家に帰ると…
いっそ死にたい気分だった。
そう思ったのは今までで初めての事だった。
どんなに人生がつまらなくとも、どんなに自分の生きる価値が見い出せなくとも、そう思ったことは一度もなかった。
いつか、自分にも彼女ができて、そして結婚して、そこそこ幸せな家庭が作れる。幸せだとおもえる、生きている価値が見いだせる人生を歩むことができるはずだと、やはり期待して生きていたからだ。
だけど、もうそれも全て終わりだと思ってしまう。
秋桜は大切な家族だから、秋桜がどんなに綺麗だからと言って、彼女にしたいと思っていない。
秋桜との関係が崩れてしまうのはそう言う問題ではない。
そう言う次元の問題ではない。
俺は心もとなしに、家まで二つの自転車を転がしていた。右手に自分の自転車のハンドル、左手に秋桜の自転車のハンドルを持っていた。バランスが時折崩れそうになり、ふらついていた。
途中転んだことも何回かあった。家までは歩いてみると意外と遠いもので、俺は何回も転ぶたびに、涙が少しづつにじみ出て、死にたいと思うのだ。
けれどもまだ死ねなかった。
今死んでしまうと、俺が秋桜の身体で死んで、この世では秋桜が死んだことになる。そして秋桜は俺の身体で生き続けることになってしまうからだ。もしかしたら死ぬ瞬間に入れ替わるなん事が起きるかもしれない。だから俺はまだ死ぬことはできない。
秋桜は家に帰ったのだろうか。帰って顔を合わすのがもう死ぬよりも辛いことのような気がした。
俺は薄暗い道の中を歩き続ける。そう言えば担任が、最近不審者が多いと言っていたな、俺は一応秋桜の身体だから気をつけなければならない。
そんな風に考えて気を紛らわしていた。そうでもしないと到底やっていられなかった。すぐにでもこの近くの踏切に飛び出しそうになるからだ。
俺はやっと家の近くまでやってきた。そして家が見える位の距離までやってきた。
すると。
あれ?
白と黒と、そして上が赤い?
暗くてよく分からなかったが、赤色は光っていた。
そして俺はやっと気づかされる。
パトカーだ。
それが俺の家の前で止まっている。
俺は一瞬その場に立ち尽くし、そして二台の自転車を両手に持って引きながら全力で走った。
一回バランスを崩して転んだ。
それでも立ち上がって、なお走り続けた。
俺の脳裏には嫌な予感が走った。
もしかしたら、秋桜が…。なんて想像をしては消して、現れては消えた。
あの言葉を言った本人ですら死にたくなったんだ。言われた秋桜はどんな風に思ってもそれはすべて誇張ではない範囲になってしまう。
俺は家の門を通り、適当に自転車を放り投げるように倒し、そして玄関を強く開ける。
すると、そこには案の定警察が一人いて、そして父である伸仁さんが居て、母がいて、そしてかんながいた。
「えっ」
一瞬、というか数秒事態が把握できなかった。
玄関の段差に腰を掛けた三十代くらいの若い警察官がいて、そしてその前にはかんなが力を無くしたように足を外側に開いて座っていた。
そして何やら二人でここ周辺の地図を見ているようだった。
そしてその様子を母と伸仁さんがまじまじと見ている。
俺が勢いよく玄関を開けたことにより、その場にいた誰もが驚いた顔をしていた。
そしてたぶん俺自身も表現できない程の凄い顔をしていたんだろう。
「秋桜ちゃんおかえり」母さんが優しく微笑んでそう言った。
そして俺はまた
(そうか、秋桜か)とまた思い出される。
「ただ…いま…」
そう言ったものの、俺の目線はもちろん母に向いている訳でもなく、かんなの方に向いていた。
一瞬かんなと目が合った。けれど、かんなはすぐに眼を反らした。その眼には若干涙が浮かんでいるようで、俺は、また驚いた。
母と目が合う。そして母は、俺を手招きして、そして伸仁さんや、警察官、そしてかんなの眼から見えない所へと連れていかれた。
この家にあるLサイズのスタジオの中へとやってきた。
なぜわざわざこんなところへ…。
「かっ、じゃない。奈緒子さん、何があったの?」
あやうく『母さん』という所だった。
母さんは、ひどく慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「落ち着いて聞いて」
「うん…」
「かんなちゃんが、不審者におそわれたのよ」
「えっ…」
俺は眼を大きく見開いていた。その間に、頭の中では色々な情景が頭に浮かぶ。
