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二〇〇二年一一月 ブラジル ブラジリア
シャワーの狭間に途切れ途切れに聞こえてくる、女の囁き。
「例の天使を撮ったけど、厄介な奴さんにつけられてね……まいてきたと思ったんだけどな……そうなの……悪いね」
首都ブラジリアにあるホテルの一室で、脱ぎ散らされた女の衣服が浴室へ続いていた。室内に電灯はついていない。屋外は熱帯雨でひどい騒音だ。つけたばかりのエアーコンディションが苦しそうな音を立てて稼働する。部屋の中はまだ生ぬるい。
部屋の大きさは一辺がおよそ五メートル前後、奥行きは八メートル程度の細長い場所だ。テレビがニュース番組を映して音声が消えている。青白く点滅する画面に照らされ、ベッドの上に泥だらけのまま寝転がったような跡が浮かび上がる。
出入り口に近い場所に浴室がある。扉は閉まっていた。中からほのかな赤みの強い明かりが漏れている。中を開ければ木枠にはめられたすりガラス越しに女の姿がぼんやりと見える。人影の大きさは百七十前後だろうか。
シャワー室の中で誰かに電話をしているようだ。
女はフォトグラファーだ。浴室のそばにある便座に立て掛けるようにしてカメラバックが置かれてある。居室の中にある冷蔵庫には、まだ使っていないフィルムが入っているようだ。食べるものはない。彼女はこの部屋で食事はしていない。
「今いる場所? ホテルにいるかって? この音声は録音用よ」
シャワー室から流れてきたその声を聞いて、彼女のあとをつけてきた男たちが、あわてて屋内の物色を止めて浴室へ向かった。その数は五人。
男の一人が桃色に染まった電灯の下に入り、浴室の扉に手をかける。彼の眼は片目だけ、黄金に光っている。闇の中で不気味に光る瞳だ。メタリックゴールドに見える理由はよくわからない。普通の人間にはない瞳の色だ。
女のハミングが聞こえてきた。数秒後、勢いよく開かれた扉の奥には、ポールにつりかけられたバスタオルから、しずくがしたたり落ちているのが見えた。女はいない。
「フイ、エンガナード!」
誰かがそんなうめき声を上げる。現地の言葉で「だまされた」という意味だ。黄金色の眼をした男が、バスタオルを片手で払いのけ、ポールから落とした。浴槽の中は誰もいない。流れ落ちるシャワーの音だけが虚空に響く。
「まだ遠くへ行っていない。手配しろ」
浴室に入った男が冷静な声で、男たちに告げた。その命令を聞いて、二人がすぐに外へ飛び出した。部屋の中から「フィルムがない!」と叫ぶ声がした。
男は浴室から出て、仲間のそばへ行く。
カメラバックの中を漁っていた男がいらだたしげにバックを床にたたきつける。そのバックの中からICレコーダーが出てきた。彼はそばに来た男に話しかけた。
「どうする、ニコル」
ニコルと呼ばれたゴールドアイの男は、ICレコーダーを手にとり、電源を消してから声を出した。
「女の名前は偽名だろう。手馴れている……ただのジャーナリストではないだろう」
「ホテルに登録してある名前は偽名なのか。出身国も?」
「人種は誤魔化せないだろう……彼女は日本人だ。おそらくな」
部屋を出ていきながら「二世かもしれないが」と続ける。ニコルのあとを追いかけて、男たちは部屋を出て行った。彼女の国籍は日本ではなく、別の国かもしれない。だが、ニコルは「日本大使館に問いあわせろ」と冷静な声で命じていた。
その場所から六メートルほど離れた場所に、彼女がいた。
髪も肌も色が薄く純粋な血統ではないことがわかる。虹彩の色も少し灰色がかっているため、光の加減で青く見える時がある。しかし顔つきは日本人らしい童顔だ。十代後半に見えるが、その目つきと肉感的な唇は色っぽい。全身が筋肉で覆われ、引き締まっている。どちらかというと女性というよりは少年兵のように見える。無駄な脂肪があまりない。性分化する前の中性的な雰囲気を持っている。
くせのないストレートの髪は肩までの長さで揃えられ、今は少し濡れていた。部屋の奥からは水の流れる音がする。頭から白いバスタオルをかぶり全裸のまま、ノートパソコンに文字を打ち込んでいる。メールの送付先はアメリカ合衆国だ。
