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修験道という文化が入る前から、天狗はいた。それは今とは別の姿をしたものだっただろう。山の民とは何か。それは日本民族が入る前からこの土地に暮らしていた先住民だったと考えられている。
「日本には赤鬼という生物がいると言われてるの。人をさらって悪さするから、鬼退治なんてよくやられていたみたい。山の民は赤い顔をしていて裸体の巨人で、里とは交流せずに山の中で独自の文化を築いて生きた人たち……明治の初期までは実在していたらしい。それが鬼の伝説のもとになった」
「鬼と言われても、俺はうまくイメージができないんだよな」
「赤い顔をして、トラの毛皮をパンツにして、牙が生えていて、頭に角があって」
「あはは! ジョークだろ、それ!」
そんな生物がいたら、見てみたい。そんなことを言って、ティエンは笑う。ランカもふっと肩の力が抜けて、一緒に笑った直後、顔色を変えて耳を澄ました。
どこかで、笑い声が聞こえたような気がしたのだ。
すぐ傍に何かがいるような気がして、彼女は背後を振り向いた。静かに降雪が始まる。モノクロ世界の中、眼下に広がる琵琶湖を見つめた。冷たい風が吹き抜けていく。
「どうした?」
ティエンが笑いを止めて、展望台から身を起こし、彼女を振り返る。ランカは西洋風の庭を眺めて、見えない大気を睨んだ。かすかに聞こえたと思った笑い声は消えている。ただ、そこに人がいるという感覚だけは消えていない。
誰かにつけられているのだろうか。だが、ケーブルカーの中には自分たちしかいなかった。他の手段を使わなくてはこの場所にはこれないはずだ。もともと、比叡山には行く予定がなかった。前もって、誰かに先回りされたとも考えにくい。
気のせいか、と考えながら、彼女は姿勢を元に戻した。
「……こだまだったのかも」
ランカの呟きを聞いて、ティエンは少し目元を優しく緩めた。彼に肩を抱き寄せられたので「調子に乗るな」と額を叩く。だが、彼は知らん顔で彼女を抱き寄せて慰めた。
ティエンは必要以上に彼女を抱き寄せて、温めながら口を開く。
「山の民が何者かは知らないが、人類史で不思議に思っていたことがあるんだ」
ランカは周囲を見てから、彼に抵抗することをあきらめた。思いのほか、彼の腕の中は温かい。暖を取るにはいいだろうと黙って受け入れた。展望台の手すりにもたれて紀伊半島を見ながら、彼の声を聴く。彼の手は大きくて気持ちがいい。今の彼に煙の匂いはない。
「イブ仮説が証明され、人類発祥の地はアフリカだと言われるようになった。人類の足跡をその後シミュレーションしてみると、アメリカ大陸には一万三〇〇〇年前に人類は到達したという計算になるらしい。そして、日本人はアメリカ先住民族とよく似通った特徴があると言われている……海を隔てて離れているのに、それはなぜなのか。イブ仮説でモンゴロイドが氷河期にアリューシャンを越えたと考えられるようになった」
彼の横顔は好奇心で輝いている。学術の話をするときの彼は自信があって素敵に見えた。ランカは友人の横顔を静かに見守る。
イブ仮説とは一九八七年から二〇〇〇年にかけて、異なる学者たちがミトコンドリアの配列差異を統計的手法によって導き出し、人種間の相同性を論じた仮説だ。これによって数学的に人類の共通祖先が二〇万年前にアフリカにいたことが証明された。
現生人類が拡散を始めたのは、五万年前。地球は一二万年前から寒冷化に向かった。人類の全球的拡散はこの気候変動が引き金になったと言われている。この氷期は一万四〇〇〇年前まで続いたと言われている。
アリューシャン列島は、アメリカ合衆国アラスカ州に存在するアラスカ半島から、ロシアのコマンドル諸島を結ぶ環状の列島群をいう。現在、ベーリング海と太平洋を隔てるこの環状島嶼群は完全に孤立している。歩いてこれを渡るには海が凍結している必要がある。
つまり、人類は五万年前から一万四〇〇〇年前までの約四万六〇〇〇年間で全球に拡散した。これは人類の生誕史を眺めてみると驚くべき速さと考えてよいかもしれない。