最初に、うちの担任が言った言葉。
誰もが耳を傾けていなかった言葉。
『最近、この近くで不審者が多く出ています。話を聞く限りでは、それらは同一人物であり、女子高生を主として狙っていると情報が入っています。くれぐれも不用意な寄り道は裂け、部活が終了したら早めに帰宅をすることを進めます。』
そして、今日、かんなが楽器屋へ一人で行ったという事。
最後に映ったのは、かんなの涙を浮かべた瞳。
「すぐに大声を上げて、近くの人が駆けつけてきてくれたからそんな大事にはならなかったみたい。それでも、かんなちゃん自身、かなり傷ついているみたい」
俺は母の言葉を聞いていなかった。
頭が真っ白になりそうだった。
「まだ犯人は捕まっていないみたい。最近多いらしいのよ。それに家の近くで襲われたらしいのよ。秋桜ちゃんも気をつけて。それにこれからはできるだけ三人で帰って来て」
「かんなは…」
「なに?」
「なんでもない…です…」
俺は気づいてしまった。
なんて馬鹿なんだろう。
かんなが楽器屋に行くと言っておきながら、楽器屋に行っていなかった。
すぐにわかってしまった。
一番近い楽器屋でも、学校から行くと、家と反対方向の方角へ、結構行ったところにある。
それなのに、帰ってくるのが早すぎている。
確かに俺と秋桜は帰ってくるときゆっくり帰っていた。それでも、楽器屋へ行って、買い物を済ませ、家に帰ってくる途中で不審者に出くわしても、警察が駆けつける時間には早すぎる。
そして、俺は思い知らされることになった。
俺は馬鹿だ。
なんでこんなに馬鹿なのか考えただけでも虫唾が走る。
俺は最近、秋桜の事しか考えていなかった。
それがすべての元凶だ。
今までを思い出して、はっきりとする。
そしてかんなはそれを気遣っているように思えた。今までそう感じて来なかったことが不思議なくらいだった。
かんなはもしかしたら、自分達、俺と秋桜の為に、一人で帰ったのではないのか。
本当にそうだとは今はまだそう言い切れない。それでもかんなが楽器屋に行くと俺達に嘘をついて、一人で帰ったのは事実なのだ。
そして、かんなは襲われた。
力が抜けそうだった。
「秋桜ちゃん大丈夫?」
母さんは俺の顔を覗き込むようにして見てくる。
もしかしたら、俺はものすごく、青ざめた顔をしているのかもしれない。体に力が全く入らないのだ。
また大きな音がした。
心の中で、東雲という大きな存在が壊れていく音がした。
そして俺はあるかなしかの小さな声で訊ねた。
「悠介…は?」
もちろん、悠介は俺だが、秋桜の事だった。
「ああ、悠介は、さっき帰って来てたけど、事情を話したら、すぐ三階に籠っちゃってるみたいで。相当ショックだったみたい」
もしかしたら、秋桜も悟ってしまったのかもしれない。秋桜は馬鹿じゃない。たとえ馬鹿な過ちを犯しても、それにすぐ気付けるタイプだ。
「じゃあ、私また玄関に戻らないといけないから。夕飯は遅くなっちゃうかもしれないけど少しだけ我慢してね」
母さんはスタジオの重たいドアを開けて、そして出て行った。
俺はその場にしゃがみ込んだ。力が抜けて、さっきまで立っていることがやっとだった。スタジオには幸い窓がなくて、そこには時計だけがあって、カチカチと秒針が動く音だけがする。
俺はどうしたらいいのかわからなくなった。
もう守るべきものがなくなった。
秋桜も、かんなもどんどん俺から離れて行く気がした。いや、気がするんじゃなくて、離れてしまった。
それでも俺の心の中で一つだけ残っていることがあった。
守るものはなくなった。
それでも、俺はどうしても動かずにはいられない。
母親の言葉を思い出す。
『まだ犯人は捕まっていないみたい。』『家の近くで襲われたらしい』
こんな俺でもまだやるべきことは残っているではないか。
そう思えてきた。
犯人を捕まえよう。
俺と秋桜の身体入れ替わりはどうすることも出来ない。
けれど、かんなに涙を流させた犯人を捕まえることはできるかもしれない。
俺は思いついて、そしてふらふらしたままスタジオを出て、部屋へ向かった。
パソコン画面に向かって、県警の不審者情報を見て、市内の地図を取り出し、書き込みをしていた。
空はもう暗かった。何もかもが闇に落ちていくようだ。
パソコン画面に向かっている自分はどんな顔をしていたのだろう。




