紳士帽子の聖呪術師は安楽椅子を壊して笑う:騙す男
「あなたがルブニール侯ですか」
「ああ」
ルブニール侯は、椅子の背もたれに体重を預けた。豪勢な寝間着にくるまる。顎の贅肉が揺れた。
「当日の、彼女とあなたの行動をお聞かせください」
ルブニール侯と対面して立っている男は、外套の内ポケットから、鹿革のメモ帳を取り出した。一通り話を聞き終えると、ざっと目を通し、静かに閉じる。
「気味が悪いだろう、君? もうイングランドも終わりだよ」
煙管をふかして、ルブニール侯はため息をついた。男は眉をひそめる。ルブニール侯が、まるで他人事のようにそう言ったからだ。犠牲者であるクルセリアは、ルブニール侯の側近の部下だったというのに。
「どうせ――」
大きな椅子が、ギッ、と鳴る。
「君も私が犯人だと思っているんだろう?」
男は、すぐには応えなかった。
暖炉の中で弾ける薪が、パチパチと燃え、二人の横顔を淡く照らす。
「いえ」
男は、宙に漂う紫煙がルブニール侯の鼻腔に吸い込まれるのを確認してから、息を継いだ。
「私は、どうもこの事件は、あの男の仕業ではないのかと思うのです」
「――――心当たりがあるのかね、ダルシア警部?」
警部と呼ばれた男は、静かに頷いた。ルブニール侯は息を呑む。
「『聖呪術師』……俗に『死神』と呼ばれる男の仕業です」
夜鴉の鳴き声が、屋敷に谺した。
「――何を言い出すのかね」
「最近専らの噂ですよ、侯爵」
ダルシア警部は、ルブニール侯の瞳を覗き込み、言った。
「『死神』が『安楽椅子』を壊してまわっている――と」
◇◆◇◆
天蓋つきのベッドに潜り込み、ルブニール侯は体を縮こまらせた。目が冴え、中々寝付けない。
「あの童め、ふざけたことを抜かしおって……何が『聖呪術師』だ、それが警察の言うことなのか」
ガタガタ、と窓が揺れ、ルブニール侯は跳ね起きる。静まり返り、薄暗い部屋の中には、ルブニール侯以外には誰もいない。レースのカーテンを閉め、ベッドに戻る。天井には、仄暗い闇が蠢いている。何処からか、風の抜ける音が響いている。
「クルセリアがしくじりさえしなければ、あんな童に詮索されることもなかったというのに……やはり使えん。あの女は死ぬべくして死んだのかもしれぬな。……『聖呪術師』などと……馬鹿げた迷信だ」
「それは俺のことかな、おっさん?」
ルブニール侯は、再び跳ね起きた。ベッドのすぐ横に、誰かがいる。カーテンの隙間から漏れる光はか細く、二人を照らし出すことは叶わない。
「ど~もお初に。俺は聖呪術師ってんだけど……おっさん、俺のこと知ってんだ?」
「く……くそっ!」
ルブニール侯は枕元に隠してあった拳銃を取り出し、聖呪術師に向けた。
「ち、近寄るなっ! 近寄れば殺すぞ!」
ガタガタと歯を震わせるルブニール侯を見て、聖呪術師はため息をつく。心からの呆れを込めて。
「クルセリア、だっけ? おっさんが脅してたヤツ。ねえおっさん。あの人の死因、覚えてる?」
「だ、黙れっ! ……そんなもの、私は知らんっ!」
「ふーん、そう……。じゃ、俺が教えてあげるよ、おっさん」
聖呪術師は、すっと左手を上げた。その動きに従い、ルブニール侯の右手が動く。聖呪術師は、左手を銃の形にして、側頭部に当てた。そして、中指を、ちょうど引金に添えるかのように曲げる。ルブニール侯の、銃を構えている右手も、それと全く同じように動く。中指が、引金に添えられる。
「『銃殺』だよ」
聖呪術師は、にやりと微笑み、中指を引いた。同時に、天蓋つきベッドに、銃弾がめり込む。その上に、死体が倒れ込み、血が海のように広がる。聖呪術師は手を合わせ、死体は闇に吸い込まれ、消えた。
「誰だッ!」
寝室の扉が勢いよく開かれ、拳銃を構えた男が入ってきて、聖呪術師に銃口を向けた。
「何者だ!!」
「――まだこんなとこにいたのか、兄ちゃん? 知ってんだろ? 俺は聖呪術師だよ」
聖呪術師は、頭の紳士帽子をかぶり直した。「久しぶりだな、兄ちゃん」
「私は君の兄なんかではない! この殺人鬼が!」
「そんなこと言うなよ、兄ちゃん」
聖呪術師は両手をひょうきんに上げて近づく。警帽を被る男の目には、怒りの炎が燃えている。彼の、銃を握る手が、カタカタを揺れる。
「撃てよ」
「――――ッ!!」
「それでお前の気が済むんなら――俺を撃てよ」
「――なぜッ! なぜなんだッ――!」
男は膝から崩れ落ちる。頬を涙が伝い、絨毯を濡らした。聖呪術師を睨んで叫ぶ。
「なぜ、なぜ私を殺さないんだッ!」
