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みたまおと  作者: tomoya
第1話 天使
3/30

 タクシーはブラジリアの南十二キロの位置にある国際空港へ向かう。現地の言葉で「プレジデント・ジュセリノ・クビシェッキ」という名のその空港は、市中からエピア道路を利用しておよそ三十分だ。信号機で止まることのない立体交差式の巨大な高速道路は、降雨の影響さえなければ快適だ。乾いたこの高地も雨期に入り、土砂降りの雨が二人の行方を阻んでいる。忙しく左右に動くワイパー越しに暗い夜のネオンがにじむ。先行きの見えない闇の中を高速で通り過ぎていく。

 男は短く刈り整えられた髪からしずくを落としつつ、下着をつけ、タオルを腰から外す。品の良いスラックスをはきながら彼は続けた。下着の色はメタリックシルバーだ。

「背中に羽のある人物の写真なんて珍しいものじゃない。たいていは肩甲骨の異常発生で説明できるが、羽毛が生えてるとなると、白鳥の羽でも植えつけたか、合成写真か」

 そう言いながら彼は少し腰を浮かせてジッパーを引き上げた。ランカは彼の姿を無視して答えた。

「今回のネタはいずれでもなかった……出版社の連中に一枚送ったけど、まだ返信はない。感想に困ってるかな。クローンや遺伝子操作の違法性が議論されてる最中に、こんなネタが世界に出たら、製造元はまずい思いをするだろうよ。あれはキメラだ」

 キメラとは、二つ以上の胚またはその一部からできた個体をいう。ギリシャ神話では、獅子の頭、山羊の体、蛇の尾をもつ化け物として描かれているが、人間は胚移植や雑種混合により新たな生物を作る技術を既に手に入れている。ただ、今までは人の胚を利用して、この手の研究が公になったことはない。実験室でマウスを作ったり、育種家が新たな品種を作る時に用いた技術だ。

「その羽は動いていたのか」

「今までとってきた中では、上出来のイカサマ。人間と鳥類の合作だよ……あの子は長く生きられない。その死体すら奴らは利用する。こんなものは奇跡ではない。神の所業とは思えない」

 ランカはバックパックの中から武骨なカメラを取り出し、デジタル画像を見つめた。画素の粗い、手ブレの多い一枚だったが、生まれたばかりの子供の背中に白い羽毛が生えているのが見えた。これはある研究所に潜入して得た画像だ。鳥類と人類の遺伝子をかけ合わせた生命体だ。

 この画像を得るために、一カ月間潜伏して、情報を集めた。苦労して手に入れたネタだが、彼女の表情は少し陰って見えた。

 しばらくして、彼女は続けた。

「いや、あの子が生まれたのは奇跡だ。生まれるはずのない生命……不完全な生……」

 ランカの隣で男がネクタイを結びながら苦笑いしていた。形の良い眼鏡をかけて、髪形を整えていく。今はもう半裸の変態男ではなく、やり手のビジネスマンに見える。

 彼は上着にブラシを当てながら答えた。

「そのネタはいくらになると思う?」

「世知辛い話題はやめてよ。あたしの仕事は終わった」

「天使の作り方は、宗教家だけが買う情報ではないよ。軍需産業では生物兵器の製造が盛んだ。特に異種かけ合わせの技術は高くつく。たいていの生物は異種間の繁殖に対して、制御装置とでもいうべき生命の安全装置がついているのさ。そのタブーを犯し新種を作れる、しかも、それを人体でやれるとなると、そっちの関係者はこのネタを欲しがるだろう。アメリカ政府に売ってみようか、このネタ」

 ランカは軽く鼻で笑った。男は上着をきれいに羽織ったあと、彼女に続ける。

「いや、君はもう売っちゃった? 俺がシャワーを浴びている間に」

 彼は左手首にロレックスの腕時計をつけながら笑う。ランカは笑顔を作ってしばらく黙っていた。しかし、横目に彼を見て、その目が本気だと気が付いた。彼はランカの動きに気が付いていたらしい。

 彼女はふっと肩から力を抜いて、座席にもたれた。

「違うよ、ティエン」

 彼は相棒だ。少なくとも、片方の仕事においては、長い間、ともに世界の異変を追うジャーナリスト仲間だった。彼の信頼を失いたくない。しかし、もう一つの仕事について、彼には説明できそうにないのだが。

