初夜2ーーSlept Outer Novaーー
「くそッ!」
毒づき、俺は一直線に廊下を突っ切る。幸いなことに、今、自分がいる階は一階だ。下駄箱から外に出、そのまま、学校を最短ルートで脱出すれば、全ては安寧のうちに終わる。
地面を蹴り、一陣の風となって疾駆する俺を、狐面達は補足する。
彼らはただの人間ではない。全員がAdvanceを持った戦闘員なのだ。それをかわすのは不可能に近い。
ーーただし、それは、自分が普通の人間だった場合だ。
俺にはあるのだ。狐面達を蹴散らし、学校から脱出するための力が。
「黒銀の翼!」
その名前を叫び、俺は、手元に武器を顕現し襲いかかってくる、狐面二人に触れた。
すると、彼らはたちまち、見えない消しゴムでこすったかのように、跡形もなく消滅した。後には、何も残らないーー。
黒銀の翼は、停止者能力と却逆の翼が混ざり合った存在だ。そのため、Advanceを停止する力を持つ。
「うおおッ!」
唸り、俺は、掴みかかってきた3人の狐面にも、同じように能力を食らわせ、消滅させる。
いける。このままいけば、俺は下駄箱まで突っ切れる。
それを確信した瞬間に、事態は動いた。
廊下の曲がり角。その向こう側で、「何か」が爆ぜた。
それは恐ろしく巨大な爆発だった。回避も防御もできず、俺は、それに巻き込まれて大きく前方に吹っ飛んだ。その方向には、家庭科室と、二階へと続く階段がある。
「あ、Advance攻撃か……!」
「爆発」のadvanceには覚えがある。あれは確か、脚本書きの正体を調べている時だった。コーヒーを買いに外に出た俺を襲った奴は、手甲から爆発を発生させる力を持っていたのだ。
俺は素早く態勢を立て直し、家庭科室のドアを破壊して、中に入ろうとした。しかし、一歩前に踏み出し、翼から羽を射出しようとした時、俺の首に強い力がかかった。
その力自体は、人間の肉体能力の域を出ないものだったが、しかし、何もない筈の虚空から、そんな力が発生するというのは、明らかに異常だった。
俺は苦しさに耐え、半狂乱になりながら、腕で目の前の空間を払った。
それで、首の圧迫感は消える。どうやら、俺の目の前には、透明化のAdvanceを持つ敵が居たようである。
俺は、そのAdvanceにも覚えがあった。
(お、おい、あれーー)
ふと、翼が切迫した声を出したので、俺は何事かと思い前方に注意を凝らした。
見ると、俺の前方、家庭科室の扉の前に、何者かが立っているようだった。そいつはどうしたことかハンドガンを持っており、その銃口を、ドアの手前の空間に向けている。
ーー家庭科室に入ろうとすれば、殺す。そいつは、そう言っているかのようだった。
俺は悲鳴を上げ、家庭科室に入ることを諦め、階段を登って二階へと逃げることにした。
ーー本来、こういう状況で二階にーー上に上がるのは危険だ。自分で自分の首を絞めるのに等しい。
だが、度重なるAdvance攻撃で疲弊していた俺は、冷静な判断が下せなくなっていた。そのとき、俺は、二階に上がるのが「正しい道」だと思っていたのだ。
階段を駆け上がると、その踊り場にも、狐面が待ち構えていた。
姿勢を低くしつつ、そいつの腹に拳を叩き込んで消滅させると、俺は更に上へと上がる。二階にも、大量のAdvance使いが居るのが見えたからだ。
しかし、当然のことながら、三階にもAdvance使いは存在している。
万事休す。そんな言葉が頭をよぎったが、最早状況は、後戻りができないところまで来ていた。俺は、このまま先に進む他ないのだ。
「このぉッ!」
階段を登りきると、俺は声をあげ、目の前の狐面二体を消滅させ、廊下を駆けた。何がどうあれ、三階まで来てしまったのは事実だ。元来た道を引き返すことはできない。
