初夜3ーーAdvent Outer Novaーー
咄嗟に身構えたからか、「それ」は急所を突いてはいないようだった。
それでも、腹にわだかまり続けている灼けるような感覚は、俺の心の急所を刺激していた。
「な……ん………どう………して…………」
掠れた声で言いつつ、俺は二、三歩後ずさりする。
それは実に恐ろしい痛みだった。1秒ごとに、「命」というものが、穴から抜け出ていくようなーー。
ーーと、ふと。俺は足に衝撃を受け、転倒した。驚いて目線だけ後ろに向けると、そこには、筋肉質な狐面が立っている。おそらく、自分はそいつに足払いをかけられたのだろう。
なんとか仰向けに転ぶことができたので、ナイフが自分の体重で押し込まれる、と言うことはなかったが、それでも、転倒してしまったのは痛手だ。
ーーと、そこに、京子が迫る。その足をナイフにかけ、自分の体重で、白刃を俺の腹の深奥まで押し込もうとしている。
(ち、知性を持った狐面だって言うのか……!?)
知性を持った狐面。翼が発したそれは、実に恐ろしい発想だった。
彼女の顔に、狐面はない。それはつまり、「狐面化」を視覚情報で見分けられないと言うことだ。
「疑問に思ってるでしょ? どうして私が、こんなことするのかって」
ふと、京子の顔をしたそいつが口を開いた。足には依然として力がこもったままだが、ナイフの深度は変わっていない。
いたぶるつもりか、こいつ。
「でも、それでいいのよ。あんたに、我らが「狐化し」様の崇高なる目的な理解できないーー」
「それじゃやっぱり、お前は京子じゃないんだな……! 狐面を外してるが、お前は狐面だ……!」
あの黒いスライムが、目の前の存在を形作るものだ。俺は刹那に、それを確信していた。
「いいえ。私は「京子」よ。あなたがそう呼びたい、と思ってる存在よ」
ふと、そいつが不可解なことを言ったので、俺は訝って奴を凝視した。
「本名はーー「空間王政」。京子などと言うものは、まやかしの名前に過ぎない」
その言葉に、俺は鳥肌がたった。腹に慢性的に発生し続けている痛みの所為もあろうが、何よりも、目の前の存在が言っていることに、恐怖を感じたのだ。
Advanceそのものだ、奴は。人間の本質は、Advanceにしかない、と言っているのだ。
しかし、実際のところ、その恐怖は大したことのないものだった。次いで奴が言った言葉に比べれば、遥かに「生易しい」ものだったのだ。
「スライムか、人間か。そんなの、関係ないのよ。現にあんたは、私が最初からスライムだったのに、一度も気付かなかったでしょ?」
「な………!?」
恐怖。純粋な、何の夾雑物もない恐怖。瞬間、俺の心に湧き上がってきたのはそれだった。
最初から。最初、とはいつだろう。狐化しが現れた時か? それとも、亮の病室での一件からか?
