天使降臨すーーGreat Heavenーー
「おい、ノア! どうしたんだ、それはーー!」
呼び掛ける。すがるように、逃げるように。
「ノア、答えてくれ、ノアッ!」
恐怖から出でる焦燥に駈られ、俺は叫び続ける。こうしている間にも、あの青目の男はこちらへ向かってきているが、そんなことなど二の次で、俺はノアへの呼び掛けを続けた。
(逃げろ! そいつはもうノアじゃないッ!)
「うるせぇ! このまま見捨てろってのか!」
(主知的になれよ! ここは戦場だぜッ!)
翼は俺に、冷静になれと勧告してくる。実際、この状況に於いてそれは「正しい」のだろうし、そうしなければ俺が死んでしまう可能性だってあるのだ。
それでも。
ノアのことが、頭から離れない。彼女が助けを求めているように俺は感じるのだ。
「隙を見せたな、青二才」
気付けば、もうそいつは1メートルほどの間合いまで近付いていた。回避は間に合わない。あの妙な能力を、こんな至近距離で振るわれれば、回避しきれる自信がない。
それに。もう、攻撃の要である黒銀の翼は使えない。却逆の翼だけで戦うしかないのだ。
「う、うあああああああッッ!」
俺はこのどうしようもない状況を前にして、叫ぶことしかできなかった。あの能力は見た限り無敵。満身創痍、万事休す、だ。
ーーと次の瞬間。ふと、ノアの「翼」から光が迸ったかと思うと、そこから一本の槍が射出された。その表面はまるで却逆の翼のように黒く、燦然と輝いている。
それはまるで、神が振るう神器のようでーー。
槍は、人智を越えた速度で打ち出された。そのまま、振り返った俺の胸を貫き、その背後に立ちすくむ蒼目の男へと命中する。
貫通した。だが、痛みはない。
一方、俺の背後の男は違うようだった。あちらはちゃんと痛みがあるようで、低く呻いてから、奴は逃げ出そうとした。
させるか。俺はそう言いかけて、絶句した。
俺に背中を晒したそいつは、唐突と、跡形もなく消えてしまったのだった。
俺はその空間を暫くぽかんと見ていたが、直ぐにノアに向き直る。そうだ。今は、ノアを助けることだけに集中しなければいけない。
見ると、ノアは丁度、こちらを攻撃するところだった。どこか近代的な、蒼の色味を帯びた槍を3本宙に顕現すると、それをこちらに向かって射出してくる。
一発を避け、二発目を受け止めたところで、三発目を対処できなくなり、俺はその三本目に脇腹を貫かれて激しく呻いた。急所に命中しなかったから良かった、とはいかないのだ。痛いものは痛い。
否、ダメージはそれで終わらなかった。なんということか、槍を受け止めた手の皮膚が崩れ始めている。
その作用は、どこか黒銀の翼に似ていた。
俺は取り敢えず、槍を真横に投げ飛ばしてから、羽を限界量まで射出するイメージを脳内に産み出した。さっきから、攻撃のタイミングで彼女の羽は光っている。あれを攻撃すれば、攻略できるかもしれない。
ーー1拍置いて。俺の背からは、なんということか、全ての羽が消し飛んでいた。否、その形容は正しくない。俺は、本来ならば出来ない筈の、翼の一斉射出をしてのけたのだ。
100をゆうに越える羽の郡が、飛び魚の分隊のように空を駆ける。狙うは、彼女の翼。
いける。これなら、この力なら、あの翼を破壊できる。ーー「あれ」が顕れたのは、俺がそう思考した瞬間のことだった。
脳内に、またもや妙なイメージが顕現されたのだ。今度は、極限まで俺に接近したノアに腹を貫かれるイメージだった。
ノアは丁度、俺の羽に襲われている最中だ。そんなことできるはずがない。
しかし。そのイメージはさっき的中したのだ。無下にすることはできない。
俺は素早くバックステップし、彼女との間合いを1メートルほど広げた。
たった1メートル。たかが1メートル。されど1メートル。
次の瞬間。俺の3センチほど前方に、ノアの腕が現れた。
「ーーーー!」
(オイ、羽ーー)
あのヴィジョンが的中したことによる驚きと、回避できたことによる安堵は、翼の言葉で全て吹き飛んだ。いかなる理由によってか、ノアは俺の前に移動してのけた。つまり、彼女に向かっていた羽は、全て空を切ったということだ。
羽の群がアスファルトを叩き、怒号のような音響を響かせて胎動する。
俺は直ぐ様、羽を全て俺の所に引き戻そうとイメージを思い起こした。しかし、あれだけの数の羽だ。正直なところ、完全に戻すには時間がかかる。
ノアは腕を突き出した姿勢のまま、さっきの槍を顕現した。彼女はそれを手に取り、中段に構えてーー消えた。
と次の瞬間、俺の背中に熱い感覚が迸った。見てみると、俺の背はノアに貫かれていた。超高速移動。さっきも今も、彼女が使っていたのはそれだ。
燃えるような感覚は、背に張り付いたまま消えない。それに加え、攻撃が命中した部位から脳へ、段々、痛みが伝わっていく。
刹那。俺は全てが見えていた。不思議な感覚だ。洗練されたプロのボクサーは、殴り合いの最中に敵の拳を認識できるようになるというが、今の俺の状態は正にそれだった。
「つ、ば.....さぁ.....」
喉から出る声も、やはりどこか弱々しい。必死で羽を操ろうと思っても、それが叶わない。槍から伝わる痛みが、俺の意識を刈り取っていくのだ。
羽はいつしか、完全に動きを止めていた。あの羽は翼そのもの。今の俺は、翼で反撃することも、羽で攻撃することもできない。
万事休す。それを悟った刹那に、俺は瞑目した。
ーーと次の瞬間。鋭敏化された俺の聴覚に、聞き慣れない音が響き渡った。それは、昔見たハリウッド映画の、ハンドガンの撃発音に良く似ていた。
俺は音のした方向を向きーーそして、絶句する。
そこに立っていたのは。
どこまでもこの状況にミスマッチした人物ーー。文化委員長、近森 佳苗さんだった。
その手には、オートマチックのハンドガンが握られているーーーー。




