ヒロインになれなかった私は、今日も旦那様のためにお茶を淹れる
「司法の判断を待つまでもない。ラプンツェル・リリシャ。公子たる私が、貴様は極刑に値すると判断したのだ」
どうしてこんなことになっているのか、よくわからなかった。
だって今日は私の社交界デビューの日だ。十七歳を迎えて初めて都に足を踏み入れ、やっと社交界にデビューして──そして、あの乙女ゲームが始まるのだと、あれほど浮かれていたのが嘘のよう。
いつか出会えると楽しみにしていた攻略対象の一人である公子様は、侮蔑と嫌悪の混じった目で私を見ている。たった今初めて顔を合わせたというのに。
「衛兵、この悪女を今すぐ捕らえろ!」
公子様が私を指差して命じる。彼の傍らには、綺麗な令嬢が立っていた。知らない人だ。あんな女性、ゲームには登場していなかった。
「お待ちください! これは何かの間違いではありませんか!? 娘は今日初めて都に来たのです、そのような大それた悪事を働けるはずがございません!」
「なにとぞ、なにとぞお考え直しを!」
いつだって優しいお養父様とお養母様が膝をついて懇願する。でも、その訴えが聞き届けられることはなかった。
「おとうさま、おかあさま……!」
私達一家はたちどころに捕らえられた。
誰か助けて。救いを求めて周囲を見渡す。その時、あの令嬢と目が合った。勝ち誇った顔で私を見ていた。
*
私はイングレイド公国の片隅にある農村で育った孤児で、リリシャ男爵家に養女として引き取られた。
リリシャ男爵は領主様に仕える兵士で、その武勲と勇気を称えられて一代限りの爵位を与えられた人だった。
イングレイド公国では、土地を持たない一代貴族はそう珍しい存在でもない。石を投げればお貴族様に当たると揶揄されているぐらいだ。小さな国土とそれに見合った少ない国民で成り立つ、たいして豊かでもない国。褒美としてあげられるのが地位ぐらいしかなかったから、名ばかりの称号を持つ貴族だけが増えるというわけだ。だからこの国では、男爵なんて平民に毛が生えた程度の存在でしかなかった。
リリシャ男爵夫妻は仲が良かったけれど、子供に恵まれなかった。
そんな中、たまたま孤児院で見かけたのが、夫人と同じピンク色の髪の女の子、つまり私だ。本物の貴族ではないし、継がせるような土地や名誉もないので、二人は私を迎え入れてくれた。
私には前世の記憶がある。だから私は、ここが乙女ゲームの世界であると知っていた。ヒロインの名は『ラプンツェル・リリシャ』。孤児でありながらリリシャ男爵家に引き取られ、愛されて育った可憐な子。
そして私は前世の記憶通り、リリシャ男爵夫妻の養女になった。幼い私は、この記憶が真実であると確信した。
十七歳になったら、私は社交界にデビューするために初めて都を訪れる。そこで六人の素敵な貴公子と出会い、彼らの内の誰か一人と仲を深めていく……そういう未来が待っていると、愚かにも信じていた。
ところが実際はどうだ。私は反逆罪を犯した罪人として牢に繋がれている。
お養母様が毎晩梳いてくださった自慢のピンクの髪は雑に切られ、お養父様が用意してくださった可愛いドレスは乱暴に脱がされて罪人らしい貫頭衣を着せられて。最悪の社交界デビューだ。
私は悪いことなんて何もしていない。
いつか攻略対象と出会い、恋した人と結ばれるため、私は努力していた。推し活と恋愛は違う。実際に誰のことを好きになるか、まだ誰とも会ったことのない私にはわからなかった。
本物の貴族に嫁ぐかもしれないから淑女らしいマナーや教養を。平民に嫁ぐかもしれないから家事を。学者に嫁ぐかもしれないから知識を。誰に嫁いでもいいように、笑顔と愛嬌を。私はヒロインの──『ラプンツェル・リリシャ』の名を穢したくなかったから、誰よりヒロインらしくありたかった。
