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京都の東には、音羽山という山がある。東山区にある清水寺の山号でもある。山号とは寺につけられる称号だ。比叡山に存在する延暦寺の山号は比叡山、鞍馬寺の山号は鞍馬山である。山の名前で寺を呼びならわすのは中国から伝来した風習だ。
清水寺に向かう参詣路に引き上げ湯葉で有名な店がある。引き上げ湯葉というのは、豆乳を煮立て、上面に浮かんだ薄皮を客が自分ですくって食べる料理らしい。日本人は面倒くさい食べ方をさせる。最初から皿に取り上げてくれればよいのに。箸でつつけば、水面にしわがよる。引き上げるのに神経を使わされる。
ランカはいらいらしながら、薄い皮膜を箸で持ち上げる。逐一、これをすくって食べなければならない理由がわからない。もっと、ガッツリ食べたいのだが。
「手間をかけるから、その間に満腹になるんです」
「それが日本人の精神性でしょうか。かねてから、貧乏性だと思っていました」
「確かに。引き上げ湯葉なら、豆乳がある間はいくらでも食べられますね。最後には豆腐になるし、無駄がない」
「やっぱり、貧乏性ですね」
ランカとクヅノはそんなことを言いながら、手を動かした。
ニコルは湯葉ができていくのをじっと見つめていた。見かねた女将が「引き上げましょうか」と声をかけ、手際よく彼の皿に丁寧に折りたたんだ湯葉を乗せていく。それは職人技だ。ニコルはようやく箸を手に持って、きれいにそれを口に入れてしまった。
そういう方法もあったようだ。ランカも女将に甘えて湯葉を上げてもらうことにした。
「引き上げもしんどいようでしたら、豆腐になるまで待ちやったらよろしいんです。すくって召し上がるための杓子もここにありますやろ。ただ、煮過ぎますとおまめさんの風味が落ちますから、早めに召し上がった方がよろしいですねえ」
丁寧に日本語で説明しながら、湯葉の引き上げ方を教えてくれるが、ニコルとランカは聞いているようで聞いていない。言葉をきちんと理解できるのはクヅノ博士だけだ。彼はにこにこ笑って頷いているが、それも聞いているようで聞いてないだろう。
煮過ぎた豆の風味の違いに気づけるほど繊細な舌と鼻を持つのだ、日本人は。
女将は一人一枚ずつ湯葉を作ったら、にこやかに退場してしまった。やはり、自分で引き上げて食え、ということらしい。
慣れない和式の座敷部屋で懐石料理を味わう。ニコルとクヅノ博士はすでに胡坐をかいている。ランカも結局のところ、正座ができなくて、男性並みに姿勢を崩して湯葉を口に入れていた。杓子ですくいとった方が湯葉は香りがいい。少し青臭く穏やかな豆の香りが温かく舌の上にのる。
博士はニコラに話しかけた。
「クルスベリーさん、日本にはどんな用件でいらしたんですか? 僕の講演を聞くためではないでしょう? もしかして、日本の幻想生物に興味がありますか。河童とか、人魚とか、天狗とか」
車内で続けていた話を再開した。
彼の名前は、ニコラ・クルスベリーだ。フランス出身の生物学者で、今はイタリアの研究所で遺伝子解析を行っている。彼の研究所には、世界中から新種と言われる生物の遺伝子解析が依頼される。バチカンが近いので、宗教がらみの依頼も多いそうだ。異種かけ合わせの天使の真偽を確かめる、とか。
その研究所はイタリア以外にも、世界中に「支店」がある。ランカが潜入して天使の画を撮ったのは、ブラジルにある「支店」のようだ。表向きの話だろう。ランカは知らん顔で彼の自己紹介を聞き流した。所属組織の名前は「人類科学総合研究所」だ。後で裏をとれる場所だろうか。彼の手からクヅノ博士にネームカードが渡るのを見た。所在地はイタリア。支所は世界に少なくとも三つあるはずだ。
ティエンがつかんだ情報では、彼らの所属組織はバチカンとは無関係な「奇跡査問委員会」なのだが。本部の所在地はイスラエル。世界中に支所があり、最大の潜伏先はアメリカ合衆国だ。宗教がらみの秘密結社で、なおかつ、政治的な圧力団体でもある。奇跡査問委員会に関与している議員の数は、少なく見積もっても十五人がいると知られている。
