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だからこそ、データの話をしたい、と彼は続けた。クヅノ博士は再び彼に酒を勧める。ニコルは迷っていたようだが、杯をあけた。酒を注がれてから「私はそれほど強くないのですよ」と照れくさそうに続けた。博士は「これは形です」と答える。ニコルはその意味がわからないようだったが、博士はそれ以上の説明をしなかった。
ランカは二人の傍で、黙ったまま食事を続けていた。
本能的に、ニコルが嘘をついていることはわかっていた。だが、彼の言葉には力がある。子供のころに迫害されたのは本当のことだろう。その目の色のせいで、苦しんだのだろう。苦しんできたからこそ、迫害から彼らを強く守ろうとするのかもしれなかった。
人間は種族内に多様性を認めない生物かもしれない。
大多数と異なるものを「神の使者」と称して受け入れないと、集団を維持できなかったのだろう。過去に存在した人類は、今よりももっと多様性に富んだ造詣をしていたかもしれない。背中から羽が生えたり、頭から角が出たりして。
だが、彼らは駆逐されてきた。
人間という形は、今ではもうどの国に行っても、画一的に統一されるようになった。肌の色や髪の色、目の色でさえ、将来は一つになっていくのかもしれない。ナチスのような存在が出てこなくても、人類は自分とは異なる存在を排除して、浄化を行ってきたのだ。
すでに我々は一つだ。
ホモ・サピエンスという種族一つに統一された。他に人類はいない。おそらく。
「彼らは報告した通り、二四対四八個の染色体だ。性染色体の分類では男性に近い分類になるだろう。だが、通常のY染色体に比べ、長さが二倍以上ある。性染色体の遺伝子配列のみ解読を終えた。それはチンパンジーとは明らかに異なる生物だ……新種だと考えられる」
クヅノ博士がてんぷらを箸でつまみながら、話し始めた。ニコルも再び箸を手にして、食事を再開する。彼は最初だけ箸の置き場所に迷ったようで、指の間に一本ずつ箸を置いていく。その後、きれいに箸を動かして、京野菜の揚げ物を口にする。
クヅノ博士はランカを振り返って、笑みを浮かべた。彼は口調を変えて声をかける。
「人間の染色体がいくつあるのか知っていますか?」
ランカは少し口端をあげて笑う。ティエンがここにいれば、彼は喜んで答えただろう。だが、彼女にはその情報はどうでもいいことだった。
科学的に証明されても、されなくても、そのものがあの時あの場所にいたことは確かなのだ。ランカにとって、存在があったという事実は自分の感性によって既に証明されている。後は、それを証拠として残すのみだ。
科学者はデータを残す。カメラマンは画を残す。それが「存在理由」だ。
ランカが答えなかったので、ニコルが引き受けて答えた。
「二三対四六個の染色体だと言われている。類人猿の中で二四対の染色体をもつのは、チンパンジーだ。チンパンジーの遺伝子配列はまだすべて解読されていない。あなたの仮説は覆る可能性がある。口腔内の細胞を剥離した場合、遺伝子情報も壊れていることが多い」
「絶対にチンパンジーとは違う顔なんだけどな」
「なぜ、その写真を公開しなかったんですか?」
「僕には撮れなかったからさ」
博士は穏やかな笑顔でそう答え、ランカを振り返った。ランカはこれからの撮影を思って、苦笑いした。確かにあれを撮るのは骨が折れる。だが、それを撮るのがプロというものだ。
ランカは酒を再び一気に煽ってから、二人に問いかけた。
「チンパンジーと人類が種として分岐したのは、六〇〇万年前だと聞きました。その生物もまた、そのぐらいの時期に分岐した、もう一つの人類ということになるんですか」
クヅノ博士が彼女の杯に酒を注ぎながら答えた。
「進化の話は今回の学会では質問が出なかったなあ。僕の予想としては『ペルルブランシュ・ニューラルジア』はチンパンジーとは別の系統樹で生き抜いた爬虫類だ。彼らは卵を生んで繁殖する」
「ペルル……なんですって?」
「ペルルブランシュ・ニューラルジア。僕が名づけた」
ニコルが日本酒を舐めながら微笑んだ。彼は独り言のように呟く。