だから私は、素敵な誰かに私のことを好きになってもらえるように、一生懸命頑張ったのに。全部、全部無駄だった。
きらびやかなシャンデリアの明かりも、優雅なワルツの音楽も、じめじめした地下牢には存在しない。
一緒に捕まってしまったお養父様とお養母様は無事だろうか。私のように鎖につながれて、罪人扱いを受けていないといいのだけれど。
時折牢番から向けられる、下卑た視線が恐ろしい。私は牢の中にあった薄汚い布にくるまり、膝を抱えて震えていた。牢獄にあったのは、汚物を入れる桶と、この布だけだ。
もし牢番に襲われようものなら、お養父様仕込みの護身術で撃退してやる。眠気も空腹も無視してずっと神経を尖らせていると、不意に規則的なヒールの音ともったいぶってステッキを突くような音が響いた。誰かが地下牢の通路を歩いているらしい。
かつん、かつん。足音は私の牢屋の前で止まった。
履いているのはヒールのあるブーツだけど、男性のようだ。二十代前半ぐらいの、美しい人だった。深い青色の髪を肩で一つ結びにして垂らしている。小さな翼のような飾りがついた銀のモノクルと、立派な装飾の施されたステッキは、目利きに疎い私からしても高級品のように見えた。
「何者だ?」
牢番がいぶかしげに尋ねる。青年は答えず、牢番を邪魔そうにステッキで押しのけた。牢番は声を荒げて抗議をするが、青年は取り合わない。
「やァ小娘。貴様が先日の舞踏会で捕らえられた稀代の悪女、ラプンツェル・リリシャで相違ないかね?」
「……その名前は確かに私のものですが、悪女という評価に関しましては否定させてください」
「ははッ。結構、結構。いい目をしているじゃァないか。うん、美しい」
青年は立ったまま、鉄格子の隙間にステッキを通す。私に突きつけられたステッキの先端が小さく揺れた。
「気に入ったよ小娘。己の無実を証明したいというのなら、この杖に触れ給え」
「何を言って……」
「貴様に機会を与えてやると言っているのさ。さァ、どうする? 大手を振ってこの牢獄を出るか、このまま処刑の日を待つか」
彼が何者で、一体何を言っているのか。まったくわからない。けれど私は、気づいたらステッキを握っていた。
「あの……おとうさまとおかあさまのことも、助けてはもらえませんか?」
「なんという強欲! 善き哉、善き哉!」
それが私と、この奇妙な青年──ディーノ様の出会いだった。
*
「遅い。我輩がベルを鳴らしたら、五秒以内に駆けつけ給えよ」
「五秒は難しいですね、さすがに」
私は薄汚れた貫頭衣ではなく、上品なドレスを着ていた。ディーノと名乗った彼が用意してくれたものだ。
短くざっくり切られた髪を隠すため、頭をすっぽり覆えるスカーフもいただいた。上質なもののようで、触り心地がとてもいい。湯浴みもさせてもらえたので、さっぱりした気分だ。
「我輩への口答えは許していないのだがね。まァいい、よく似合っているじゃァないか」
ディーノ様は品定めでもするように、私を頭の先から爪の先までじろじろ見た。
ディーノ様が帰ってから、私は地下牢から出された。誰も理由は教えてくれない。そして私は、迎えに来たディーノ様と一緒に、彼が住んでいるというアパートの一室に連れてこられた。
そこにはお養父様とお養母様がいて、私達は涙ながらに再会を喜んだ。お二人の言うことには、どうやらリリシャ家は爵位を取り上げられてしまったらしい。平民に逆戻りというわけだ。もともとお二人とも貴族の立場に執着はなかったので気にしていないそうだけど、原因が私だと思うと胸が痛んだ。
ディーノ様は私達にこう言った。「貴様らの命は我輩が握っている。恩人たる我輩に感謝し、我輩によく尽くすように」と。そこでお養父様はディーノ様の護衛、私とお養母様はメイドとして働くことにした。
「お茶を淹れ給え」
居間の机にかじりついて何かを書いていたディーノ様は、ペンを置いてそう命じる。私は一礼し、台所に向かった。
