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アメリカへ向かうエアバスの中で、ランカはうとうとしながらティエンの手を握っていた。今はもう、相手の肌に触れないと思念を読み取ることができない。いや、きちんと読み取れているのかどうかわからない。ただ、そう信じているだけなのだ。
「こういうかわいいところはあるんだけどさあ……心を許してくれないっていうか、そういうところが……ねえ、俺、お前のこと好きなんだけど? ふふ、寝てるよな? 早く旦那と別れろよなあ、まったく……何年係争してんのお?」
それは彼の心の声なのか、現実の声なのか。ランカは毛布にくるまったまま、ティエンの指を握っていた。眠っているふりをして。
いつからだろう。心の声が聞こえなくなったのは。
昔は相手の心と直につながっている感覚があった。テレパシーという名前を知ったのはあとのことだ。目の前の生物と心を通じ合わせて相手を理解するのは、空気を吸うように簡単にできた。
いつから、それができなくなったのだろう。
『君は耳から音を聞いていると思っているのか? 鼓膜の中にある骨は振動を伝えるだけだ。それが意味のある音になるまでに、君の脳内でどれだけのネットワークを作ると思う?』
骨から伝わる音の高さや音調を分析し、その並びは側頭葉から上部にあるブローカ脳で言語に転換され、言語として理解できるようになる。脳幹にある海馬から音の記憶を取り出し、音の並びから単語の意味を結び付け、言葉の意味を理解する。
そのネットワークのうち、最初の環境情報の入力がなくても、人は言葉を思い出すことができる。つまり、現実の音がなくても「意味」を理解することはできるのだ。ならば、何らかの方法で「意味」だけをやり取りできればいい。それがテレパシーだ。
ランカが鍛えられたのは、嗅覚だった。
嗅覚をつかさどる神経だけは、毎日生まれて、毎日死んでいる。視覚や皮膚感覚は鍛えることができない。ある程度は生来のもの。聴覚は子供のうちは少し開発が可能だ。だが、本当に開発可能な五感は嗅覚のみだ。そして、鍛え続けなければ、あっという間に衰えてしまう感覚でもある。
嗅覚を鍛えれば、他の感覚神経の活性が促され、統合され、ただの五感を超えた新感覚を得ることができる。嗅覚が最も海馬記憶を呼び起こすシグナルだからだ。
超能力のカギを握るのは、海馬である。
そこに人類のすべての記憶が眠っている。それを自在に引き出すことができれば、現実の理解は想像を超えた形で訪れる。嗅覚を記憶に結び付け、目の前の現実に投影する訓練を積めば、誰でもテレパシーぐらいは獲得できる。その能力を生存に活用してきたからだ。超能力とは失われた野生の感性のことだ。
親しいものからテレパスの能力は磨かれていく。母と子の間に言葉は不要だ。母は子が何も言わなくても、彼らの要求を理解できる。目の前の人物の状況、環境、匂いや表情やその他の情報で、そのものの言いたい言葉を自分の経験から推測し理解する。
本当は誰にでもできることなのに、彼女はできなくなった。
なぜだろう。
彼を理解したいと願って開発された能力だったからだ。恋をしていたからだ。彼に出会わなければ、テレパシーなんて生まれなかったに違いない。彼と結ばれて、彼と別れることになった。もう彼の心を覗きたくない。だから、失われた能力だ。
『君は本当に私に抱かれていいのか。私は君を愛せない……今夜の記憶が、将来、君を苦しめることになるだろう。いいのか?』
構わないと思っていたのに。その言葉は事実になる。
思い出は全て香りだ。彼の体から発する熱の香り、彼の好きな料理、彼がよく読んでいた本の香り、よくつけていた香水、初めてのデートで訪れた街の匂い、たった一度の逢瀬で嗅いだ彼の吐息。生活の中で不意に同じ香りを見つけ、彼を思い出す。喪失の記憶と。
その記憶に苦しめられる。記憶から逃れられない。彼との記憶をもう新たに作りたくない……だから嗅覚による能力を失った。
『じゃあさ、サイキックの中には、体ごと移動する奴があるでしょ。ほら、なんだっけ、時空移動できちゃうやつ。テレポテーションていうの? あれはどういう原理?』
それは誰の言葉だったか。ヨハンではない。彼の声ではない。
テレポテーション? 学んだことはない。
苦手な匂いがする。タバコの煙。その人はタバコを吸っている。
ランカはふっと目を開いた。まだ現実と夢の区別がつかない。最初、このうるさい場所はどこだろうか、と思った。ごおおごおお、と地獄の業火のような騒音が響く。研究室にこんな機械があった。磁気を発生させているからうるさいのだとヨハンから聞いた。
ふと、頬に温かい存在があることに気が付いた。すぐ真上にティエンの寝顔が見えた。眼鏡は外している。気の抜けた顔で半分口をあけて、眠っている。彼はタバコを吸ったみたいだ。彼の口臭を嗅ぎ、ランカは顔をあげて体を起こす。彼の肩にもたれて寝ていた。
通路を歩く客室乗務員と目があった。ここは航空機の中だ。状況を思い出して、彼女は時空を取り戻した。乗務員は優しい笑みを浮かべて「水をお持ちしましょうか?」と聞く。その時、イメージがわいた。
――彼はのどが渇いている。彼女を傍に呼んだのは、彼。
ランカは彼の指を離し、乗務員に「コーヒーをください」と答えた。
隣で眠っている男の横顔を見る。彼の正体を一瞬疑った。もしかしたら、ティエンは能力者かもしれない。妙に勘のいい男なのだ。だが、コーヒーが来るころには気持ちも落ち着いていた。この能力は誰にでもある。
ただ、普通の人間は制御している。親しい人以外にこの能力を発揮することはない。それもまた生存の本能だからだ。超能力を用いて生存するのは不完全な子供の間のみだ。大人になってもこの能力が持続するものは少ない。持ち続けると危険な能力だから、普通は制御によって失われるのだ。
そうして、人は社会性を身に着けていく。
超能力開発は自然に反した行為だ。それは、異常発達した感覚と古い人類の記憶を強化し続け、現実に作用させることで、現在の理解と新たな記憶の創造を妨げる。創造心は人生の初期ゆえに華やかでありえる。いつまでも現実を認識せず、思想の力で記憶を作り替えていたら、社会適応できぬままに偽りの自己の中で生き続けることになる。
現実以外の世界を生み出し、他者の記憶すら操作する。だからこそ、人はテレポテーションを可能にできるのかもしれない。本当の世界の姿を人は知らなくてもいい。
世界は思念のみでできているのかもしれないから。
「う……ああーう……ん? 今どこらへん?」
ティエンが目を覚ました。ランカはコーヒーを飲みながら「知らない」と答えた。ティエンは目の前にある小さな画面上にある航空機の現在地情報を読み取りつつ、乗務員を呼ぶボタンを押した。
ランカは彼が乗務員に「水が欲しい」と言うに違いないと思っていた。そして、数秒後、その見立ては見事に当たった。一字一句違うことなく。