聖呪術師は苦笑する。「なんでって言われてもね。俺には、お前を殺す理由なんてないし」
「じゃあなぜッ!!」
男は立ち上がり、聖呪術師の肩を掴んで叫んだ。
「なぜ、なぜ私の妹を――クルセリアを殺したんだッ!!」
「――あんたも知ってんだろ? ダルシア。クルセリアが、ルブニール侯に言われてやってたこと」
「お前に、なぜクルセリアの命を奪う権利がある!? どこの誰とも知らないお前に、なぜ妹が殺されなければならないんだ!? それでもお前は、なぜ平気でいられるんだッ!」
「気に食わなかったからさ、あんたの妹」
聖呪術師はダルシアの首を締め上げた。警帽と拳銃が床に落ち、彼の足が宙に浮く。
「自分が何してるか分かってるってのに……一つも罪悪感なんて持っちゃいなかった。全部悪者のせい、『ルブニール侯のせい』だ。ルブニール侯に頼まれたら物だって盗むし、火だって付けるし、人だって平気で殺した。頼まれれば自殺でもするか、って聞いたら、アイツは何て言ったと思う? ――『YES』だ。だから、殺した」
聖呪術師は手を離した。ダルシアは床に倒れ込み、咳き込む。
「でも、お前は殺さない。お前は、妹思いだからな。――本当は、お前、拳銃なんか、握ったこともなかったんだろ?」
聖呪術師は屈み込み、拳銃を拾い上げる。ダルシアは、聖呪術師を見上げ、呻いた。「なぜ――それがわかったんだ」
「まず、この拳銃に刻まれてる『クロージア』ってのはお前の名前じゃない。その制服も、お前のじゃないし、ルブニール侯に許可なく、屋敷で俺のことを待ち伏せしてただろ? ……それに、単純にさ。妹思いのお前が、妹の悪行を止めようとしてたお前が、警官のはずねぇんだよな。警官だったら、お前は妹を、撃ち殺さなきゃならないんだ」
「……私をどうする」
「どうもしねぇよ。警官のふりしてルブニール侯に付け入って、俺を殺そうとするくらいならまず、大事な妹の葬式でも挙げてやりな」
聖呪術師は、床に転がっていた警帽を踏みつけ、拳銃を握り潰した。警帽と拳銃は、闇に呑まれて消える。
「こんな帽子も、拳銃も、兄ちゃんには似合わねぇよ?」
そう言って、聖呪術師は笑い、夜の闇へと消えていった。
◇◆◇◆
「おかえりなさい、セージュさん」
ロンドン郊外のジアール墓地。その奥の、とある墓石の下には、秘密の空間がある。誰も知らない、地の底に、末永と聖呪術師は暮らしていた。
「だから、セージュって呼ぶなって」
聖呪術師は、ぶつくさ言いながら、枯れ木にコートと紳士帽子を掛けた。
「ですが、呼び名が無いのは、少々厄介です。『聖呪術師』だと堅苦しいと言ったのは、セージュさんですよ?」
「……本当、変わってるよなお前」
「そうでしょうか」
末永は、手から炎を出してロウソクを燃やす。
「あ」「どうした?」
「ロウソクが溶けてしまいました」
「……俺は別に、明かりなんてなくてもいいけど」
「ダメですよ。炎というのは、命の象徴なのです。これが無ければ、私たちは生きてゆけないのですから」
「墓地でそれを言うか」
「……乙女は暗いのが怖いんですよっ」
「どこでそんな言葉覚えたんだ、お前」
ふー、とため息をつき、聖呪術師は木製の椅子に腰かけた。末永も向かいの椅子に座る。
「今夜はどんな方を眠らせたのですか?」
「……人を騙して、酷いことやらせてる、聞かん坊さ」
机の上のカップをつまみあげ、中をのぞく。底に開いた穴から、末永の瞳が見える。
「それよりも、前に殺したヤツの兄が来ててな」
「ほう」
「それがもう厄介でな。妹思いのいいヤツなんだよ、これが」
「なるほど、それは眠らせられませんね」
「そうそう、そうなんだ」
カップをゆっくりと机に戻し、指を組む。「綺麗なんだよな」
「……セージュさん。セージュさんには、兄弟っているんですか?」
「なんだよ、藪から棒に」
「少し気になって。そういう話って、あんまり聞いたことがないですし」
「うーん……まあ、いるっちゃいるけど……」
「本当ですか」
「俺が嘘を言うように見えるか?」
手を広げてみせる聖呪術師を見て、末永は眉をしかめた。
「俺とは正反対なヤツだよ。俺が『闇』なら、アイツは『光』だ。俺が『死神』なら、アイツは……『天使』かな」
「その人とは会わないんですか?」
「いや、会わない会わない。……と言うより、会ったら俺は消されちまうよ」
聖呪術師は苦笑し、まだ見ぬ妹に思いを馳せた。妹は、俺の存在を知っているんだろうか?仮に知ったとしても、俺のことなんて兄だと認めはしないだろう。俺はこんなに妹を想ってるっていうのに。
妹思いの兄は、報われない。