このアパートは手狭だ。寝室と台所付きの居間、それから浴室しかない。普通の庶民の家族が暮らすような家だ。住み込みの使用人が暮らせるスペースはない。
だから私達一家に対してディーノ様は、空いていた向かいの部屋を借りてやったからそこを寝泊りに使えと言った。変な人だ。偉そうなのに狭い家に住んでいることも、すぐに他の部屋を借りられたことも、公子様の名において罪人にされた私をあっさりと釈放できたことも。
台所に立ってしばらく棚を物色し、見つけたハーブティーを淹れる。どうぞ、とディーノ様に差し出すと、ディーノ様は一息に飲み干してしまった。熱くないのだろうか。
「ラプンツェル。貴様の仕事を説明しよう。貴様はこれから我輩のためにお茶を淹れ、我輩の話し相手になり給え」
ティーカップを差し出されたので、慌てて二杯目を注ぐ。
「それだけでいいのですか?」
「十分だとも」
そしてディーノ様は、手元にあった用紙を見せた。ほぼ真っ白だ。
「我輩は文化的な芸術をこよなく愛しているのだ。文学、演劇、音楽、絵画、すべて我輩の魂の糧であり、時には我輩自身が筆を取ることもある。しかし常に言葉が湧いてくるとは限らない。そこで貴様の出番なのさ、冤罪で投獄された哀れな乙女よ」
ステッキを私に突き付けた時のように、今度はペンの先が突き付けられた。自信に満ちた彼の美しい顔に、思わず目が釘付けになる。
「我輩こそが至高の劇作家にして小説家、そして新聞記者なのだよ。その我輩に、貴様の身に降りかかった不幸を教え給え。我輩はそれを美しき悲劇として民衆に知らしめよう」
「でも、私、何が起こったのかほとんどわかっていなくて」
「構わないとも。肉付けと裏取りのための取材はすでにしてある。貴様はただ、“イングレイドの聖女”に目を付けられた己がいかに不運だったかを語るだけでいいのだよ」
イングレイドの聖女。初めて聞く通り名だ。
舞踏会で見た、あの女の笑みが脳裏をよぎる。
まるで公子様は自分のものだとでも言いたげに彼に寄り添っていた、ゲームに存在しないはずの女。
もしも私がヒロインとして登場するよりも前に、別の“ヒロイン”がいたとしたら?
──ゲームが始まる前にはもう、勝負はついていた?
「ディーノ様は、何があったのかご存知なのですね」
「もちろんだとも。齢十七の若さで国政を一手に担う“イングレイドの聖女”、侯爵令嬢エレオノーラ。公子の婚約者でもあるこの小娘は、国に災いを招く魔女の出現を予言した」
婚約者? 公子様に?
ますますおかしい。前世の記憶だと、公子様にそんな相手はいなかった。現実とゲームは違うということだろうか。
「それが貴様だ、ラプンツェル。貴様は高貴な男達をたぶらかし、金や高価な宝石を貢がせた。貴様にほんの一瞬笑いかけてもらうためだけに国宝や国家予算を横領した者もいるぐらいだ」
「はぁ? 私、そんなことしていません!」
「そうだろう、そうだろう。しかし事実なのさ。エレオノーラがつけていた帳簿と、城の財産目録が合わないそうだ。使途不明の不審な予算の使い込みも見つかった。エレオノーラの家の者が見つけた下手人は、貴様にそそのかされたと証言したそうだ。まァ、この下手人は表には出てきていないわけだが」
「馬鹿げてる。帳簿ですって? 城の正式なお役人でもない貴族令嬢がつけた記録に、一体どこまでの証拠能力があるんですか」
「貴様の憤りは実にもっともだろう。だが、事実として、国の宝は消え、国の金が消えているのだよ。はてさて、これらはどこに消えてしまったのだろうなァ」
ディーノ様は楽しげに肩を震わせる。それを見て、彼の言わんとすることがやっとわかった。
私はエレオノーラに罪を被せられたんだ。横領はエレオノーラがやったに違いない。
じゃあ、どうして私が標的にされたの?
