「過去2ーーNot Outer Novaーー」
ーー今の体捌きは。
俺は仰向けのまま、素早く思考を回し始めた。
今の対捌きには見覚えがあった。いや、見覚え、という表現は間違っているかもしれない。俺はこの体術を「見て」はいない。体で「記憶」していたのだ。
それは、翼から伝授された体術だった。
「今のダッシュ...中々速いじゃないか。いいな、中学生。肉体的に無茶ができる、っていうのは...」
ここに来て、彼は初めて口を開いた。透き通るような声だった。
俺は息を吐いた。それだけで、肺がねじ切れそうに痛んだが、心は揺るがない。翼流体術に於いて重要なことは、「落ち着くこと」らしい。それに、肺の運動は最も適している、とも言っていた。
俺はバネ仕掛けのごとき速度で体を起こし、立ち上がりつつ目の前の男へと拳を叩き込んだ。今度は、ドスッ、という肉の弾ける音が響く。
ーーしかし、今度も、俺の拳は彼の急所を外した。
彼は向かってくる俺の拳を、掌で包み込み、受け止めたのだ。これも、翼流体術の構えの1つである。
俺は拳を掴まれた体勢のまま、左足で彼の脇腹を蹴りつけた。これは鈍い音を伴って命中。彼の肉に数センチ食い込み、ダメージを与える。
しかし、拳を握る力は弱まらない。それどころか、呻き声1つあげることはなかった。
俺はすかさず、彼の腕を下方から殴りあげる。どんな人間でも、大元の腕を殴られれば、拳の力を緩めざるを得なくなる。彼が力を不本意にも抜いた瞬間に、器用に拳を彼の掌から抜いた。
そこから、俺は容赦のない左ストレートを叩き込む。俺の利き腕は右なので、原則的に右で殴った方が打撃の威力は高くなるのだが、相手が右利きの場合、左で打撃を放つのは効果的だったりする。カウンターに、右ストレートを打ちにくくなるためだ。
当然のように、彼は左ストレートを右腕でいなした。拳は彼の体を掠め、後方へと抜ける。彼はその体勢を90度ほど曲げ、左腕で俺の左腕を掴む。
俺を投げる気だろう。だが、それをさせてしまえばダメージを一方的に被る羽目になる。それは避けたい。
俺は体を落とし、左腕を吊り上げられた状態から、右ストレートで彼の背中を殴りあげた。
「かはっ...!」
彼の肺から空気が漏れ、背中が曲がる。
このまま、数発殴り付けて意識を混濁させてやる。
しかし、拮抗はいつまでも続かなかった。彼は背中の翼で彼に於ける背後を凪ぐ。
俺はそれを大仰なバックステップで回避する。幸い、ダメージは一切なかったが、これで、彼に反撃のチャンスを与えてしまったことになる。
俺は反撃を防ぐべく、振り返った奴の顔目掛け、拳を振り上げた。背に却逆の翼が無いのが歯痒い。あれば、拳はとっくに彼の肉を抉っているのに。
俺の拳は、彼には命中しなかった。彼が首だけを動かして拳を避けたからだ。
刹那、がら空きになった俺の鳩尾に、容赦のない右ストレートが叩き込まれる。
「ぐああッッ!」
俺は断末魔のごとき叫びをあげると、数メートル向こうへと吹っ飛ばされた。
俺の後退を止めたのは、皮肉にも、さっき身を隠すために使った木であった。俺は腹の傷が更に開くのを実感し、焦燥感にも似た感情に焦がされる。
「なんて体捌きだ...」
俺はふと、そう呟いていた。
実際、それは事実であった。俺はいつも使っている我流の動きで彼の布陣を切り崩そうと画策していたが、ついに、彼は倒れなかったのだ。
ーー今までのように、体捌きに気を使わない戦い方では、敗北する。
俺はそれを確信していた。俺の頭の中には、昨日、嫌というほど繰り返した翼式体術の記憶がある。これはあくまでも付け焼き刃の体術であり、本物には敵わないのだろうが、彼の布陣を切り崩すための切り札と成りうる存在だろう。
却逆の翼を再発現できれば状況は変わってくる。だが、却逆の翼には頼っていられない。今頼れるのは自分の体だけだ。
俺は一先ず、木々の間を縫うように駆け、彼の視界から離脱した。あのまま突撃すれば、さっきと同じ状況に追い込まれ、傷を悪化させていただろう。
俺は今、自分でも動けていることが奇跡だと思うほどの傷を負っている。それを癒すためにも、離脱は必要なことだ。
1分くらい走っただろうか。俺は疲れからか、倒れ込むように、目の前に屹立する樹木の幹へと体をあずけた。体の当たった地点から根まで、生暖かい鮮血が流れ、意識が遠退いていく。
「失神したら死ぬ失神したら死ぬ...」
呟きつつ、俺はフラフラと、重心を据わらせることができないまま、なんとか立っていた。
そこから、俺は周囲を見渡した。周囲には人の影どころか、動くものすら見えない。しばらくは安心できるかな...なんて思考しつつ、顎に指を当てて俺は昨日のレクチャーを思い出していた。翼の、教官のようなレクチャーを。
体術訓練と言っておきながら、昨日、翼は気配を探る方法も伝授したのだった。
気配を探る方法、と言っても、やることはそう難しくない。ただ、自分が立っている場所の通常の音を記憶しておき、不自然な音を聞き分けるだけだ。
これは町中ではあまり効力を発揮しない。そもそも、町中には規則的な音が少ないからだ。しかも、毎時間別々のスピードで、別々のエンジン音を響かせる車に、数少ない規則音はかき消されてしまう。
しかし、山の中や森の中は別だ。梢の揺れる音は大気のリズムに沿っているし、自然音の中には、地面を踏みしめる音や呼吸音に聞こえる音は存在していない。
加えて、このような場所は、人の衣服というものは非常に目立つのだ。
俺は音に耳を傾けた。今日はあまり風が強くない。梢の揺れも少ない。
鳥の羽音、川のせせらぎ、小石の落下音。
その中から、不規則な響きを見つけるーーー
数秒して、俺は、地面を踏みしめる音を耳ざとく聞き付けた。彼はどうやら移動しているようだ。山道には殆ど落ち葉がなかったので、これだけ音が立つということは、山道から外れているのか。
(補足できればいいが...)
思考しつつ、俺は先ず前方を注視した。音が聞こえてきたのは前方。一番怪しいのはこの方向だ。
(ーー居た! 目測で距離60メートルと言ったところか...?)
数秒とかからず俺は捕捉に成功した。距離まで概算すると、奇襲ルートを演算し始める。
この距離、銃ならサブマシンガンでも有効射程(弾が威力を伴って届く範囲のこと)圏内に十分入っている。彼がこちらを捕捉できれば、羽が飛んでくるだろう。
見つかってはいけない。
俺は画策しつつ、一歩踏み出しーーそして、「何か」を踏んづけた。
(く、くそ!)
そこまで派手な音は立っていないが、この静寂の中では、誰の耳にも届く音だっただろう。しかし、彼は気付いていない。
俺は視線だけを地に落とし、踏んづけたものを見た。
そして、息を呑む。
(こいつを使えばーーー!)
晴天に、鳥が飛び立った。




