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目が覚めた時、またやった、と思った。
ランカはホテルの一室で目を開いた。傍にティエンがいた。カーテンを閉めた部屋の中、やや透けている暗い光の中で彼は眼鏡をかけ、パソコンに文字を打ち込んでいた。徹夜をしたらしく、荒んだ雰囲気で、机の上には二本の缶ビールが転がっている。さらに、不機嫌になることに、灰皿にタバコの吸い殻があるようだった。部屋に流れている煙の匂いに顔をしかめる。
ランカはベッドの中で呻きながら声を絞り出した。
「あの……あたし、カメラはどうした?」
ティエンは手を休めることなく、無表情で答えた。
「あー……クヅノさんが持ってきてくれたから、その辺に置いてあると思うけど」
「昨日のこと、覚えてないんだよね」
「あー……酒が入っていたからね。いつものことじゃん? あのさ、黙っててくんない? 後で相手するから。今、ノッてんだよ。指だけが別の生物に、魅入られちゃった感じで」
「了解……シャワーを借ります……」
起き上がった時、軽い眩暈を感じた。と、同時に服を着ていないことにも気が付いたが、彼女は一度舌打ちしただけで起き上がる。すでに裸の付き合いも慣れている。互いに火が入ったら、身なりには気を使わない性質だ。それより、二日酔いの影響か、頭が割れるように痛い。
何を飲んだんだ、と思いながらシャワー室へ入った。そのとたん、汚物まみれになっている自分のシャツを発見する。トイレで吐いたらしい。苦労してそのシャツを脱がせ、ベッドに運び込んだティエンの苦労が忍ばれる。小さく彼に謝って奥に進む。
ユニットバスの中を通り過ぎ、浴槽に片足を入れた後、通り過ぎた鏡の中を覗き込んだ。見慣れた自分の顔のはずだが、違和感がある。それが何かわからないまま、首をかしげて浴槽にカーテンを引いた。
カランを回して、シャワーを出す。勢いよく飛び出してきた水に驚き「ひゃあっ!」と悲鳴を上げたが、ティエンはのんびりした声で「どーした?」と声をかけただけだった。数秒以内に水が緩んでお湯に変わっていく。
冷水のおかげで頭が目覚めた。彼女は再びカーテンを開き、ユニットバスに掲げられた鏡の中を覗き見た。
ペルルブランシュだった。鏡越しに白く発光する生物の顔が浮かんでいる。湯気にかすんでその姿はよく見えない。ランカはゆっくりと背後を振り返る。
白い湯気の中には何も見えなかった。六枚の羽の姿を思い出そうとしたが、うまくいかない。記憶はひどく曖昧で少年のようだと思ったその顔が思い出せなかった。
「何なんだ、あんたは……なぜ見えないんだ」
再び鏡を振り返り、片手で湯気をぬぐったが、姿も形も見えなくなっていた。ランカはため息をついて、浴槽の中に入る。
体に流れていくお湯の感触。
ほっとする温かさに浸って彼女はうっとりと目を閉じた。冷えた体の芯に熱が伝わる。凍えていた肉体が緩んでいく。体中の毛穴が開くような感触。お湯が体を包み込んでいく。体中に湯を回しかけているとき、急に胸が、どくん、と脈打った。ランカはゆっくりと瞳を開き、全身の神経を研ぎ澄ませる。
シャワーの音にまぎれて、異臭がした。彼女はシャワーヘッドから手を離し、シャワーカーテンを一息に開いた。
目の前に、びっくりした顔でティエンが立っている。彼はカーテンを開けようとして、手を挙げた姿のまま、止まっていた。流水音の中、ランカは素っ裸のまま、彼に対峙して口を開いた。
「何」
「いや……悲鳴が」
「水が出たから」
「あ、あっそ」
ティエンは瞬きをして、急にせわしく眼鏡に手をかけた。湯気で曇ったガラスをふきながら、挙動不審だ。今更、彼に裸を見られたところで、恥ずかしさなんて覚えない。
彼だけは真っ赤な顔になって、よろめきながら外に出ていく。
シャンプーを泡立てて髪を洗い始めたら、扉越しにティエンの声がした。
「なあ……ランカ! 昨日さ、あの、元旦那から電話が入ってたみたいだけど……お前、寝てたから。いやっ、俺は勝手に出てないけど……連絡、した方がいいんじゃねーの?」
髪を洗いながら「わかった」と答える。
耳の後ろを洗っていたら、再び彼の声がした。
