初夜1ーーSide Outer Novaーー
更新が遅れて申し訳ないです。八月中にはなんとか完結させます。
――11月22日、金曜日。暗室で、男女が話している。
「――いよいよ、ね」
「……遂に、実行なされるおつもりなのですね」
「そりゃそうでしょ。この日のために、私が、どれだけ――」
「尤も、発動は三日前でしたがね。効果が顕れるまでに、これほど時間がかかるとは」
「…Advanceは不確定要素の塊。理路整然とした精密機械じゃないのよ」
「そうですかね」
「そうよ。だからこそ、こんな無茶ができるの。
さあ、始めましょう。もう未熟者なんて言わせない――。『初潮』はもう終わり。『初夜』の始まりよ」
「狐化し(フォックスメイデン)――『初夜』。もう、後戻りはできないというわけですね」
ー◆◇◆ー
(……嫌な予感がする)
いつもより早めに起床し、着替えを済ませた俺の脳裏に、翼の声が響いた。
今日は11月22日の金曜日である。明日は休みであり、本来ならば、明日のためにモチベーションが上がる日だ。嫌な予感などする筈がない。
――尤も、ノアの件で、解放的な気分にはなれないのだが。
それはそれとして、嫌な予感がする、と、神妙な声色で放たれたその言葉は、俺の体を緊張させた。
「――それって、どんな……」
(いや、気にしないでくれ。ただの勘だ。なんてことはない)
翼はそう言ったが、俺はそうはいられなかった。
気にせずには、いられない――。この緊迫した状況では、何が起こるか分からないからだ。
「狐面……あいつは、いったい何が目的なんだろうか」
ひとりごち、俺は、自室から出て一階へと向かう。顔を洗い、歯を磨いてから、リビングへと入る。
そこで、俺は違和感を感じた。
現在の時刻は6時45分。俺はいつも、この時間には寝ているのだが、父さんと妹は起きているらしい。
だが、リビングからは、人が起きて、動いている音がしない。テレビの音ーーニュース・キャスターの声は聞こえるが、朝食の調理音も、会話の声も、一切が、俺の目の前の扉の向こうの空間からは欠落してしまっていた。
(今日はやけに静かだな)
翼がそう呟くとともに、俺はリビングへと続く扉を開け放った。
ーーそして、愕然とする。
「な……!」
なんだこれは。そう続く筈だった言葉を飲み込み、俺はリビングへ駆け込んだ。
そこには、異様な光景が広がっていた。
朝食を作っていた筈の父さんは、冷蔵庫を開けたまま地面に転がりーー妹も同様に、スマートフォンを握ったまま、ダイニングテーブルの前で倒れていたのだ。
俺は素早く妹に駆け寄り、一抹の躊躇を心の奥に押し込むと、脈をはかる。
幸いなことに、脈は正常だった。正常すぎて、むしろ不自然なほどだった。
そしてそれは、父さんも同様のようだった。妹に続いて、俺は父さんの脈もはかったが、そこにも異常はなかったのだ。
「どういう、ことだ……?」
気絶ーーいや、昏睡している。
(昏睡、か。なあ柊人。この状態、前にも見たことがなかったか?)
翼の言葉に、俺は首を振る。
(京子が天駆の夢とか呼んでた、連続集団昏睡事件の被害者と、全く同じ状態だよ。お前、教室で倒れた奴のこと、忘れちまったわけじゃないだろうな)
その言葉で俺は思い出した。言われてみればそうだ。
「天駆の夢。あれは確か、狐面の能力の一端だったよな」
(確証はないがな。その推測はきっと正しいだろうよ。オレ達の前で、奴は、悠真を昏睡させて、スライムを生み出したんだ)
狐面。未だ実態の掴めない、悪意の塊。
そいつに対して生まれた怒りを噛み殺し、俺は口を開く。
「……天駆の夢と狐面のAdvanceーー狐化し(フォックスメイデン)とか言ったかーーは、繋がってるってことだろうな。それも、かなり深いところで」
(うむ、それに関してなんだが……ひょっとして、奴が誰かのAdvanceをコピーするためには、その相手を昏睡させる必要があるんじゃないか?)
はっとした。それは盲点だった。
そして、その推測は的を射ているように思えた。天駆の夢の中で死んでいたという京子のAdvanceは、奴にコピーされていたのだ。
「でも、そうだとすれば、奴は何のために、俺の家族を眠らせたんだ?」
(ーー柊人。それは違うかもしれないぞ)
ふと。翼が意味深なことを言ったので、俺は「どういうことだよ?」と問いかけた。
(奴が眠らせたのは、本当にお前の家族だけなのか?)