決まってる。私がヒロインだったからだ。
自分の婚約者である公子様を狙いかねない邪魔者だと判断された。エレオノーラが私を知っている理由なんて一つしかない。
つまり──エレオノーラも転生者。あのゲームを知っていて、都で生まれた身分の高い令嬢だったから、私より先に公子様と知り合えた。
「傾国の悪女と言われた無辜の少女よ。真実を白日の下に晒して巨悪を挫かんとする我輩の目論見、理解していただけたかね?」
「はい、ディーノ様。私……私、許せない。たいして調べもしないで私を罪人扱いして、今ものうのうと笑っている人達が……!」
「その意気やよし。権力に物を言わせて思い上がっている不遜な人間に、思い知らせてやろうではないか!」
*
私は今日もディーノ様のためにお茶を淹れる。
今日は遠い地方の珍しい茶葉。ミルクティーにするとおいしいと、ディーノ様が言っていた。だから少しのお湯とたっぷりのミルクで茶葉を火加減に注意しながら煮出し、温めておいた茶漉しを使って鍋の中身をティーポットに移す。
この家はへんてこだ。備え付けらしい安っぽい家具ばかりなのに、たまにとんでもなく高級そうな本や、異国の珍しい食べ物が出てくる。この国では見たことのないようなものばかり。「友人の金持ち商人にもらった」とディーノ様は言っていたけど、一体どんなツテなんだろうか。
「ディーノ様、お茶のお時間です」
これは休憩の合図だ。ペンを置いたディーノ様の前に、ティーカップと焼き菓子を置く。この焼き菓子は、最近この家に届いたものだ。贈り主はラウル・アヴァーロ、この人がディーノ様のご友人の大商人らしい。
「あァ、いい匂いじゃァないか。それにこれは、ラウルがくれた菓子だね。返礼を考えなければ。しかしこの国には、目利きの彼が気に入りそうなものはないからなァ」
「目が肥えている方への贈り物は難しいですからね。そうだ、絵葉書でも送られたらいかがですか? ご友人の方も、ディーノ様の近況を知りたいのではないでしょうか」
「ははッ、名案だ。それでは絵葉書を買いに、午後から街へ行くとするか。貴様も来るかい?」
「よろしいのですか?」
「市井には貴様の似顔絵など出回っていないさ。第一、貴様は正当な手段で釈放されている。兵士に見つかったところで手出しはされないとも」
ディーノ様はそう言って笑い、お茶とお菓子に手を付けた。お菓子の皿を私のほうにも押し出してくれる。私もお相伴にあずかることにして、自分用にティーカップを持ってきた。
一体どうやって私を釈放し、お養父様とお養母様まで助け出してくれたのか、私はまだこの人に聞けていない。聞こうとしても、「裁判なき判決などどうとでもできるのさ」としか言われず、はぐらかされてしまうからだ。
髪を見られないようにスカーフをしっかり巻き、ディーノ様に付き従って街に出た。乱雑に刈られたところはお養母様が切りそろえてくれたけど、やっぱりどうしても恥ずかしい。
都の空気を味わうのは初めてだ。社交界デビューのお披露目のための支度で忙しかったし、観光なんてする間もなく投獄されてしまったから。
「両親に土産物でも買っていくかね?」
「そうしたいのはやまやまですが、所持金がありませんので……」
「心外だなァ。この我輩を、女に財布を出させるような狭量な男とお思いかい?」
「よ、よろしいのですか?」
「構わないとも。好きに選ぶがいいさ」
「ありがとうございます!」
「貴様も必要なものや欲しいものがあれば言い給えよ」