今回、彼はクヅノ博士の学会発表を聞いて、その詳しい遺伝子情報に興味を持ったそうだ。クヅノ博士に共同研究を申し入れたくて、部屋に誘いに行ったという。この懐石料理は日本流にいうところの、接待、という袖の下というわけだ。
フランス人流の接待を初めて体験したが、もてなされているというよりは、脅されているように感じているのは、ランカだけだろうか。ほぼ、拉致状態で有無を言わせずに連れ込まれた場所だ。
ニコラは器用に箸を使いながら食事をしていたが、一度手を止めて、それを丁寧に箸置きに戻した。屋内でもサングラスを外さない。彼は目が悪いふりをしているが、ランカはそれが嘘だということを既に知っている。
「単なる興味ではありません。これは使命です。幻想生物は世界にあふれています。キマイラ、ユニコーン、ケンタウルス、ウンディーネ、サラマンダー、ドラゴン、バシリスクス……それらがこの星に存在することの意味はなんですか。ヨーロッパではそれを天使と呼んだだけかもしれない。あなたの国ではそれを天狗と呼んでいる……幻想だと思いますか。なぜ、人間には幻想生物がいるという文化があるのでしょう。人の想像力に国境はありません。それは人間の運命ではありませんか? そのような生物がいると信じてしまうのが、人なのではありませんか?」
ニコラの言葉を聞いて、クヅノ博士が困った顔で微笑んだ。彼はしばらく言葉を考えていたが、少ししてから、ニコラのグラスに温かい日本酒を注いだ。ニコラはグラスに液体が注がれるのを見ていた。博士が注ぎ終わると「ありがとう」と小さく答える。
博士はようやく口を開いた。
「僕のデータは捏造ではありません」
彼は小型のピッチャーを机の上に戻す。陶器でできたその器に酒が入っている。
ランカも小さなグラスに入っている自分の酒に手を伸ばす。非常に小さい器だ。煽るようにして杯をあけると、喉に火のついた水が流れてきたように感じられた。
杯を下して息を吐き出す。芳しいアルコールの香りが鼻に抜ける。
博士が再びピッチャーから温かい酒をランカに注いでくれた。ランカは片手で杯を持ったまま、その酒を受ける。日本では、酒を注ぐとき、グラスを机の上には置かない。それがマナーだという。
彼は続けた。
「古来の幻想生物の存在を暴きたかったわけではないのです。科学的にその現象を理解したくて、遺伝子解析という手段を使ったんです。最初、彼に会ったときは幻だと思った。だけど、自分が狂っているのか、現実がそういう形なのかを理解するのが科学者の務めだと思ったのです。それで、彼に協力を仰ぎ、口の中の細胞を剥離して取り出しました。結果が出てくるまでは、僕が狂っているんだと思っていましたよ。部下に命じることもできず、全て自分の手で作業して取り出した数値です……だから、確信をもって言えます。あれは人間ではありません。そして、幻でもありません」
ニコルはゆっくりと酒に手を伸ばし、香りを嗅いでから杯に口をつけた。一口含んでから、舌の上で味わうようにして飲み込む。彼はその後、杯を机に戻し、片手でサングラスを外した。
人工照明の下では、わかりにくい。だが、彼の両目は色が異なることがわかるだろう。右目はさわやかなアイスブルーだ。下を向いているとき、左目は緑かかった茶色に見えるが、彼が前を向くと、その目は黄金の光を取り戻し、一瞬だけ鋭い光を放って見えた。
クヅノ博士は彼の眼を見てもあまり驚かなかった。
ニコルはサングラスをたたんで口を開く。
「人間ではない、と言われることが、その生物にとっていいのかどうか、私にはわかりません。人は奇跡と謳われるものを迫害してきました。私の目は、九歳の時に奇跡を見てから、このように変異しました。子供のころ、大天使様に会ったのです。神の光を得て、目の色が金に変わったのだろうと思います……しかし、そのことで、私は……一時的に苦しむことになりました。小さな村でしたから、信心深いものには恐れられ、現代の感覚を持つ者には嘘だと思われて……あなたの今の心情を理解できます。私はそれを疑ったりはしません。それが科学者のあるべき立場です。データが全てです」