襲来ーーThe Quake Selfーー
「天駆の夢...?」
俺は懐疑の念の滲む声でそう問いかけた。
「その様子だと知らないみたいね」
歩きつつ、京子は言う。その顔には冗談めかしたような雰囲気が一切なかった。今の彼女は、真剣そのものであった。
しかし、だからこそ、俺は違和感を感じずにはいられなかった。表情は真剣そのもの。しかし、発言は突飛かつ神憑り。矛盾が生じている。
「ここ、博矢町では、突発性の昏睡事件が多発しているのよ。原因は不明の、不気味な事件が。私はそれを、天駆の夢と呼んでる」
「天駆の夢、ねぇ...」
どうやらそれは京子のネーミングらしい。それなりにネーミングセンスがある。尤も、亮ならもう少しましな呼称を用意するだろうが。
「昨日、柊人のクラスでも一人、その症例が出た筈だけど...覚え、ない?」
そう言えば、と俺は思い出す。確かに、昨日、前の席の奴が倒れたのだった。
「そう言えば、一人倒れてた...あれは異常だったよ。突発性の昏睡にも関わらず、脈拍は正常、服の上からだから精査はできてないけど、肉体のどこにも異常なし。そして、顔には苦悶の表情どころか、安楽の表情が貼り付いていたーー」
言葉を紡げば紡ぐほど、俺はあの出来事の奇妙さに身震いしそうになる。それほどまでに、あいつは、天駆の夢は異常だった。
「他の奴もそうなのか?」
「ええ。全く同じよ。ーーそれが20数人」
声にこそ出さないものの、俺は心底驚いていた。絶句していた、と言った方が適切かもしれない。
「とにかく、柊人も気を付けてよね。倒れられたらーー」
そこで、京子は言葉を切った。
「か、家族とか心配するだろうし」
「ん...そうだな。七道先輩との戦いの時も、かなり心配させちゃったみたいだから...」
苦々しい思い出を意識の隅に追いやるために、俺は空咳をすると、歩き出した。
(でも、どうしてあそこで言葉を切ったんだろう?)
そんなことを思いながら。
(お、おい。柊人。前方10メートル先に狐面が居るぞ...!)
ふと。平和な思考を、世界を、日常を。その全てをぶち壊しにするような、翼の切迫した声が脳に響き渡った。俺はそれを受け、前方を見据える。
確かに、そこには狐面が居た。しかし、それが妙なのだ。
「そいつ」は、学生服を着ていた。見紛うものか。その学生服のボタンは、間違いなく矢壁中学校のそれなのだ。毎朝見ているので、ここからでも分かる。
そしてそいつは、手に包丁を持っていた。幅わたり30センチほどの上物だ。あんなもので斬りつけられればただでは済まない。
それを俺が認識した瞬間、俺よりも早く京子が駆け出していた。10メートルはあった間合いを2秒とかからず詰め、腕を捻りあげる。合気道の技術だろうか。その動きは洗練されており、とてもただの剣道部員とは思えなかった。まるで、戦国時代の武士のようなーー
しかし。腕を捻りあげられたそいつは、別段怯むこともなく、俯きかけていた顔を上げると、狐面特有の、細められた目でこちらを、神無月柊人の方向を見据え。
そして、地面に溶け込んだ。
奴の行動は、そう形容する他なかった。突如として、奴は真っ黒な液体となって京子の腕からすり抜け、地面に沈んでいったのだから。
俺は臨戦体勢をとった。却逆の翼は出さない。しかし、構えをとるだけでも、十分威嚇効果はあるし、何より、突発的な遊撃に対応しやすくなる。
俺は翼から体術の手解きを受けていた。奴が「人」であるならば通用する、徒手空拳専用の技巧を。
次の瞬間。俺の眼前に、そいつが現れた。そいつはさっき、京子の腕からすり抜けたのと逆の現象ーー地面から浮き出たーーを起こしたのだった。包丁を振りかぶり、それを振り下ろす。
俺はそいつの顎をかち上げる軌道で、左拳を放った。拳は奴の顎へとクリーン・ヒットし、鈍い音を響かせる。それをしっかりと聞き取ってから、俺は胸に二発、左右の拳で、時間差をつけたジャブを打ち込んでから、右拳を鳩尾へと叩き込む。今度の拳は腰の捻りが入っている。上手く入った。俺はそれを確信していた。
奴の手から包丁が取り落とされる。フラフラと2、3歩後退してから、そいつは倒れこみ、そして、消えた。今度は地面に溶け込んだ、ではなく、煙となって大気へと舞ったという表現の方が適切な消え方であった。
俺は驚いていた。言葉を失っていたのだった。拳を数回叩き込んだだけで、あのように消滅してしまったことに対して、そして、今までだって漠然としたイメージしか抱くことのできなかった狐面の謎が、更に深まってしまったことに対しても。
今俺と対峙した「奴」は、この前、町中で見かけた奴とも、かなり前に俺を襲った女武者とも違っていた。つまり、狐面は複数存在し、少なくとも、そのうちの一人は人間ではない、ということになる。
ーー否。ひょっとしたら、狐面は俺が邂逅を果たした以外の個体も存在していて、その全て、人間ではないのかもしれない。
そんなセカイ系小説のような突飛かつ神憑りな思考を瞬かせていると、ふと、京子が唸った。
「あー...ちょっと、柊人。気付いてないかもしれないけど、今、かなり目立ってるわよ」
はっとして辺りを見渡そうとしかけたが、俺は直前で自制すると、横目で周囲の様子を窺う。どうやら、通学中の学生を中心に、野次馬が複数発生してしまっているらしい。
ここであわてふためくのは性分ではない。しかし、何も対策を講じない、というのもまた性分ではなかった。俺は取り敢えず、その場から走り去ろうと足に力を込めた。
だが。俺が動き出すよりも早く、京子が動いていた。京子は通りかかり、一連の騒ぎを傍観していた全ての人間の首筋へと刀の峰を叩き込んだ。連続して鈍い音が響き、7人ほどが地面へ倒れこむ。
振動だ。京子は、ここでAdvanceを使い、全てを包み隠したのだ。
「ちょっと強引すぎないか?」
「これくらいが調度いいのよ。この日常にはね」
これが俺の幼馴染み、東雲 京子だった。
否。正しくは、「これが、俺の知っている幼馴染み、東雲 京子であった」か。