そう尋ねられたものの、特に思いつかない。肌着や日用品などはお養母様が用意してくれているし、食べ物はディーノ様が都合してくれた。お仕着せもディーノ様がくれる。メイドのお仕着せにしてはどれも上等なドレスだ。返答に詰まる私に、ディーノ様は少し考えるそぶりを見せた。
「であれば、思いついたらでいいとも。散策していれば妙案が浮かぶこともあるだろう」
本屋に行って、ディーノ様は絵葉書の束を買う。公国の自然や、近隣でよく見る動物の絵が描かれたものだ。
そして私は、ディーノ様のお言葉に甘え、お養父様とお養母様のために焼き立てのパンを買っていただいた。ふわふわで甘そうで、とってもおいしそうだったからだ。
「一つ思いつきました。帰る前に教会に寄ってもいいでしょうか」
教会の尖塔が見えて、ふと足が止まる。帰り道とは少しそれるから、ちょっとしたわがままとしては成立するだろう。
「へェ。敬虔な信徒だったのかね?」
「そういうわけではないのですが、人並みには祈りますよ。私が処刑されずにディーノ様に助けてもらえたのも、女神様のご加護かもしれませんから、一応お祈りしておこうと思って」
ゲームでは、宗教の話はほとんどされなかった。
でも、この世界に生まれてこの世界を現実のものとしてからは、礼拝や祈りが習慣のように身についていた。世界中の人が同じ神様を信じているのだからなおさらだ。
熱心に信じているわけではないけど、考え方や倫理観が自然と信仰に基づくものになっている。前世で言うところの、「いただきます」「ごちそうさまでした」と同じような感覚だ。
「結構、結構」
ディーノ様は何やら嬉しそうだ。案外信心深いのかもしれない。
「それに、エレオノーラは“イングレイドの聖女”なのでしょう? そんな女を引きずり降ろそうとするなんて、女神様のお許しをいただかないと」
「その必要はないがね。教会はエレオノーラに聖人認定など下していないのだから。箔を付けたくて勝手に周りがそう呼んでいるだけさ」
ディーノ様は言う。エレオノーラは公子様の婚約者という立場を利用して国政に口を出し、様々な施策や業務改革、果ては催しものの取り仕切りまで一人で行っているのだと。本人にしか読めない帳簿をつけたり、お茶会や食事会の席を整えたりで忙しいらしい。いいご身分だ。
大臣どころか役人ですらないのにあれこれとやりたい放題振る舞うなんて、小国だからこそできる荒業だろう。
なまじ結果を出しているものだから、国の上層部はこれを黙認して、エレオノーラに頼っているようだ。一度大事な決定をエレオノーラに任せてしまったせいで制度を魔改造され、エレオノーラ抜きでは回らなくなったとか。揃いも揃ってどうかしている。この国のお偉方には無能しかいないのかもしれない。
ただ、「年端もいかない小娘の思い付きで振り回されるのは大迷惑だ」と、実際に働く下の人間達からはかなりの不満が溜まっているそうだ。道理と領分を無視したエレオノーラの横紙破りなやり方は、随分と反感を買っているらしい。
「それに、エレオノーラ自身は女神の教えを重視していないようだ。聖地ルドで行われた聖餐式にイングレイド公爵一家が出席しなかったのは、エレオノーラがあれこれ理由を付けたからだという。聖地ルドに納める献上金も、エレオノーラが削らせたようだね」
「そんなことがあったのですか」
聖地ルド。たくさんの国が国教と定める、聖泉教の総本山がある国だ。この国でも聖泉教の女神様を信仰していた。
「そのくせ、エレオノーラは自身を“女神の化身”と名乗っているらしい。教会はそんな存在を認めていないというのになァ。新たな宗教を誕生させるなど、聖泉教への挑戦に他ならない。取るに足らない小さな箱庭での児戯といえども見過ごせないとも」
