3
「お櫃におかわりのご飯が入っています。少し後に、お茶をもってきますので、その時にでもおかわりを申し付けはったら、私がよそいますけど、ご自分でよそいたかったらそれも構いません。お好きなだけ召し上がってください。お櫃のおかわりもお気軽にどうぞ」
女将が再び頭をさげたら、電話が切れた。女将がびっくりした顔で「あら、切れてしまいましたか。私が話しすぎでしたやろか。出てもろて構いませんでしたのに」と話しかけてきた。ランカは片手を振って「大丈夫、です」と日本語で応える。ニコルは少しほっとした顔で食事に手を伸ばした。
もう一度両手を床につけ、丁寧に頭を下げた後、女将は部屋を出て行った。
ランカは手の中にある携帯電話を見つめ、メッセージが入っていることに気が付いた。彼女は片手で操作しながら口を開いた。
「メールが入ってる」
「ティエンさんから?」
クヅノ博士がそう言いながら、茶碗を手に取った。彼が箸でご飯をすくおうとしたとき、ニコルが「開くなっ!」と叫んだ。
親指でボタンを押した後で、ランカは彼を振り仰ぐ。
鼓動が鳴る。
どくん。
ニコルの左目が黄金に輝くのが見えた。太陽のように強い光。彼の背後に大きな炎が入り込んだ。空間を赤く染める鮮血のような深い色合いが視界を覆い、その狭間を縫うようにして、白い神経線維が部屋中に生えていく。ニコルの体内から飛び出したようなその繊維は空間という空間に張り巡らされ、四角い部屋に丸い繭玉を作ろうとしていた。木造住宅の天井部から赤い影がしずくのようにしたたり落ちる。
その幻影が意味するものは何か。この空間に増殖しようとする意思を感じ取った。何物かの肉体が犠牲となり、血液から守るようにして九角博士が繭の中に取り込まれる。彼にまとわりつく無数の神経線維は執着を語る。彼を愛しているのだろう。いや、ペルルブランシュは彼を逃がしたくないのだ。彼と一つになりたいのだ。
無数の繊維が絡み合うようにしてぶつかる。
背後にいた発光体が博士の体に覆いかぶさり、悲鳴を上げた。引き裂かれるような切ない哀しみの声を聴き、ランカの胸が刃物で開かれたような気がした。自分の体内から流れ出る血の幻影。部屋は無限の血の海と共に、脈動が始まる。
どくん どくん どくん
その精神波の振動でニコルと共にランカは顔をゆがませて、床に崩れ落ちた。血の中にその鼓動が伝わる。揺れる水の中、彼女は埋もれていく。頭上で白い繭は光を発し、強く輝きを増していく。
その卵は生きている。
頭の背部で鳴り響く音の騒々しさと、重力が吹き飛ぶような衝撃で、眩暈がした。上下の感覚が消え、床が激しく揺れているように感じられた。ニコルの背後にいた男たちが、倒れた彼の体を守るようにして抱えたのが見えたが、ランカもその後、前後の記憶が消えてしまった。血液の中にもぐりこみ、温かい母の胎内にいたころの記憶を思い出す。
母は泣いている。
生命を送り出す悲しみに泣いている。一人ぼっちになってしまうことを恐れていた。一つの生命が二つに別れていくことを知っている。いつまでもこの中にいればよいのに、と彼女は考えていた。このまま私の中に溶け合って消えてしまえばよいのに。
その愛情の深さに飲み込まれる恐怖から、ランカは「生まれたい」と願い、彼女の束縛から逃げたことを思い出した。
長い月日を彼女と共に過ごし、最後の瞬間に彼女に強く抱きしめられて陣痛を起こした。外へ向かう意識。長い闇を体験した。待ち望んだ外の光を浴びた時、執着を手放して世界へ運んでくれた母に感謝した。その記憶が血の香りと共によみがえる。