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ランカは田楽を口に入れて、時計を振り返る。部屋に置時計はない。そっと自分の腕を振り返って、時刻を確認する。現在の時刻は午後八時十九分。
この店に入ってから二時間以上が経過していた。
「人体を制御しているのは、神経という名のパルスです。この肉を動かし、この肉から世界を知覚し、この肉に指令を与える神の座の名前が、神経、なんです。そう言えば、理解できますか? 神はシグナルによって我らの肉体と交流しています」
ニコルは陶器でできたピッチャーを下して、博士に話しかける。博士は少し緊張した顔で「随意性の神経線維の話でいいんですね」と確認する。ニコルは優しい笑みを浮かべて、彼に話しかける。
「私たちは自分の意志でこの肉体を動かしていると思っている。だが、神経から送られてくるパルスは自分が産んだものではなく、神の意志によるものだと考えてみてください。私たちが『自我』だと思っているものが神そのもの……我々は、神に捧げられた肉体に過ぎないのです。神の意志を受け入れるに足る肉体を作り終えた我らは、次の時代に天使に狩られる存在となりました……ミレニアムを過ぎて、世界中に天使が現れているのはそのためです。彼らは世界各地で我らを」
狩っているのです。
それと知らぬ間に、我らは神に搾取される存在となった。神を受け入れる肉体となるまでに、人類は数万年の年月を要した。度重なる天変地異と悪魔との戦いに妨げられ、神の計画は頓挫してきた……ニコルはそう告げる。
再び、神と悪魔の戦いが迫っているという。
それは二〇一〇年七月から二〇一三年一二月末まで続けられる光と影の戦いだ。今度こそ、神は人間の肉体を完全に奪う、という。
「神は宣戦のしるしを天に掲げます……世界中でその異変を見ることになるでしょう。我らは、空に現れたその異変とともに神と悪魔の戦いに身を投じることとなります」
「世紀末思想ですか」
クヅノ博士は重々しい口調で話に入った。彼が反論するために口を開いたが、遮るようにしてニコルは続ける。
「日本でもノストラダムスの予言が流行りましたけれども、結局一九九九年に世界は」
「日本はその運命から逃れることはできません。神々の戦いにおいて、先鋒を担うことになるでしょう。天の印は中国と日本に双子の使命を与えています。二〇一〇年と二〇一二年には両国に天の印を見るでしょう……天の運行は既に計算されています。あなたはこの国で日食を見ることになります。長く、この国を支配してきた光の存在が姿を消すのです」
今から七年後に世界大戦でも起きるというのだろうか。博士はニコルの言葉に閉口してしまった。彼は困った顔で酒を口に入れていた。
ランカは苦笑いして口を挟んだ。
「オカルティズムならうちの雑誌編集者が喜びそうだね。二〇一二年には、人の歴史が終わって神の暦が始まるらしいね。マヤのカレンダーが二〇一二年一二月末で終わっているから。だからといって、十年後の今日、人間の存在が急に消えているとは思えないけど」
「我々の肉体は消滅しない。ただ、この中に神が入るだけだ……言い方を変えよう。ペルルブランシュのような寄生者が、使える人間を選んで、取り入るために近づいている。クヅノ博士はその精神波に応えてしまった……あれは波長を変えて、高次元に入り込むことができる……我々はそれを元来『アストラル体』と呼び、光の存在を星と例えて共生したのです」
博士は片手をあげて振った後、突然、大笑いした。
「日本ではそういう現象を『憑依』とか『狐憑き』と呼んだかもしれません。けれどね、クルスベリーさん、僕は確実に彼の口腔内からサンプルを採取したんです! 我々と同じ遺伝子を持つ生物だったんだ。デオキシリボ核酸を作用させて、生命活動を行う有機体の一つで、リン酸とアミノ基でタンパク質を作っている地球の生命体の一つに過ぎない!」
ニコラは彼に答えた。
「あなたはなぜ、神が生物ではないと思っているんですか。彼らが地球上に存在してきた生命ではないとなぜ考えているんですか。我々はオカルトを話しているのではなく、神と呼ばれる生命体が我々の肉を必要としている現実を伝えているんです!」
