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ランカは無意識にティエンを振り返っていた。ティエンはもうカレンダーを見て、出発する日を考察しているようだ。彼はもう心を決めている、と感じた。
ティエンはぼんやりした調子でつぶやいた。
「俺さ、天使の絵を見て思うんだけど、絶対飛べない比率だよな」
マイキーがパンと膝を打って、叫んだ。
「そうだよ、飛べない! 背中からちっちゃな羽が出たって、飛べないって! あのね、天使はやはり飛ばなくっちゃだめさー。飛んでくれなくちゃ羽をもってる意味がない。ねえ、今度は飛ぶ人だと思うから、絶対写真を撮ってきてよ。見たいんだよ。本物!」
ティエンはコーヒーカップを三人分もってきて、テーブルに置いた。ランカの背後でソファの背に寄りかかるように腰かけて、マイキーに話す。
「遺伝子を解析できてるってことは、そいつは研究所内にいるの? また、人造生物の取材か? サーカスみたいな騙し討ちは嫌だな。しかも、今度はあちらからご招待? 胡散臭い話じゃん」
ランカは彼の言葉を聞きながらコーヒーの香りを嗅いだ。安らかな気分で香り高い気品を味わった後、一口すする。
マイキーは匂いだけ味わって、うっとりとした顔つきで答えた。
「そのあたりを見極めるのはよろしく頼むよ。もう一つ言っておくと、それは地球上に存在するいずれの生物の遺伝子とも違うそうだ。これ以上怪しいものもないが、これ以上本物に近い情報もないと、僕は思う。天使という名の新種発見になるかもしれない。それが古来、人の歴史に影響を与えてきたものたちの正体かもしれない」
「その超楽観主義的なところは好きよ、マイキー」
ランカはそう言って微笑んだ。ティエンはため息交じりに背後を振り返り、脳内画像を映した画面を見て、にんまり笑う。マイキーも彼と一緒にその映像を見ている。
ランカも二人の視線に気が付いて、背後を振り返った。
ぼんやりと天使の羽のような模様が見えた。今度の旅行で本物を撮ろうぜ、とティエンが彼女の肩を叩く。マイキーがチケットの予約をすると言ってくれた。
二〇〇三年一月 日本 京都
サンフランシスコから雪の京都へ。
京都の北東部に存在する国際会館には、外国人向けの宿泊施設がある。明日から始まる学会のおかげでロッジはもう使えない。向かいにあるホテルに、この学会に出るという九角亘博士が部屋を取った。学会発表は明日の午後だ。後で二人と会う算段になっている。
「天狗というのは、山の神様のことですね。ここから車で二十分ほどで鞍馬山という場所に行けます。そこに鞍馬天狗というものがいたと考えられてます。鞍馬山と比叡山はちょうど風水で京都の街の東北を守る場所にありまして、神社仏閣が多いです。霊的に守ることで、ここから鬼や災厄が入り込むのを防ぐ役割があったのです」
客室に案内してくれたホテルの従業員がそんなことを教えてくれる。ティエンは風水の知識がある。ただ、日本の風水と中国の風水は少し考えが異なるので、鬼の話が出てきたとき、何の話をしているのか戸惑ったようだ。中国では鬼は魂のことだ。特に、縁者のない先祖の霊魂を指す。これを防ぐ理由がわからない。中国では先祖の霊は常にともにいる。日本では鬼というと、怪物めいた鬼神を指すことが多い。この国には物質的に鬼がいたのだ。
客室に通される。部屋からは木々に雪が積もった清楚な景色が全面に見えている。ガラス越しに見える雪景色に、思わず二人で「すごーい!」と叫ぶ。案内してきた女性がうれしそうな笑顔になって、部屋の中に二人を入れた。
窓辺に椅子とテーブルがあったので、そちらに行って二人で座った。ガラス一面に白い雪化粧。白い木々の間に赤い実が浮かんで見える。日本の雪は羽毛のようだ。きめが細かくてふっくらして見える。サンフランシスコでは味わうことのない雪の量だ。
案内したのは女性の従業員だが、彼女は部屋の案内をした後、すぐには帰らなかった。ティエンが紙幣を出そうとしたら「チップはいりません」と笑う。