アフリカで最古の化石が見つかったのは今から四〇〇万年前の地層からだ。学説上では、人類の発祥は化石のある証拠時代よりも昔にさかのぼり、およそ六〇〇万から七〇〇万年前の間に、チンパンジーやボノボから分岐したと考えられている。
現生人類に共通の祖先がアフリカにいるとして、彼らはその発生から現在までの間、九十九%の時間をその場所でのみ過ごしていたことになる。その間、地球には一度も氷河期はなかったのか。いや、地球は三〇〇万年前から寒冷化による、氷期—間氷期サイクルを繰り返すようになった。人類が拡散したのは一二万年前から始まった最後の氷河期である。それまでの間、我らはなぜ、動かなかったのか。
いや、実際にはすでに広がっていただろう。
「大陸移動説を唱えたのは一九一二年のウェゲナーだ。白亜紀に存在していた巨大な超大陸パンゲアが地球の自転による遠心力で分裂したという奴さ。アフリカ西海岸から南アフリカにかけての海岸線と、南アメリカ大陸の海岸線が地図上で相似しているところから発想を得て、後年、彼の死後に詳しい地質調査を通じて立証した」
「小難しい話を続けるね。眠くなるよ」
ランカは途中で彼の話に口をはさむ。時々、ティエンは話に夢中になってしまって、彼女の存在を忘れることがある。
彼に無視されたくない。折角、温かい気持ちで抱かれているのに。ティエンはよくこんな風にして恋のチャンスを逃す男だった。ランカの言葉を聞いて、二人が身を寄せ合っている状況を思い出すかと思いきや、彼はさらにとぼけたことを言い出した。
「わかった。簡単にまとめると、どうして人類はもっとも近しい場所にもっとも最後に到達したんだろう、ということさ。なぜ、人類はシナイ半島を通って拡散しなくてはならないんだ。アフリカ西海岸から南アメリカへ渡ったっていいじゃないか」
ランカも思わず笑ってしまった。ここはもう彼の話に合わせるよりない。ティエンはもう夢中なのだ。今の彼には恋よりも、人類史を語る方が楽しいらしい。しばらく一人で笑ってから、ランカは気持ちを入れ替えた。彼は恋人ではない……そうだったのだ。
「船に乗れなかったんでしょ?」
「人類の拡散開始が本当に五万年前なら……話題を変えよう。今、俺たちがいるこの日本をはじめとする東アジアは現生人類以外の生物がすんでいた。人間は一種類ではなかったんだよ。この地域では……シナントロプスはホモ・サピエンスとは違う生き物だ」
ティエンは軽く微笑む。シナントロプスとは、正式名称シナントロプス・ペキネンシスのことだ。中国で発見されたその遺骸は、日本では北京原人と呼ばれている。ジャワ島で見つかったピテカントロプス・エレクトスと共にホモ・エレクトスに分類されている。
ランカはもう諦めて、手すりの上で頬杖をついた。彼の演説は天狗の話へとつながっていくのだろうか。
イブ仮説に対する反論がないわけではない。人間は異なる場所で同時複層的に発生したのだ、と。現在六十億以上存在する人類がすべて一種類の品種で占められているというのは、考えてみると無理のある仮説だ。
一九八〇年以降ミシガン大学のミルフォード・ヴォルポフらによって広められた多地域進化説だ。一八〇万年前にアフリカからユーラシアへ人類が入植し、地域ごとに分化して発生して現地人の祖先になったという仮説だ。現在ではこの学説はほぼ淘汰されているが、人類は猿人、原人、旧人、新人へと直線的に連なって発生してきたものではない。同時期にそれが複数存在したことは事実だ。
この世界に、ホモ・サピエンス以外の生命がヒトとして存在している、と考えたことがあるだろうか。我らと同じように、言語による意思疎通を行うものとして存在するなら、それと気づかぬままに意思を交わしているだろう。
正しく認識できるだろうか。
私はあなたと同じ種族の人間です、と。
おそらく、気づかぬままに異種と混血を繰り返しただろう。そうして、いつの間にか「一つになった」のだ。我らは異なる人種間でその差異を小さくするようにして繁殖を繰り返している。
現在はほぼ一種類の種で「人類」と呼ぶようになっている。異なる土地、異なる国、異なる言語を操っていても。