「非科学的だ。なぜ、神が……いや、彼がなぜ僕の肉体を欲しがる」
「その質問はなぜ我らが体内にミトコンドリアをもっているかを答えるところから考えるべきではありませんか? 人間の肉体に寄生している数百種類の常在菌の存在を考えてみるべきではありませんか? 進化の過程で我々はそれを受け入れたんです」
何が私という存在を作っているのか。
私という確たる物体がこの世にあるわけではない。この肉体ですら。血液は八日で再生し、破壊され、廃棄される。皮膚は二十八日で入れ替わる。脳脊髄液は毎日五〇〇MLの量が生まれては吸収され、体外へ出ていく。骨は八年で入れ替わり、体の細胞は百二十日ですべてが入れ替わる。男性の精巣の中では日々数億個の精子が作られて、死滅している。
何が私なのか。
すべての物質が入れ替わっているこの肉体に、私であることを示す生命体の意識がこの世に存在し続けているのは、なぜなのか。
私という集合体は何ものなのか。この中に「神」という遺伝子が新たに一つ入ったところで、私が私でなくなることはないだろう。この肉体の中に、神経線維を伝って入り込む意思が増えるだけだ。
あの生物は、現実に存在していないのかもしれない。
ただ、意思をもって、肉体の視覚野を支配し、そこに自分と同じ生命体を出現させているように見せているだけなのかもしれない。彼らはすでに人の体内に入り込み、異なる思考を宿主に植え付けているだけなのかもしれない。
博士は苦しそうな顔で呟いた。
「僕が自分の手で遺伝子を解析した……その記憶は、幻なのか。証拠がある。あのデータは何だというんだ! 視覚野を操られ、僕がただのチンパンジーの遺伝子を解析したと言いたいのか!」
ニコルは冷静な口調で「データを検証しなくてはわかりません」と答える。博士は悩ましい顔で深いため息をつき、杯から手を離してしまった。
沈黙の中、廊下を通る物音が聞こえた。
扉の向こうから女将の声が聞こえてくる。
「失礼します。香の物はいつごろお出ししましょうか」
博士が表情を緩めてニコルを見た。ニコルは背後にいた部下たちに小声で確認する。日本語を話す男が「そろそろ持ってきてください」と女将に答えた。
扉をあけて、女将が出ていく気配がした。そのとき、廊下からひやりと冷えた空気が流れ込んだ。ランカは雪を吹き飛ばした強い風を思い出す。あの時、あの生物は現実の中で風を生んだ。匂いを覚えている……それもまたランカの脳内で起きた現象だというのか。
彼女は口を開いた。
「天狗はこの世に存在する。あたしは彼らの風を体験した。複数の人間が同時に幻覚、いや、幻の風に触れたというの? ならば、それは複数の人間に与えた精神波のせいだろう。その精神波を生み出すのは、何? 誰の体内にいる生命体がそんな幻を生み出す? 現実に見えない存在が宙にいるのを、あたしは感じた……その正体をあたしが撮る」
脳を何者かに侵蝕されて見せられている幻覚ならば、写真に撮ろうと思っても撮れないはずだ。だが、もし、何かがフィルムに映るなら、それは幻覚なんかではない。
その姿を暴いてやる。
ランカは瞳を輝かせてニコルを正面から見つめる。
黄金色に輝く瞳を寂しそうに潤ませて、彼は首を振った。
「我々はあなたの写真の出来に興味はない。我らが恐れているのは、あなたの写真が世に出ることではなく、博士の情報が流れ、彼の身柄を奪われることだ。それも、神ではなく、悪魔に奪われること……彼らはすでに動いている。奴らはここに来るだろう。そして、あなたの身柄を拘束するに違いないのです」
ニコルは再び博士を見つめて、身を乗り出した。博士はぼんやりした顔つきで彼の言葉を聞いている。ランカは不意に頭の後ろに強い痛みを感じた。
ニコルは言う。
「クヅノ博士……我々はあなたの身を守らなければなりません。ペルルブランシュのような他者の精神を操る能力を、彼らは戦争に用いようとしているのです。それは宗教上の戦争ではありません。現実の戦闘行為に『リモートヴューイング』を用いようとしている……さらに敵の兵士を操り、戦局を有利に進めるための研究を」
それを行っているのは、アメリカ合衆国だ。