いや、違う。最初。俺が狐面と最初に会敵したのは、もっと前だ。あの時ーーそう、山陽とかいう先輩を殴り飛ばした時。
あの時、彼女の顔にはまだお面があった。つまり、今の状態ではないということだ。
だが、あの時から、既に「狐化し」は始まっていたのだ。
「ほんと言うとね、面付きの私があんたを襲った晩には、私はもう「こう」なっていたのよ」
それじゃ。
それじゃ、俺は。
今まで、ずっとーーAdvanceの塊を、京子だと思っていたのか。
ーーあの甘く、切ない感覚を抱いていたのか。
絶望が身を包む。全身が底冷えするような感覚に襲われ、腹部の痛みがより強く、より鮮明になる。
「う、うああ……」
喉から漏れた呻きは、とても自分のものとは思えなかった。だが、それは確かに俺の声なのだ。
「う……うう………うわああああぁぁぁぁぁぁッ!」
絶叫。遂に耐えきれなくなり、俺は喉が裂けんばかりに叫んだ。
『唱えろーー』
ふと。自分の叫びの奥から、低い声が響いてくる。
『お前は目覚めた。絶望と、痛みと、可能性の中に』
それは最初、自分の声かと思った。だが、違った。それは俺の声でも、まして、翼の声でもないーー。全く別の、第三者の声だった。
『唱えろ。その叫びに、私の名を乗せろ』
私の名。その言葉で、俺はそいつの正体をうっすらと悟った。
そいつは。ずっと俺の中にあった、そいつはーー。
『我が名は、外却色の刹那』
ノヴァの、翼。
停止者に宿った人格ではない、俺の背の、黒く輝く翼そのものの魂だ。俺はその名前を今、聞き出すことができた。
後はそれを唱えれば、この翼の真の力がーー。
ーーと、ふと。俺は、翼の言葉を思い出した。
その解名を詠唱してはいけない。詠唱すれば、狐化しが完全になるのを手助けしてしまうことになるーー。
だが。唱えなければ、俺は死んでしまう。こうしている間にも、腹の傷から血は流れ出ているのだ。
俺の体は、名前を唱えようとしている。しかし、心は違う。かけらほど残った自分の自制心は、言葉を必死で押しとどめているのだ。
自分の命と、世界の破滅。どちらが大事なのだろう。俺は、どちらを取るべきなのだろう。
(ーー唱えろよ)
ふと。脳内に響いたのは、他の誰でもない、翼の声だった。
(お前は死んじゃいけない。生きて、奴の野望を止めなきゃいけないんだ)
翼は、解名を詠唱することを許した。
俺の心が一瞬緩み、そのことで、自分でも意識せずに口が動き。
「外却色の刹那」
その名前を、口にしていた。
次の瞬間、俺は、もうその場所には居なかった。超高速で動いた体は、1秒とかからず京子の背後に回り込んだのだ。
超高速で動き回る力。ーーだが、このAdvanceはそれだけではない。
外却色の刹那は、「この世から逸脱する」能力だ。発動と同時、能力を有する者は、この世界のあらゆる座標から消えーー超高速の世界へ入門する。
だがその代わり、高速移動中に、相手に攻撃することはできない。何しろ、この世から逸脱しているのだ。ーー地面は踏めるようだがーー現実の座標に介入することはできない。
「な……!」
京子が切迫した叫びをあげ、背後を振り返ろうとする。
俺はその首筋に手刀を叩き込み、気絶させてから、その場を後にする。元来た道を引き返すのだ。ーー音すらも追い抜きかねない、外却色の刹那の力で。
もちろん、その道には大量の狐面が控えていた。だが、そんなものは最早、妨害にはならなかった。
俺は移動しつつ、狐面とすれ違う一瞬だけ能力を解除し、拳や足を叩き込んで行った。あの時ーー七道先輩に使った時に、無意識でやっていた能力コントロールを、俺は今、意識的に行っている。
階段を駆け下り、そこでも狐面を倒し、また階段を駆け下りる。
今や一陣の風となって、俺は学校を駆けーーそして、正門から脱出した。
そこで、俺は能力を解除した。全身を満たしていた全能感が消え、後には、果物ナイフによる痛みと、貧血による目眩だけが残る。地面に膝をつき、肩で息をしつつ目線を地面に落とすが、一向に体が回復する様子はない。
俺は死にかけていた。一応、危機は脱したようだが、命の危機はすぐそこまで迫ってきていた。
(くそ……却逆の翼の自然治癒じゃ………再生できない………)
翼が苦々しく呻く。
万事休す。俺の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。
「おい、いたぞ!」
だからこそ、その言葉を聞いたとき、俺は自分の命が、完全に尽きたのを感じた。
俺はゆっくりと顔を上げ、せめて、自分を殺す相手の顔を見ようとしーーそして、目を、驚愕に見開いた。