「聖女の次は女神様ですか。大きく出ましたね」
「実は順番が逆なのだよ。この小娘は女神の化身を自認し、予言の力でもって公爵一家に己を売り込んだ。そして公子の婚約者の座を勝ち取ったのさ。婚約者になってからはますます増長し、周囲から聖女ともてはやされるようになったというわけだ。教会の再三の抗議にも構わずにね」
「……エレオノーラは、本当に予言の力を持っているわけではないと思います」
少し迷ったけど、ディーノ様に隠し事はしたくなかった。
「ディーノ様は、生まれ変わりを信じますか? 別の世界で生きた記憶を持ったまま、この世界に転生するということを」
「ふむ、興味深い問いだね。しかし聖書には、死した命が新たな命を得て再び大地に立つこともあると記されている。ゆえに我輩の答えは是だとも」
「……エレオノーラはたぶん転生者です。この世界の未来を知っている。そして私も。でも、私が知っていることは、全部エレオノーラに先回りされてしまいました。エレオノーラにとって、同じ転生者の私は邪魔者なんでしょう」
エレオノーラが女神の化身を自称できるのは、乙女ゲームのシナリオを知っているからだ。
私より早く都の攻略対象達に接触できたあの女は、幼いころの攻略対象達に起きた悲劇もなかったことにしたのかもしれない。シナリオの終盤で起こるイベントの、この国の宗主国である隣の大国とのいざこざも解決してしまったのかも。
「なるほど。つまり彼女は、真の聖女を貶めたかったがゆえに貴様への罪状をでっち上げたのか」
ディーノ様は私の荒唐無稽な話をあっさりと受け入れてくれた。それがとても嬉しい。
ディーノ様は教会の扉を押し開け、祭壇のところに立っていた司祭様に声をかける。
「やァ、挨拶が遅れたね。我輩こそがディーノ・アジタトーレだ、嘆く民の声に応じて馳せ参じた。ルドに書状を送ったのは貴様かな?」
ディーノ様の本名、初めて聞いた。
その名前を聞いた司祭様はさっと顔色を変え、駆け寄ってきて膝をついた。
「まさか閣下がいらっしゃるとは! ありがたき幸せにございます!」
「顔を上げ給えよ。事情はこちらでも把握している。いずれ救済は成るだろう」
感涙にむせぶ司祭様をあしらい、ディーノ様は私を長椅子に座らせた。
「もしかしてディーノ様って、教会の偉い人なんですか?」
「あァ、偉いとも。我輩はとても尊い存在さ。なにせ大天使の末裔なのだからね」
ディーノ様はからからと笑った。女神様には七体の大天使が仕えているという。聖泉教の上層部がその末裔を自称しているというのは知識として知っていた。
「驚かないのかね?」
「私だって異世界からの転生者ですから。ディーノ様がこんな話を信じてくれるなら、私もディーノ様のお話を信じます」
「物分かりがよくてよろしい。我輩の一族は、布教と言論活動を担っているのさ。ゆえに我輩は世界各地を旅して回り、女神の教えを知らしめている。女神を穢す者があれば、その是非を民意に問うのも我輩の仕事だ」
そしてディーノ様は私をまっすぐに見つめる。真剣な眼差しに、不覚にも胸がどきりとした。
「ラプンツェル。我が祖先、力と名誉を司りし大天使ルチルフェの名において誓おう。我輩はペンという力をもって、貴様の名誉を必ずや回復させる」
「ありがとうございます、ディーノ様……!」
目頭が熱くなる。ディーノ様はハンカチを貸してくれて、私が泣き止むまで待ってくれた。
*
最近国で流行っている小説があった。意地悪な魔女が姫のふりをして、王子を騙して結婚して国を乗っ取ろうとする話だ。
