2
彼女はもう一枚小さなタオルを引っ張り出し、髪をふきながら、部屋に戻った。テレビをつけつつ、ベッドの上に座る。
ティエンはイライラした顔のまま、傍に来た。
テレビ番組を選びつつ、ランカは彼の存在を無視していた。冷静になってからまた話をすればいいと思ってのことだ。だが、ティエンが手を伸ばしてテレビのリモコンを奪い、電源を切ってしまった。
「ねえ。ちゃんと話したい。俺を見てよ」
ティエンはランカに向かい合って、腰かけた。
ランカは髪をふきながら答えた。
「指が別の生命に魅入られたんじゃなかった? 仕事はどうしたの」
「君が悲鳴を上げたから、自動書記は終了した……当然でしょ? 助けようと思った」
君は大事な人だから。
彼はまっすぐだ。愛情に関して、彼は嘘をついたことがない。誠実だった。彼の愛情を信じることができる。彼の愛情だけは信用してもいいのではないか、と。
だから、彼女は苦しんでいるのだ。彼に嘘をついているのは、ランカ自身だ。
ヨハンとの結婚生活を終わらせることができない。彼女は彼女自身の気持ちに素直になることができない。これからも、誰かの思惑の中で生き続け、本当の愛情を表明することができない。そういう生き方を強いられているのだ。
本当に愛しているのは誰なのか。それを気づきたくなかった。
ヨハンは彼女を振り返ることがない。彼に心を惹かれ、彼に守られたいと願い、彼との安定した関係を望む。だが、いつまでも彼との間には本当の愛情は育まれないのだ。彼を望んでいるのは、ランカだけだから。
目の前にいる優しい男性を愛せたら、どれだけ楽なのだろう。
ティエンはランカにとって、もう一つの未来だ。
だが、いつまでもその距離は縮まらない。いつまでも、二人の間にはヨハンがいる。
「俺は覚悟もなく君を好きになったわけじゃないよ。本土にいる大家老は日本人が嫌いらしいし、戦争の話を聞いて育った従妹とか、俺が日本人に惚れてると聞くと露骨に嫌な顔をするし」
「辞めればいいじゃない。無理して好きにならないでよ」
「無理なんかしてない! 好きになったから、覚悟してるんだ。俺は中国人にも嫌われるかもしれない。世界中が俺の敵になるかもしれない。っていうか、ランカさえいればいいと思っていても、君は別の男とまだ係争中で!」
「そっちはあたしの問題よ。口を出さないで」
面倒な話になったと言わんばかりの顔で、ランカは彼から顔をそむけた。ドライヤーをかけに行こうとしたら、背後から彼に抱きつかれる。今までティエンがそんな行動に出たことはなかった。ランカは無理やり押し倒された後、あおむけになって彼の顔を見た。
ティエンは彼女の上に馬乗りになって、睨んでいた。
「俺を男だと思ってないでしょ。こういうことぐらいできるんだよ」
「……要求は何よ? この体勢は何」
二人は睨みあったまま、どちらも身動きができなかった。先に動いたのはティエンだ。がっかりした顔で「愛されたいんだけど」と遠慮がちに呟いた。直後、ランカが彼の首に飛びつくように抱きついた。ドキッとした顔になったティエンだが、ランカはすぐに彼の腰に片足を絡ませ、自分の体をひねり込むようにして動かした。深く入れた片腕をもう一つの腕で締め上げながら、頸動脈を圧迫する。
彼は声もなく暴れ始めたが、数秒後、彼女の腕の中で気絶したのだった。
意識を失った彼に呼吸があることを確かめた後、ランカはティエンを抱きしめて横になった。自分より大きな体を抱きしめて、目を閉じる。
肌を通して、彼の感情が流れてくる。
裏切られたという思いが強く、憎しみと愛しさが混ざった不思議な感情だった。ティエンは無意識下で強い哀しみを感じている。ランカに愛されたと思った瞬間に裏切られたという経験と感情を、幾度も繰り返して学習していた。