その言葉に、俺は再びはっとした。
父さんが作りかけていた朝食を完成させ、それを平らげ、俺は家を出た。それは、いつもと比べると遥かに早い登校時間だったが、そんなことは気にも留めなかった。
登校中。俺は、何度も車道を見た。いつもなら、こんな時間でも、乗用車の一、二台は通る。
だが、今日に限っては違った。この日、俺の視界を、乗用車は一度も駆け抜けなかったのだ。
異常。俺はふと、そんな言葉を思い浮かべた。
そんな俺の足元には、何人もの人間が転がっている。一見すれば、それは死体のようだったが、足元にあるのは、確かに生きた人間の体なのだった。
昏睡状態。今、彼らはその状態にある。
「くそ……! ホントに、起きてる奴は一人もいないのかよ…!」
毒づきつつ、俺は学校へと走る。
走り、走り、学校へ着いた時、俺は、自分のミスに気がついた。
朝早くに学校に来ている生徒は少ない。ということは、昏睡状態にない人間を探すために学校に行く、という目的は、達成されづらいということだ。
俺は自分が、パニックに陥ってしまっていることを自覚した。冷静になれていないーー。それは、この非常時において、絶対に陥ってはいけない状態である。
(この状態は、間違いなく異常だ。何が起こるか分からない。くれぐれも、用心だけはしとけよ……!)
翼の言葉に、俺は頷く。
今まで、俺は何人ものAdvance使いと戦ってきた。その誰もが、明確な殺意を持って俺を殺しに来ていたがーー自分はまだ、生きている。
それはきっと、用心を重ねてきたからだ。細心の注意を払って、命を守ってきたからだ。
今までもそうしてきた。これからも、俺はそうやって戦っていくのだ。
一先ず、俺は、SHRの時間まで学校で待つことにした。そこまで待って、誰も学校に来なければ、街を探索することになる。
西校舎1階にある自分の教室に入ると、俺は持ち込んだ本を広げ、読み始めた。H・Pラヴクラフトの全集である。
そうして数十分が経った頃だろうか。ふと、俺は、教室の入り口のドアに嵌め込まれたガラスに、人影を認めた。
起きている人間がいる。その事実は、俺の体を緊張させた。あれだけ待ち焦がれた存在である筈なのに、それと相対することを、自分は何故か恐れていた。
嫌な予感。俺の心にあったのは、早朝、翼が感じていた「それ」なのだろう。
しかし、実際のところ、いつまでも動かないわけにはいかなかったので、俺は本をしまって、席から立ち上がった。
誰が来るのだろうーー。優等生の西野だろうか。それとも、朝練があるとかいう、バスケ部の峯岸だろうか。
そんなことを考えていると、俺の目の前でドアが開いた。
「峯岸……」
ドアの向こうにいたのは峯岸だった。中学一年生とは思えないような筋肉質なその肉体を、見間違えるはずはなかった。
(……違う)
しかし。
(奴は……お前の言う「峯岸」じゃない………!)
「それ」は、峯岸ではなかった。俺は一目でそれを理解することができた。
奴は。奴はーー。
(Advanceそのものだッ!)
顔に嵌められた狐面。そして、そこからのぞいている無機質な瞳。
それは、人間のものではなかった。あの時、廃ビルで襲いかかってきた悠真のコピーと同じ……狐化しの能力で作られたものだった。
次の瞬間。突き出されたそいつの手から、何かが投擲ーーいや、「射出」される。
俺は直前に回避行動を取っていたので命中しなかったが、それは果物ナイフのようだった。実に簡素な刃物だ。切れ味など期待できないだろう。
だが、そのナイフは、俺の頬をかすめ、背後にあった窓ガラスに突き刺さりーー破壊してしまったのだ。
(こ、このAdvance……まさか、あの下駄箱の………!)
その言葉で俺は思い出した。俺たちがまだ七道先輩の正体に気づいていなかった頃のことを。
今、俺の背後にあるナイフは、あの時のものだ。あの時の狙撃手が、今、目の前にいるーー。
俺は一瞬、奇妙な感慨に囚われたが、感傷に浸っている暇はなかった。このままここに突っ立っていたら、殺されてしまう。
俺は峯岸のコピーが入ってきた方とは逆のドアから、教室を出た。
ーーそして、そこで愕然とする。
なんと言うことか、廊下には、峯岸のコピーとは別の狐面があふれていたのだ。一階の廊下だけで、ざっと7体はいる。
(くそ、ちくしょう。そう言うことかよーー)
「ど、どう言うことだよ?」
俺が聞くと、翼は、
(最初から、狐面の親玉はこれを狙ってたんだ! オレたちを包囲することをーー)
と答えた。
それは、地獄のラッパのように、ひどく冷たく、残酷に、俺の脳に響いた。