「日本の女ってさあ! ぬ……脱ぐの早くねえ? っていうか、子供じゃないんだからさ、無邪気すぎだろ。なあ、何それ、前から思っていたんだけど、誘ってる、て、こと」
「脱いだら何よ。前から脱いでるじゃない。前からずっと何もないじゃない」
「いやっ……だ、だから、いってもいいのかなーとか、ちょっと」
「いかなくていいよ。あたしはまだ離婚調停中だから」
「え……あ、いや、そうだと思ったけど、なんつーの、ほら、確認作業? 俺って、ほら、ジャーナリストだから、確認しながら、さ。ほら、事実確認って奴で」
髪を洗い終えたら、頭からシャワーに突っ込んで両手で泡を掻き落とすようにして洗い流した。水の中に入ったら、大気中の音が掻き消える。母の胎内にいるような気分になり、温かい湯気の中、瞳を閉じる。
耳の後ろに流れていく水の感触が優しい。
ティエンの少し苛立っていそうな声が、低く響いてくる。扉の向こうに彼はまだいるようだった。いらいらした様子で何かを叫んでいるが、よく聞き取れない。水の音にまぎれて、彼の音だけが体内に入ってくる。
その声の低さは好きだった。聞き慣れた低音。もう少しゆったりと話してくれればいいのに、と思いながら、彼の声を聴いていた。心臓の音が体内から聞こえてくるような声。
ヨハンと似ている。
彼の声に似ている。
彼との間には、もう未来はない。二人の関係は終わっている。いや、始まりすらなかった。ランカは片手を伸ばして、お湯を止める。ティエンの愚痴っぽい言葉が急によく聞こえるようになった。
「日本人ってさあ! ドイツが好きなの? 何で? ドイツ人と日本人ってそんなに似てるか? ああ、いいよ、わかってるよ、中国人と比べたら、時間に正確だよな。仕事は真面目だよな。神経細かいよな。職人気質っぽいよな。ドイツ人と日本人は気が合うかもな。だって、戦争でも同盟国だったもんな。そうだよね。日本人は中国人は嫌いだよね。どうせ、中国人とは恋愛なんてできないって思ってるんだろ!」
「……何の話よ」
ランカは呆れた顔で手を止めた。体を洗い続ける気がなくなったので、バスタオルに手を伸ばして髪をふき始めた。扉の向こうで、ティエンはぐずぐずした調子で甘えた声を出し始めた。
「日本にいると……俺たちは嫌われてるような気がする」
「気のせいよ。あんたはタクシーの運転手ともよく話してたでしょ」
「だけど、中国から来たでしょ、と言われるとドキッとする。なあ……日本人は中国人が嫌いだろ? 俺は京都を一人で歩くと襲われそうで怖くなるんだ。怖いと感じる自分が悲しい。ここは世界でも治安が良くて豊かで平和な国だって聞いているのに、俺たちにとってはそうじゃない。俺たちだけが世界が認める日本の良さを味わえない。近くにいる国なのに、一緒に発展してきた国なのに、日本人は俺たちだけを憎んでるような気がして」
「はあ……誰も嫌ってないってば。いや、あなた、アメリカ人じゃない。どうして、日本に来ると自分を中国人だと言い張るようになるわけ?」
ランカは呆れた声でそう答えた。ティエンにナショナリズムを語らせると長くなる。日本とか中国とか、戦争責任とか、領土問題とか、歴史認識、文明開化、侵略戦争、日清戦争、植民地支配……彼との付き合いでは地雷を踏む単語がたくさんある。
ティエンは小さな声で「だって、俺は華僑だもん」と答えた。
同じ人間が昨日、人類史を語っていたのに。人類は一つになったと話をしていたのに。
バスタオルを体に巻いて、扉に手をかけた。ティエンの存在を扉越しに感じる。少し押したら、体重が移動した。重かった扉が外側から開かれる。
外に出るとティエンが「また誘ってる」と呟いた。ランカは「誘ってない」と言いながら、腕を組んで彼を睨む。直後、彼は「じゃあ、俺のこと嫌いなんだ」とすねた。
彼は恋愛に関しては、子供のような駆け引きをしてくる。ランカはため息をついて聞き流した。中国人だから付き合わないわけではない。ティエンのこういう性質がランカには受け入れがたいときがあるのだ。タバコも吸い続けているし、一緒にいてイライラする時がある。それは人種とは関係なく、彼個人の特性で、だ。
いつもなら、ランカが聞き流して話は終わりだった。