奴がやろうとしていることを悟った。
しかし『この距離からでは、その対処が間に合わない』。
次の瞬間。暦有馬は、未だ苦しそうにしている亮の真横に、アウターノヴァの能力で高速移動すると、その頭に照準をつけ、槍を顕現した。
ーーと次の瞬間。その槍は、横から殺到した黒い塊に弾かれる。
黒い、塊。ーーノヴァ・シリーズ特有の、あらゆる光を呑み込んでしまうような、生物的な黒。
「よう。復讐に来たぜ、クソ野郎」
槍を弾き飛ばした「パーツ」達を引き戻しつつ、いつの間にかこの空間に入ってきていた、その人物は言う。
ーー基却色の外殻保有者、弥生 悠真。




