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「あ、博士ですか? ティエンです。今、ランカを拾って、祇園に向かっているんですけど……博士はどこにいるんですか? 迎えに行きますよ」
相手はクヅノ博士だったようだ。ランカは再び軽い眩暈を感じつつ、彼らの会話を聞く。クヅノ博士が電話の向こうで話しているのだろうか。彼は無事なのか。
ティエンはランカの腕を叩いて、メモを出すようにジェスチャーを始めた。ランカはため息をつきながら、紙とペンを用意する。信号が青に変わって、運転手が「もう切るで、後でかける」と叫ぶように言って電話を切った。相手は親しい誰かだったようだ。
タクシーが動き始めた。
ティエンが大きな声で博士の言葉を繰り返す。
「てっしー、つんけ? てん……てん……し、おっけ……ん? つっけ?」
彼の言葉を書き取っていたランカはイライラしながら電話機を取り上げた。日本語の聞き取りなら、ティエンよりは自信がある。
「もしもし、クヅノ博士ですか? ランカです……今はどちらに?」
なぜ、彼とはぐれているのだろうか。一緒に引き上げ湯葉を食べに行ったはずだ。いつから、博士と別々の場所にいるのだろうか。ランカは電話の奥に集中して耳を澄ます。博士は外にいるようだ。歩いているようだ。彼の声が弾んで聞こえる。歩調は緩やかだ。言葉はゆったりしたイントネーションで揺らぎがある。
「ランカさん? えっとね、僕は今、たぶん、天使突抜にいるよ」
「えっ……あ、あの、もう一度言ってくれますか。て、てんし?」
思わず聞き返したランカを見て、ティエンが隣で、ほらみたことか、と言わんばかりの勝ち誇った顔で腕を組むのが見えた。
運転手がハンドルを動かしながら「天使突抜ですか、何丁目やろか」と呟く。ティエンが彼の言葉を聞いて、ガイドブックで言葉を調べ始めた。日本語で「地名ですか」と聞くと、運転手が「はい、また南へ戻ることになりますけど」と答えた。
ティエンは信号を睨みながら、ガイドブックをもって運転席に身を乗り出す。運転手は信号が赤になると振り返り、地図から「天使突抜」という場所を見つけて教えた。ティエンは「あー」と言いながら、ランカに地図を見せる。
京都駅を北上して堀川五条へ向かい、清水寺に向かう松原通に入ると途中で南北に細長い道にあたる。東中筋通という名前のその筋道の周囲は別名「天使突抜」と呼ばれている。天使が通る道なのだろうか。一方通行の多い道だ。
「京都駅まで知人を迎えに行ったんですよ。これから合流しますか?」
博士の言葉に戸惑いつつ、ランカは声を絞り出した。
「え……あ、はい。では、迎えに行きます」
彼女は電話を切った後、険しい顔つきに変わった。これから合流する? さっきまで一緒にいたはずだ。この違和感は何だろうか。記憶のない一時間に何があったのか。
運転手が「で、何丁目ですか」と聞く。ティエンに促され、ランカは「聞き忘れた」と落ち込んだ顔で答えた。彼女は再び携帯電話を取り出してかけ直す。
「天使突抜は、五条天神社の境内を突き抜けて道を作らはったから、そう呼んでます。五条ならここからすぐです。その五条天神社は平安時代から、えーと、何年や、千年以上前からあるんですね。昔は「天使の宮」いうてました。実は源義経と弁慶が出会った場所やと言われていますんや。その天神から東へ行くと昔は五条大橋があってね。今は別の名前になってしもうたんやけど」
運転手は橋の傍の交差点が青になると方向指示器をつけた。京都市街を通って京都駅のある南へ戻る。運転手は優しい声で楽しげに語っていたが、二人には日本の音の意味がわからない。音を聞いて理解できるのは、ヨシツネとテンシだけだ。ティエンがうれしそうな顔で「日本にエンジェルがいる」と笑っていた。
その天神社で待ち合わせをする。既に時刻は二十二時に近い。
タクシーを降りた時、ランカはふっと記憶が蘇り、落ち着かない気分になった。二十二時までに戻るように、誰かに言われていたはずだ。