宮廷のことを面白おかしく風刺する雑誌や新聞も、たくさんの人が読んでいる。そこには、私の社交界デビューの日に起きた事件について書かれていた。公子様が婚約者の証言を信じ込んで、無実の令嬢を裁判もなしに死刑にしようとした、と。
それだけじゃない。エレオノーラが国政を私物化し、聖泉教に反旗を翻して自分こそが新しい神になろうとしているということも書かれている。
それはおかしいと、誰もが口を揃えて話し合っていた。
偉い人の気分で命が左右されるなんてたまったものじゃない。偉い人の婚約者という理由で国を好き勝手にされたら、自分達の生活はどうなるんだろう。
国中の人々が、公爵家とエレオノーラに疑念を向けている。もう、誰も彼らを国主だなんて認めていない。
そして私は今日、ディーノ様と一緒に城に来た。城への召喚状が届いたからだ。
お養父様とお養母様も一緒だ。謁見の間には公子様とエレオノーラがいて、にやにやと笑う本物の貴族達が私達を囲んでいる。
「貴様がこの不埒な小説を書き、エレオノーラに対する中傷を出版社に送りつけた不届き者だな」
「この国に裁判所は存在しないのかね?」
怒り心頭といった様子の公子様を前にしても、ディーノ様は常の態度を崩さない。
「裁判所など不要だ! 公爵家を侮辱した罪は、公爵家の裁量で沙汰を下す!」
「なるほど。では女神を侮辱した罪は、教会の名において沙汰を下してよろしいか?」
公子の後ろに控えるエレオノーラを一瞥して、ディーノ様は一通の書状を取り出す。
「大司教ディーノ・アジタトーレが教皇勅書を読み上げよう。教皇パオロ・ベスティアの名において、次に名を挙げる者は破門とする。この者らは、今後一切女神の加護を賜るに能わず」
ディーノ様が続けて読み上げた名前は公爵様の一族とエレオノーラの一族のものだった。当然、エレオノーラと公子様も対象だ。貴族達の顔色がさっと変わった。一方で、公子様は強気な態度を崩さない。
「はっ! 女神の加護だと? そんなもの、エレオノーラの叡智の前には不要だ! 神などいなくても、我が国は栄えていける!」
「また、国政をたった一人が担うイングレイド公国は国家として機能していないと判断し、土地、民、財産、あらゆるすべてを宗主国たるイドルレニ王国に返還することを命じる」
公子様の宣言を無視して、ディーノ様は淡々と言葉を続けた。それを聞いてエレオノーラが嘲笑する。
「ふざけないでくださいな。そのような横暴に従う筋合いはございません」
「貴様の意見など聞いていない。従うつもりがなくても、そうなるのだよ」
嘲笑に嘲笑を返し、ディーノ様は冷たく言い放つ。
「この勅書はすでにイドルレニ王国にも送られている。イングレイド公国は、イドルレニ王国から独立して主権を得た国家だろう? だというのに司法も行政もろくに機能しなくなり、国として破綻してしまったこの国の現状を、イドルレニ王国の首脳陣はたいそう憂いていたとも。喜んで再統一するそうだよ。道を違えた兄弟が一つに戻るのだ、貴様らも喜び給え」
その時、謁見の間の扉が開いた。現れたのは公爵夫妻だ。公子様が開いたこの断罪劇が思わぬ方向に転がっているから、誰かがお二人を呼びに行ったのかもしれない。息せき切らしたお二人は、ディーノ様を見てたちまち跪いた。
「どうかお許しを、大司教閣下! 破門などされては、我々は生きていけませぬ!」
その様子を見て、やっと公子様とエレオノーラは事の重大さに気づいたようだ。
「もう遅い。小娘ごときの口車に乗せられて、女神の微笑みを不要だと言ったのは貴様らだろう?」
縋りつく公爵夫妻を煩わしげにステッキで追い払い、ディーノ様はもったいぶった口調で続ける。