彼は幾度も幾度も彼女を守るために手を伸ばし、その度に手に入らないことで絶望してきた。それでも、愛することを辞めることができない。
――君が好きだ。
二人でいつの間にか眠っていた。肩が寒いと思った瞬間、ティエンの温かい手がランカを包んだ。かすかに目を開けると、カーテン越しに優しい光が空から落ちてくるのが見えた。白い雪がふわふわした動きで空を舞う。
雪の動きを追って、目を動かしていたら、額に軽くキスをされた。見上げると彼の寝顔があった。ティエンは寝たふりをしているが、もう起きているようだ。ランカは一度口を開いたが、言葉を紡ぐ前にもう一度目を閉じた。
その肉体を抱きしめると、抱きしめ返す感触があった。
彼は彼女を温かい毛布の中に入れて、包み込む。肌を通して、彼の香りを吸い、触感を知る。雪はすべての音を奪っていく。呼吸の音も、鼓動の音も、静かに、繰り返される。
この世にあるのは、彼と彼女の存在を示す心拍音。互いの存在を肌に聞く。
二人は目を閉じて、その音に耳を傾けていた。
ゆったりとした鼓動の狭間に、ある予兆を感じた。ランカは耳を澄ましてその声を聞き取る。懐かしい日本の香りがする。
――産み、育てよ、変化し続けよ
それは神の声だったのだろうか。空を舞う光の影は、上空からやってくる神経のパルスのように、天の意志を彼らに伝えた。
彼と共に子供を育てる。
そのイメージを得たのは、直後の話だった。この時、ランカの胎内には既にその命が宿っていた。その父親が誰なのかを彼女は覚えていない。失われた一時間の出来事なのか、天狗にさらわれた時間の出来事なのか、ティエンと過ごした一夜の出来事だったのか。いずれも彼女には記憶がなかった。
妊娠発覚後、ティエンが彼女にプロポーズをして、ヨハンとの偽装結婚が終わることになったが、ランカは子供の認知をティエンにはさせなかった。彼女の子供は結局のところ、ヨハンの子供として生を受けた。その子供は白い肌を持ち、長い鼻と美しい青い目を持っていたからだ。それは白人の特徴だ。ティエンの血ではない。
子供の生誕を聞いても、ヨハンの反応は相変わらず冷淡だった。だが、一度だけ病院に来て、子供を抱いた。そのときの彼を見て、ランカは全てが終わったことを感じ取った。
自分は彼に愛されていたかもしれない。
彼は珍しく笑顔だった。身に覚えがない、と言いつつも、よく似てる、と言って照れた。子供を見つめるヨハンの眼は穏やかで、愛しさにあふれて見えた。その横顔は生前の父に少し似ている。赤子との血のつながりを感じさせるほどに。
ニューエイジ 二〇〇三年三月号 VOL3 通巻四〇号
「不思議の国JAPAN!」 発行所 グローバルサイエンス社
巻頭報告 「日本の有翼生物 天狗の生命設計図」三〇頁
「擬態とは、見かけ上の生存戦略の一つだ。背景に溶け込む、天敵を威嚇する、警告色をまとい有毒性を示す。これらの擬態の目的を進化論者は環境決定論の立場から説明してきた。しかし、その生命の存在理由を擬態から推定することは難しい。その生命はなぜ、進化の過程で擬態という技術を設計図に組み入れたのか。そこには何の必然性があったのか。ここでは、ペルルブランシュ・ニューラルジアという生物の紹介と共に、擬態という技術が見る者の意識から成り立っている可能性を考える。
日本の幻想生物の一つ、天狗は存在を確認されていない伝説上の生物だ。日本には各地に天狗と呼ばれる有翼人種の伝説が存在する。天狗が何物なのかを既存の生物学では説明できない。その生物はいまだ公式に発見を認められていないからだ。
二〇〇三年一月一三日、日本で開かれた国際類人猿ゲノム情報科学学会で、擬態する人型有翼生物の遺伝子を解析したという報告がなされた。ペルルブランシュ・ニューラルジアと名付けられたその新種の遺伝子は二四対四八個の染色体から成り立つとされ、学会ではそのうちの性染色体の配列が明らかにされた。




