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踊り場の上から、揺らいだ水のような大気が降ってくる。
虚空に鏡が浮かび上がった。そこに自分の姿を見た直後、ランカは「クモ!」と叫んで認識を自力でコントロールした。体側から八本の手を伸ばした人物像がゆがんで浮かび上がり、宙に光がはじけるように広がった。自分の姿だと思っていたものが、八本の手を持つ人物、いや、二本の腕と六枚の板羽を持つ人物像に代わる。
それは階段の踊り場で立ち止まり、ランカを見下ろしていた。
色の失せた世界。視界のチャンネルが切り替わった。周囲の色や形を同時に把握することができない。両目を使って立体視する時に、視野を動かしていくような眩暈に似た感覚を味わう。
目は通常では把握できない情報を処理している。ピントをどのように合わせたらいいのか、わからない。この物体を自分がどうやって認識できているのかがわからない。ランカは眉間に鈍痛を覚えつつ、カメラを両手で構えなおす。
それはここに存在し、穏やかな表情でランカを見下ろしていた。
それは、人だ。
銀色の鱗と白い羽毛を持つ、人だった。いや、それは正しいのか。色をきちんと認識できない。光を体感したから、銀と白を認識しただけかもしれない。
これは天使だろうか。
だが、手を耳から離したら、画像が掻き消えた。
「くそっ!」
ランカは数枚シャッターを切った後、頭痛を耐えて駆け上がった。
階段を上がって廊下に出たら、博士の部屋の前で歩いている複数の男たちを見つけた。そのうちの一人に見覚えがある。彼らもランカを一目見た後、顔色が一変した。
「ニコルッ! 女だっ!」
どこかで聞いたような声を聞き、ランカは再び階段を振り返った。タイミングが良すぎでしょ、と言いながら、手すりをつかみ、一飛びに階下へ飛び降りた。直後、脳内にスパークするように情報が浮かぶ。
――クヅノが危険だ。
ランカは舌打ちして、立ち止まる。迷っている間に彼らに追いつかれてしまった。とっさにカメラからデータチップを取り出し、傍にあった植木に差し込んだ。観葉植物を背にして、数人の男たちと睨みあう。
階段上部から男の声がした。サングラスをして、杖をついている男だ。
彼は盲目ではないだろう。だが、あの黄金の眼を隠して濃いサングラスを着けていた。
「どうして逃げるんだ?」
彼は冷静な口調でランカにそう聞いた。ランカは彼を見上げて「照れたのよ」と笑う。男は顔色を変えることなく「話がある」と言って、降りてきた。クヅノ博士もそのすぐ後で、男とともに降りてきた。博士は不思議そうな顔でランカと男たちを見つめる。
その背後に光が見えた。
それは守護神のように輝き、博士を守っている。
眉間の痛みは強くなる。博士の傍に行くと、彼の背後に鬼のような姿で炎を感じた。印象が変わっていた。しかし、同じ存在であることは感じられる。近づくと怒りに近い熱気を感じた。
ニコルと呼ばれた男に促され、二人はホテルから外に出るように言われた。エントランスに車を呼ぶ声が聞こえてきた。場所を変えて話をするらしい。博士は比較的大人しくその様子を眺めている。男たちの言語を聞き取って、ランカに「君の知り合い?」と聞く。
ランカが苦笑いしたら、廊下の奥からティエンの歓声が聞こえてきた。
「イエーイッ! ロンギスカマ・インシグニス!」
何の呪文か。
ニコルは携帯電話でどこかへ電話をかけていたが、通話を終えると、二人に「行きましょう」と声をかけた。ここで女らしく悲鳴の一つでもあげれば、あの男は駆け出してくるだろうか。一か八かやってみる価値はあるだろうか、と思いつつも、ランカの体はもう動いていた。彼らはどうして自分を追ってきたのか。
彼らが研究していた人と鳥類を掛け合わせた人造生物の写真はもう世界へ流出している。その違法な研究に対して、批判をした。ただ、組織の正確な情報を知らなかったので、情報の出所は伏せてある。そのせいで紛い物だと思われ、編集部が期待したほどの部数が売れなかったのである。それでも背中から羽の生えた赤子の映像は衝撃だった。報復される、だろうか。
外で待っていたハイヤーに乗り込み、ニコルが話した。
「ショージンという食べ物があるそうですね。肉を使わないゲスト向きの料理……悪くないと思いませんか」
日の入りは少し伸びたとはいえ、冬の落日は早い。夕方五時を回ってホテルのターミナルには温かい灯火が点いていた。
博士は車内に入ってから答える。
「精進料理なら、僕が行きつけの店に連れて行きましょうか。京野菜を使った懐石料理を出してくれます。菜食主義者にはいいと思いますよ」
「いいえ、もう私が店に予約を入れました。ここから車で三十分ほどかかりますが、話しながら行きましょう」
ランカが中に入ると外から扉を閉められた。車内から外を見たら、うっすらと曇りガラスの向こうに彼が立っているのが見えた。黒服の男たちの狭間に立ち、こちらをじっと見ている。ランカと目が合うとよりはっきりした造詣が見えた。
全身に毛と鱗が生えていること以外は普通の男性と同じだった。
顔の骨格は現生人類と同じく端正で、猿のような眼窩の突出しはない。少しほりの深い顔つきだが、柔和に見える。女性のような優しい目つきである。博士から「彼」と聞いていなければ、女性だと思ったかもしれない。体つきも少年のように柔らかく、発達途中の未成年を思わせる。
体毛は半透明の羽毛で覆われているので、裸でそこに立っていると思ってしまう。体の輪郭がぼやけた感じで光をまとっているように見える。鱗は腹部から背部にかけて鱗の形が大きく変形していく。人の皮膚組織に体毛が散らばっているのと同じように、鱗の間に体毛が生えている。一見すると普通の人間と同じだ。
人と大きく異なるのは羽があることと、しっぽが生えていることだろう。大きく揺らぐしっぽが体に巻きついている。それは六角形の鱗で覆われている。
陰部も足も毛で覆われているが、造詣がわからないほどではない。白い毛に色素はほとんどない。だが、怒りとともにその透明な毛に血液が流れて赤く見えるらしかった。今は落ち着いているのか、赤い色は下半身に流れている。その色のせいで、下腹部から下の造詣は見えにくい。下半身は赤い毛に覆われているが時間とともに、その色は薄れていく。
ランカはその生物に意識を合わせて、ガラスに手をついた。羽が大きく広がり、ランカに向かって輪状に並ぶ。精進料理とは肉を使わずに食べる料理のこと。その料理の姿を思い浮かべたら、目の前で彼がほっとした顔になる。
太陽のような輝きを感じた。かすかに目を細めた時、車が動き出すのを感じた。脳内にイメージがわく。
――午後二十二時までに帰ってくるように。