「どうしてそんなことを言われたんだろう。夜遊びが過ぎるってこと? 誰に言われたっけ。マイキーかな? サンフランシスコは今は何時だろう?」
「今はマイキーの昼寝の時間じゃないか?」
彼女の独り言にそっけなく答えて、ティエンは車外に出ていく。ランカは自分のカメラバックを肩に担ぎ直して、彼の後を追いかけた。クヅノ博士の傍に数人の白人がいた。
彼らの前に立った時、ランカは息が止まった。
クヅノ博士はティエンに話しかけていた。
「フランスから来た生物学者で、ニコル・クルスベリーさんです。航空機が遅れていたそうで、今着いたらしいんですけど、彼は今回報告した遺伝子解析の共同研究者です。例の生物の遺伝子配列を見て日本由来ではないか、と相談を受けまして。僕たちの研究所で日本に存在する固有種の遺伝子と比較検討することになりました」
ティエンは顔色を変えることなく「こんにちは」と挨拶していたが、その目は爛々と輝きを増していた。ブラジルで出会った研究者だからだ。ニコルについては、ティエンの方がクヅノ博士よりも知っているだろう。だが、知らん顔で「初めまして」と彼は続けた。
その後、ティエンはランカを振り返って合図を送ったが、ランカは別の意味で青ざめていた。ニコルの周囲にいる男たちはランカの正体を理解しているようだった。ひそひそと囁き合って、ニコルの指示を待っている。天使の写真を盗み撮りしたカメラマンだからだ。ブラジルでホテルまで追ってきた男たちがいた。
だが、ランカが青ざめている理由は、彼らに「記憶」がないと感じたからだった。ランカと一緒に湯葉や田楽を食べた記憶が、彼らにはなかった。初めて対面した時の敵対心に近い感情を感じ取る……一人を除いて。
ニコルがランカに手を伸ばして話を始めた。
「初めまして、ランカさん」
ランカはしばらく迷った後、彼に手を伸ばした。初めまして、と言う前に、彼に手を強く握られる。その時、体の奥で「どくん」と何かが脈打つような感触を得た。
ニコルはそれ以上何も言わずにランカの眼を覗きこんでいた。
かすかに光る黄金の眼で。
ニコルだけは覚えているのではないか。彼もまた、自分と同じ能力者だったから。
「ペルルブランシュはどこへ行ったんですか」
ランカがそう聞くと、ニコルはかすかに笑って手を離した。彼は博士を一度見てから、答える。
「あなたはどこでその名前を聞きました?」
「酒のつまみと一緒に聞いたわ。あなた、酒は強くないのよね?」
ランカが笑みを浮かべる。ニコルは博士を見ながら「日本の酒は美味しかったです」と言う。博士の反応を待って、二人は沈黙する。
博士はしばらく考えてから、笑顔になった。クヅノ博士はニコルに話しかける。
「でしたら、これから日本酒の飲める場所へ行きましょうか。京都の夜を楽しみましょう。行きつけの座敷がありますので、案内しますよ」
彼はティエンに「先斗町に行きたいと言っていたでしょう」と笑いかける。ティエンは喜んで笑顔になったが、ランカはその言葉で確信した。博士には、ニコルと一緒に食事をしたという記憶がない。
博士を見つめるニコルの横顔を見たとき、彼の思考を感じ取れたような気がした。彼には、微かにその記憶があるはずだ。ランカに見つめられていると気が付き、ニコルはそっと口元をゆがませて笑った。その表情には戸惑いと悔しさがにじんでいるように見えた。
ティエンが「タクシーを待たせてますので」と言いながら、案内を始めた。
彼らが歩き始めた時、ニコラが傍を通り過ぎながら囁いた。
「やられたようだ……私には何がどうなったのかわからない」
ランカは彼に答えた。
「タイムラインを交流させた、と言われたような気がする。私たちは別次元へ飛ばされたのよ。ペルルブランシュのいない世界……いえ、博士がペルルブランシュを認知できていない世界へ」
「つまり、悪魔どもにやられたということか」
「悪魔なんていないよ。やったのは人間の科学力かも」
ニコルは軽く首を振って「だから悪魔なのだ」と独り言を漏らした。人は手を出してはならない神の領域に踏み込んでいるのだろうか。