「今回の取材で、知人と情報の取引をしたの。研究所の所在地を教えてくれたのはその人よ。アメリカにメールを送ったのは、彼にも私が知りえた別の情報を提供するため。天使のネタを売ったわけではないわ」

 ティエンは身なりを整えてから、改めてゆったりしたしぐさで座席に座りなおした。運転手はバックミラーを元の位置に戻して、彼の姿を確認する。どこから見ても御曹司だ。

 彼は少し沈黙したあと、ランカの傍に近づいて、そっと囁いた。

「ねえ……俺たちの間でそういう嘘が通用する?」

 ランカは優しい笑みを浮かべて、彼から目をそむけた。ティエンはため息をついて「つまんないね」と笑った。

 車はハイウェイを通り過ぎ、空港に向かって土砂ぶりの中を進む。



 彼女が天使の映像を追っていると知って、離婚調停中の夫がその調査を助けてくれた。背後に何か彼らしい思惑があるだろう。宗教団体による非人道的な研究計画を阻止するという目的だけでなく、ティエンが言っていたように、その技術の軍事利用を考えてのことかもしれない。

 アメリカで超能力について研究が進んだのは、一九五〇年代の話だ。それを軍事に利用する研究が本格化し、実用に入ったのが一九七〇年代のこと。スタンフォード大学から独立したスタンフォード研究所(SRI)は国防高等研究計画(DARPA)とCIAの依頼を受けて一九七〇年から「スターゲイト・プロジェクト」による研究をスタートさせる。超能力を国防に利用するという研究だ。一九九五年に研究が頓挫するまでは機密事項として扱われた。

 ランカはDARPAに務めていた父の影響で、十五歳から二十歳までの間、SRIの被験者となった。つまり、テレパシストとしての教育を受け、その技術を諜報で活用させようと試みていた。

 テレパシーには送る方と受け取る方があるが、ランカには思念を送る能力がなかったようだ。相手を意のままに操ることはできなかったが、絶対音感を持ち、精神波を感じ、目の前にいる人間の思惑を読み取る能力はあった。

 だが、それも今は失われてしまった。彼女はスパイになりそこねた脱落者だ。だが、諜報員として登録はされている。彼らが接触してくるときは、本物のスパイの手助けをする時だ。おかげで彼女は二度の結婚歴があり、今も離婚調停中ということになっている。社会的にその情報が彼女の職業に影響することはなかったが。

 ヨハン・P・シュタインバックは、ランカの二度目の夫となった男だ。SRIで超能力の開発研究をした時、彼女の教育を担当した研究員だ。理知的で魅惑的な碧眼を持つドイツ系移民の男性で、ランカにとっては思春期の思い出を彩る初恋の人だ。

 しかし、彼らとの結婚生活は契約に基づくもので、決して甘いものではなかった。諜報員として、世界中で情報を調査する彼らの手助けをするために、望まない離婚を体験することになった。一度目の結婚相手とは死別した。彼との関係も国の利益のために偽装されたものだ。彼女は愛のある結婚生活を体験したことがない。初夜も妊娠も体験したことがなかった。

 ヨハンもまた自分から彼女の体に手を出すことはなかった。それでも、結婚した初日にランカにとって初めての男性となった。愛を感じたのはその一夜だけだ。性的にひどい行為をする男性ではなかったが、彼との関係はそれっきりで終わった。結婚生活が始まってから二年以内に離婚調停の手続きが始まる。家庭に寄り付かない夫を演じ、他国を渡り歩くという生活が始まった。

 ヨハンが世界中を飛び回り、何の情報を集めているのかを彼からきちんと言葉にして聞いたことはない。ランカはテレパシー能力で彼から情報を読み取ったことがある。彼は地球外生命体に関する調査を行っているらしかった。

 ランカが彼の情報を読み取ったことで、二人は離婚することになった。機密情報保持のためだ。だが、ヨハンとランカの関係は続いている。当時のランカに機密を読み取るつもりはなかった。ただ、彼を想う気持ちが勝ったのだ。それが危険行為と受け取られた。今は離婚調停という社会的な枠組みの中で安定し、いまだに家族であり続け、互いに助け合う関係ができていた。

 だから、今回、彼はランカに、ブラジルで天使の研究をする機関に関する情報をくれた。彼は天使や異形の生物の情報には神経を尖らせている。交換条件として、情報の提供を要求された。ランカにそれを断る理由はない。

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