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東雲草の花言葉  作者: 水無月旬
第六章
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公園のベンチの上で

 

 六時の地区の放送が入った。夏だと六時、冬だと四時に音楽が流れる。


 公園で遊んでいた子供たちも、その音楽を聴くや否や足早にこの場から去ってしまった。


 静かな風の音が聞こえた。


 この公園にいるとしたら、夕方に犬の散歩をしているご老人だけだった。


 俺と秋桜(あいか)は秋桜の向いた視線の先にあった木製のベンチの近くに自転車を止めて、そこに腰掛けた。


 座ったベンチの真上には大きな広葉樹の樹があって、影を作っていた。それでも六時を回って、夕方も終わりを迎えていた。真っ赤な地面から、少しずつどす黒い赤へと変わって、そして青色を含んだ黒になる。


 公園の外灯がついて、公園が光に照らされた。俺は真っ直ぐ前を見て、その照らされた芝生を見ていた。


 隣に座っていた秋桜は、随分とのんびりに、尻を重たそうにして座った。座る時も有声音の息を出して、なんだかいつもの秋桜と違った気がした。


 俺はその光景もなかったように沈黙を守り、まだかまだかと秋桜が喋るのを待っていた。


 秋桜がここに寄ろうと言ったんだ。きっと秋桜は何か俺に言う事があるのではないだろうか。



 そう思ってもう既に十分が過ぎた。今更、夕日がどうこうの話ではなく、街灯のライトの周りには照らされた小さい蚊のような虫がたくさん集まっていて、木々の生い茂る方では暗い方に蝙蝠が飛び交っていた。


 俺は黙って座り続けた。もしかしたら秋桜は寝てしまったのではないかと思って、ついに我慢の限界を迎え、秋桜の方を見た。


 目線が合わなかった。秋桜も俺のようにずっと前の外灯に照らされた芝生を見ていた。


 俺は再び視線を前に戻すと、その瞬間傍目(はため)で秋桜の口元が動く気配がした。


(ゆう)、もう終わりにしたいよ」


 その声には、もうそれは男の、男性の持っている声ではなかった。女性らしさ、そして今まで何かを溜めこんできた秋桜の声でしかなかった。


 俺は黙り込んだ。そうすることを決めた。ただの逃げではなかった。


「悠、どうしたら戻れるの?私だって、悠だって、戻りたいよね?なんでこんな事になっちゃったの。私だって、普通に悠と一緒に居たい。体が入れ替わるなんて誰も願ったことじゃないの」


 俺は握っている手を見た。思ったよりも強く握り締めている自分の手を見た。


 その手はギターをあそこまで激しく弾けるような荒々しい手ではなく、逆にどうしてこんな手であれ程のギターが弾けるかわからない程、か弱い女性の手つきをしていた。まるで本を繰る文学少女の手のような、或いは吹奏楽をやっている女子生徒の手のような。


 そんな手を俺はずっと見ていた。神に願う様にその手は一つ一つの指を左右でからめ、しっかりと握っている。


 俺は何も言えなかったわけじゃない。何も言わなかった。


 もちろん秋桜がここまで思い詰めているのかと驚きがあった。それでも、それも何となく感じてはいた。


 それでも、秋桜を救える手段が見つからず、俺は何もしなかった。


「ごめん、そんな事言っても、元に戻れるはずがないのにね」秋桜は苦しそうに笑った顔を見せる。


 俺だって、これ以上このままでいることがまずいことだって言うのはわかっていた。それでも、人はどうにもできないことがある事を今回初めて思い知らされたような気がした。


 一夜漬けでどうにかなるテスト勉強とは違う。革命を起こして勝ちに一歩近づく大富豪とは根本が違う。


 今まで通り秋桜を元気づけようとする言葉はいくらでも思い浮かぶ。それでも俺は言わなかった。もう秋桜はそんな言葉に耳を傾けてくれるはずがないと分かっていたから。


 もしかしたら、なにも言わなかったなんて言い訳つけて、本当はやっぱり何も言えないのかもしれない。


 そうわかってしまった。わからされた時、俺は自分がとてつもなく怖い存在だと思った。


 一か月たっていようと、俺と秋桜はまだ出会ったばかりの不安定な関係だ。俺はそれをどうしても壊したくはなかった。


 いつだか秋桜が言ってくれたこと、確か俺と秋桜が入れ替わる前の事だった。


 急に朝顔の花言葉を知っているか秋桜が訊ねた時に、教えてもらった。


 『友情、愛着、固い約束、愛情の絆、そして儚い恋』という意味を持つ朝顔の別名は東雲草(しののめぐさ)と言うらしいという事を。


 俺は自分勝手だろうか、それを、東雲に込められた花言葉を何よりも壊したくないと願う俺がこの場で黙っていることは卑怯だろうか。


 俺は偽善は語りたくはなかった。あの夜俺が秋桜に言ったことだって、偽善でも何でもないと信じたかった。


 ごめん、秋桜。


「ごめん、秋桜。少し厳しい事言っていい?」


 待って、やめろ。


「なに?」


「あのさ」


 待てって、そんな事言ったら…。


 必死で心の中でブレーキをかけようとした。だけど、俺はたぶんきっと、今まで偽善を語ってきたんだ。仕方がないのかもしれない。


 それでも東雲を放したくないから、絶対に手放したくはないから…。


「秋桜はどうしたいの?そう言ったって俺はもうどうにもすることはできない。秋桜の為にテストでいい点を取ることはできても、未知の状況を回避することまではできる事じゃない。ごめん。今まで俺は何でもできると思ってた。秋桜の為だったら何でもしてあげられると思ってた。けれど無理なんだ。俺はやっぱりただの普通の男子高校生。今は違くても中身はそう。憧れを捨てて、悠々自適に過ごすただの高校生なんだ」


 俺はそう言い切った。言ってしまった。


 そのあとの俺はどんな顔をしていただろうか。


 秋桜の顔は見ればすぐにわかった。涙を流していた。俺が今までに流してこなかった量の涙を俺の眼から流していた。目線がどこへ向いているかわからずに、ただ茫然と前を見て涙を流していた。


「あっ…」俺からそんな弱弱しい声が漏れた。


 違う、そんな事が言いたかったわけじゃない。


 だけど、だけど…。それもまた偽善になってしまう。


 秋桜は、涙をぬぐって、そして荷物を持って、走り出す。俺の身体で女のような走りで走った。


 自転車は二台残され、そして俺はその過ぎていく秋桜の姿を見て、そして見えなくなったところで嗚咽した。声も出ない泣き声が出た。


 壊してしまった。


 東雲草の花言葉にはどういう意味があるのか。


 それを俺はもはや思い出したくもなかった。




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