だが、だからと言って、下に降りる手段が完全になくなったわけではない。廊下の向こう側には、もう一つ階段があるのだ。
俺はそこへめがけて走る。いつの間にこんなに集まっていたのかーー廊下に居る大量の狐面を蹴散らしながら、ひたすらに地面を蹴って走る。
ーーと、ふと。廊下も道半ばまで来たところで、俺は、背の翼が少し軽くなったのを感じた。心なしか、全身にみなぎる力もどこか衰えたように感じ、今更ながら、疲労感が足を支配する。
今、自分が感じているものの正体は何なのかーー。その答えが出るまでに、そう時間はかからなかった。
「時間……切れか………!」
時間切れ。翼に負荷をかける黒銀の翼に設定された、制限時間の超過。
たった今、俺は、超然たる攻撃力を持つ黒銀の翼を使えなくなった。
(まずいな……)
翼のうめき声は、今の状況を端的に表していた。
まずい。それは事実だ。
次の瞬間、武骨な蛮刀を振りかざし、襲いかかってくる相手の腹に、俺は拳を叩き込んだ。黒銀の翼がなくなっても、俺にはまだ停止者能力がある。それを使えばーー尤も、使った経験はないがーー狐面を消滅させることができるのだ。
躊躇いはあった。しかし、非常時にあって、俺の体は、そんな心を振り切って動くことができた。ほぼ意識せず、見えない何かに導かれるように、俺は能力を使え、と脳に命令を出したのだ。
刹那、敵の腕から、蛮刀が消えーーそして、そこで現象の全てが終了した。
ーー消滅、しない。
(…停止者能力を使いなれていないからだ……! Advanceの、表層の薄皮しか削れてない……!)
その言葉に、俺はコンマ数秒呆然としたが、直ぐに元に戻る。
黒銀の翼は使えない。停止者能力も頼りにはできない。だが、それでも、戦えないわけではないのだ。
俺は背の却逆の翼を震わせ、一気に十数枚、羽を射出して、眼前の狐面を消滅させた。暴走したノアの攻撃を受けてから、俺は、無制限に羽を展開できるようになっていたのだ。
却逆の翼を使えば、俺はまだ戦える。
心の中でそう叫び、俺はさっきよりも遥かに多い量、羽を翼から分離させた。後は命令さえ飛ばせば、羽は狐面を葬り去るために駆動する筈だ。
俺は分離した羽を一瞥し、次に、廊下の狐面を見据え、命令をーー
「ーー柊人!」
ふと、名前を呼ばれたので、俺は命令を下すことができなくなった。
見ると、俺の真横の教室から、ちょうど京子が出てくるところだった。扉をがらりと開け、その瞳でこちらをまっすぐに見据えている。その顔に、狐面はない。
よかった、「本人」だ。そう思考すると同時に、京子は、
「良かった……あんたも起きてたのね……」
と言い、こちらへ近づいてきた。
味方がいた。その事実は、俺に安堵と弛緩をもたらした。
(妙だな。どうして京子だけ、狐化しの攻撃を受けていないんだ……?)
ふと、俺は翼の声で我に返った。安堵感で鈍っていた思考が、急に鮮明になっていく。
確かにおかしい。どうして、京子だけが例外なのだろう。
「な、なあ、京子」
「ーー何?」
いつもの調子で、京子は返す。
本人は、状況を把握していないかもしれない。だがそれでも、訊かずにはいられなかった。
「お前、どうしてーー」
俺は。
その言葉を、最後まで続けることができなかった。
なんてことはない言葉だ。どうして起きているんだ、という。発声するのに、10秒とかからない。
だが、俺はそれができなかった。腹に生まれた痛みに耐えることに神経を集中させていて、それを言うことができなかった。
腹。俺の腹からーー俺の腹に空いた穴から、どす黒い血が滴っている。
京子の握っている、市販の果物ナイフによって開けられた穴から。
そのナイフは、一ヶ月前、俺に襲いかかってきた狐面の使っていたものと、同じものだった。