日本はお茶の文化がある。ここで茶会も体験できるという。
「明日は午後二時から国際会館の中庭で開きます。よろしかったら、いらしてください」
「ええ。伺います」
ティエンはにっこり笑ってそう答えた。
彼女が出て行ったら、静かな時間が流れた。二人はしばらく何も言わずにお茶をすすり、雪を眺めて過ごす。
しばらくして話し始めた。
「ワンダフル、ジャパン」
「いや、不思議の国ジャパンでしょ」
「チップなしでボランタリーだね」
「基本給が高いんだよ、きっと」
外国人に日本の京都は人気がある。ティエンはそのサービスマンの話ばかりしていた。彼女の立ち居振る舞い、身なりは美しいし、英語も堪能で親切だ。最初に出会った日本人が彼女なら、日本は善人の国だと思うはずだ。
だが、数分後にはホテル内の装備を見て騒ぎ始める。トイレに入っていた彼は突然大声で笑いだした。
「ランカッ、トイレから水が出てるよっ。あは、何これ、うははは!」
「水洗トイレで水が出るのは当たり前よ。日本を馬鹿にしないで」
ランカはうんざりした顔で外に出た。置いていく、と言えば、中から水を流す音が聞こえてきた。彼を笑わせた水の正体は、後で彼女自身が知ることになる。
京都のタクシーは別料金を払えば、観光タクシーになる。日本のタクシーは高価だが、ぼったくりが少ない優良なドライバーが多いと有名だ。鞄を置き忘れても、財布から金をすられることもめったにない。いや、逆に運転手が荷物の見張り番をしてくれたりする。
唯一の欠点は、英語がそれほど堪能ではないことだ。だが、話しながら危険な運転をするよりは、目的地へ安全に連れて行ってくれる方がありがたい。
鞍馬山の標高はおよそ五七〇メートル。それほど高くない山だが、京都の山岳信仰を集めた神聖な場所だという。修験道という宗教が発展した場所だ。修験道とは、修業をする道と書くが、山中における修業を通じて呪力と呼ばれるものを得て、自然と一体となり、仏教でいうところの即身成仏を実現するものをいう。この修業を行うものを修験者と呼ぶ。これがのちに天狗と間違われたのだろう。
鞍馬山は観光地として有名で、それほど格式ばった聖地ではない。念のため、正装したティエンだが、逆にタクシーの中で運転手に笑われた。山を登るときに苦労しますよ、と現地の言葉で言われる。もう二人は、英語で話せ、とは要求しなかった。ティエンがなれない言語で話しかければ「日本語がお上手ですねえ」と褒められた。ここは日本だ。日本語で旅行をする方がいいらしい。
タクシーで行けるのは、参道の入り口までだ。山中にある鞍馬寺までは歩きで約二十分。二人は門前町付近で登山靴に履き替え、ティエンは背広にバックパックを背負って、九十九折と呼ばれる雪の参道を歩き始めた。
二人とも並みの男よりは体力がある方だ。今まで世界中の難関に侵入してきたのだから、これぐらいの低地でばてるわけがない。しかし、ただでさえ不安定な足元に雪が積もって滑りやすく、そこに気を配って体勢を維持し、低温環境の中で体温を維持する活動をしているのだ。足腰にじわじわと効いてくる。
それでも二十分ぐらいの参道はあっという間だ。修験道は参道のみならず、鞍馬山全体で行われたという。かつて修験者たちはこの山の修業で、超人となった。二人は整備された道を歩いてきたが、体力の面で納得する山道だ。日本の山は小ぶりでも急峻で険しい。
「日本語は読める?」
「読めても意味はわからない。源って、源流の意味だろ」
「違う。これは人の名前。源義経という英雄がいたの」
「水源を経てほにゃららってわけではないんだ?」
「それがこの寺で修業をしたんだって。天狗が彼に兵法を伝えたそうよ。ヨシツネと恋仲だったらしい」
「ほおう。天狗は女だったのか……同性愛ってことはないよな?」
二対の虎に守られた木造の本堂を詣で、尊天と呼ばれるご神体を参拝する。尊天とは「宇宙のエネルギー」だという説明文が書かれてあるらしい。英語のパンフレットはなく、二人で漢字を読みながら推測する。