廊下を通り過ぎる男たちの声を盗聴器で聞く。チューブ式の流動食をバックパックからとり出して、口に放り込み、ずずず、と吸い込む。青白く光り輝く画面を見て、指は休むことなく動いている。部屋の中は乱れたベッドに二人分の衣類があちらこちらに散らばっている。シャワー室から男の声が聞こえてきた。
「ランカ! 飯はどうする?」
ランカと呼ばれた女はチューブをくわえたまま、器用に舌打ちして「名前を呼ぶな」とうめいた。男の問いに答えることなく文章をつづって、送信ボタンを押した。
続いて、画面を消し、航空券の予約画面に今日の日付を打ち込んだ。航空機でアメリカへ行くつもりらしい。デルタ航空を利用してアトランタ経由でサンフランシスコへ。彼女は一瞬、手を止めて、部屋の時計を探したあと、すぐに自分の腕を見て、時間を知る。今の時刻は十九時二十二分だ。
シャワーの音が止まって、扉の開く音がした。
ランカは航空券の予約を終えると画面をすべて消して、ノートパソコンを閉じた。素っ裸のまま、彼女は立ち上がり、自分の荷物を手に持った。頭からタオルをとり払い、出口へ向かう。
浴室から出てきた男は彼女より少しだけ背が高い。裸で通り過ぎる彼女を見て、突然顔をそらし咳を始めた。挙動不審になった彼に、ランカはそっけなく「置いていくよ」といい、外に出る扉を開ける。男はあわてて部屋に置いてあった自分のバックパックを肩に担ぐ。バスタオルを腰に巻いたまま外に飛び出し、彼女のあとを追った。
「ファティマの予言を信じるやつがいるなら、天の使いと聖母を守るやつもいるんだろうね。その存在を世界へ知らしめたいと思いつつも、リアルに正体を暴くような写真を撮られるとまずいってわけだ」
男はタクシーの中でシャツを羽織りながらそういった。
彼女は既に下着をつけずにワンピースを着て、サングラスをかけていた。それまでの野戦じみた軍人っぽい武骨なイメージを払拭し、可憐な美女になってしまう。スカートの下からは形よく引き締まった美脚と足首が健康的に見えた。そんな女を車に乗せて鼻の下を伸ばしていたら、バスタオルを巻いた男が割り込んできて「空港へ!」と怒鳴られたわけだ。運転手の驚きはいかなるものか。
一九一七年五月一三日ポルトガルにある小さな村ファティマに聖母が出現した。聖母の出現は中世より現代まで世界各地で起きている。だが、そのほとんどは教皇庁の公認を受けていない。ファティマで起きた聖母出現は珍しくバチカンがその奇跡を認定したものの一つだ。聖母出現の二年ほど前から「平和の天使」という存在が目撃されていたという。他の聖母出現事件とは異なり、この聖母は世界に三つの予言を残したことで知られる。
第一の予言は第一次世界大戦の終結と続く第二次世界大戦の勃発を予見したもの。第二の予言は米ソの冷戦と核兵器開発から世界が危機に瀕することが論じられている。
二〇〇〇年に公開された第三の予言は「教皇の暗殺」を予言したものだったとバチカンは表明している。一九六〇年までは明らかにしてはいけない、と聖母がルシアに命じたにしては矮小な内容だ。その予言の真偽は不明だが、キリスト教会の信者たちは世紀末に天使が各地で出現しはじめたというニュースを恐怖と畏敬の感情で迎えている。
各地で頻発する天使出現と聖母マリア像の異変。その異変の背後にある神からのメッセージを何とかして読みとろうとするものがいる。またそれに乗じて、偽物の情報で人々を恐怖に陥れる輩も。今回の取材対象は、神がつかわした本物の使者なのか、偽物なのか。
ランカはコンパクトを見ながら口紅をつけ、男に答えた。
「誰だって、開発途中の新製品情報を勝手に社外に持ち出されるのは嫌がる」
「天使の開発? はははっ」
上半身にシャツを羽織ると、男は狭い車内で下着を身につけ始めた。ランカとともに鏡の中で運転手が顔をそむけて、暑苦しい、といわんばかりの顔になる。彼の細身の足が宙を泳ぐ。バスタオルがめくれあがって、中が見えそうになると運転手が大きな咳をしてバックミラーの位置をずらした。ランカは運転手と目があい、口端を少し上げる。
(未推敲、校正:12まで)