「ペルルは真珠。ブランシュはフランス語で白……ニューラルジアは英語ですが、意味はわかりませんか?」
ランカは不満そうに「それぐらいはわかる」と呻いた。神経痛という意味だ。どうして、二つ以上の言語で命名しようとするのか。日本人なら、日本の学名を申請すればいいのに。
あの生物は見ようとすると、眩暈を感じる。それはランカのみの感覚ではなかったようだ。博士もまた、その生物を見るときに「神経痛」のような痛みを感じていたのだろう。
ランカは聞く。
「その生物はなぜ写真に撮れないぐらい擬態してるんですか」
ニコルがグラスを置いて、話に入ってきた。
「ペルルブランシュが現生人類に遭遇してから、その能力を身に着けたとは思えない。進化の速度が計算に合わない。爬虫類の全盛期は古生代から中生代にかけて。哺乳類と鳥類が出現するまでは、爬虫類が地球の覇者だった。だが、大型の捕食者が出てきて、擬態の能力を身に着けただろう」
クヅノ博士が身を乗り出してニコルに話しかけた。
「迫害したのは鳥類だったかもしれない。だから羽を持つようになった」
「鳥類の出現時期は中生代後期だ」
「その頃、爬虫類は生き残りの戦略をいくつか試していただろう。白亜紀も彼らは全盛を誇っていたが、実は脅威にもさらされていた。大きいだけで可動性の低い大型恐竜は卵生で、産みっぱなしだったんだ。その卵を狙う小型の捕食者たちに対しては無防備だった。哺乳類は恐竜の生存を左右する小型の悪魔だ。そして、最も怖いのは、鋭いくちばしと爪を持つ鳥類だ。どんなにかたい殻も破られてしまう」
「鳥類はその弱点を学んで、卵がかえるまで自分で抱えて守るようになった」
「哺乳類も卵の時期が最も危険だということを理解していた。だから、極力卵を外に出す時期を減らすよう進化をした……とにかく、生存競争が激化する中、ペルルブランシュは彼らに擬態することを学んだんだ」
白亜紀から存在するなら、なぜ、人は今までその存在に気が付かなかったのか。その生物が幻ではなく、物体があるなら、なぜ目で見えないのか。光の波長をどうやって操るようになったのか。人間以外の生物には見えているのか。ペルルブランシュは何から身を隠すつもりでその進化をしたのだろう。
ランカはナスのてんぷらを口に運びながら、二人の話を聞いた。肉厚の加茂茄子はからりと揚がっていた。衣の繊細な歯ごたえと柔らかい肉質に含まれた油の香りが甘く口内に広がる。
二人が進化の話をしている間に、女将がやってきてデンガクという料理を並べた。
三種類の色で作られた豆腐のような食べ物だ。串で豆腐を刺した後、味噌をかけて焼いたようだ。串をつかんでそのまま食べろと言われ、口に入れた。豆腐ではなかったらしい。草の匂いがする。団子を四角く伸ばしたような料理だろうか。
小さな板状の料理を見て、ニコルが少し戸惑いがちに左目をひっかくようにして隠す。自分の眼を見られたくないのだろう。女将は彼の隣に行って、田楽を提供している。彼の動きには気づいていないようで「おいしいどすえ」と笑顔だ。ニコルははにかんで笑いながら顔をそむけていた。
女将が出ていくと再び食の話題に戻った。
「触感は歯切れの悪いこんにゃくみたい」
「こんにゃくとは何だ」
「そういうイモがあるのよ」
「イモ? これがイモなのか」
ニコルとランカの会話を聞いて、クヅノ博士は「違う! これはグルテンだ!」と笑った。それに柚子や青海苔を混ぜて成形し、焼き上げたという。田楽という串料理は味噌を塗り付けて焼いたものをいう。魚に味噌を塗り付けたものも田楽というが、特に魚田と言うらしい。田楽という名の法師から名前がついた料理だという。日本の料理はどんなに小さな料理にも独特の名称と由来があって面白い。
ニコルは串料理を口に入れて少し笑顔になった。一口食べてから「かわいい料理だ」と褒める。彼は再び博士に話しかけた。
「ペルルブランシュは周囲の環境光を鏡のように反射して環境にとけ込む擬態能力をもつというのが、クヅノ博士の意見でしたね。世界に色彩が生まれたのは比較的新しい話だ。地球の歴史と比べると、という意味だが……波長の差異による乱反射を利用した生物は古生代には存在したと考えられている。鱗の形状から、生物の眼はこれらの偽色を判別していただろう」