「しかし民はそれを望まなかった。我輩のしたためた告発状を読み、民は怒りに震えている。貴様らが特権を手放さずに醜くしがみつくというのなら、義憤に燃えた市民が立ち上がるだろうね」
そしてディーノ様は私の手を引き、舞台の中心に立たせる。
「貴様らは、ここにいるラプンツェルを覚えているかね? いきなり衆人環視の場で責め立てて、ろくな捜査も裁判もせず、死の罰を与えようとした少女だよ。そして貴様らは今日、我輩のことをろくに調べようともせず、同じように罰しようとした」
エレオノーラが私を睨みつけた。怖くはない。ディーノ様が隣にいるから。
「どうしてわたくしの邪魔をするの!?」
「なんのことでしょうか」
あの乙女ゲームに、エレオノーラなんていう令嬢は登場しない。でも、彼女はエレオノーラに転生した。
『ラプンツェル・リリシャ』になれなかった彼女はきっと、それでもヒロインになりたかったのだろう。
私より先に攻略対象と親しくなった。私より早く、国の危機を救った。それはいい。
でも、攻略対象達を奪いかねないからって、私のことを殺そうとするのはいくらなんでもやりすぎだ。
「貴方に国を動かすだけの力があったなら、まず私と事前に話し合うことぐらいはできたでしょうに」
公子様は自分の婚約者だから取らないで、と言ってくれるだけでよかった。そうすれば、同じ転生者として協力し合える未来もあったかもしれない。
「……っ、うるさい、うるさい! 衛兵、今すぐあの魔女と偽聖職者を切り捨てなさい!」
エレオノーラが髪を振り乱して叫ぶ。つまり、ここで私達を殺して何もかもをもみ消すつもりだ。もう遅いのに。
兵士の剣が私に迫る。それを防いだのはお養父様だった。あの舞踏会の時とは違って帯剣しているお養父様は、取り囲む兵士達をあっという間に切り伏せた。
「娘に手出しはさせないぞ」と周囲を睨むお養父様に、他の兵士はすっかり戦意を喪失してしまったらしい。貴族達も腰を抜かしている。
「素晴らしい腕前だなァ」
ディーノ様はのんきに拍手をしている。剣を向けられても一切動じていなかったということは、お養父様の腕をそれだけ信じていたのだろう。
「さて、これで貴様らの罪状が一つ増えたわけだ。異端者として火刑を望むなら、応じてやるのも吝かではないとも。我輩は慈悲深いのだから。破門された虫けら相手でも、最期の言葉ぐらいは聞いてやるさ」
高慢な笑みを浮かべながら、ディーノ様は沙汰を下した。
*
「祝言はいつがいいかね?」
「はい?」
お茶を注いでいた手元が狂いそうになる。呆ける私に、ディーノ様はもう一度繰り返した。
「だから、祝言はいつ挙げたいのか言って見給え」
祝言。結婚式のことだ。誰と誰の?
「もうこの国に用はない。近々この家も引き払ってここを発つのだから、そのまましばらく旅を続けるか、それとも聖地ルドに帰って祝言を挙げるか、貴様はどうしたいと聞いているのだよ」
「私、誰と結婚するんですか?」
「は?」
今度はディーノ様が呆ける番だった。
「言っただろう、我輩に尽くせと。貴様は我輩のためにお茶を淹れるのを了承したじゃァないか。それに、我輩が贈ったドレスを着ているだろう?」
「待ってください! どっ、どういうことです!?」
顔が真っ赤になる。だってその言い方だと、まるでディーノ様と結婚するみたいじゃないか。た、確かに、聖職者でも結婚はできるけれど……!
「我輩は貴様を気に入ったと言ったはずだが。嫁入り前の娘と同衾するわけにはいかないから、別に家を与えたのだよ?」
ディーノ様は怪訝そうな顔だ。
そういえば、使用人として働けとは一言も言われていない。私が勝手にそう解釈しただけで。
「貴様は我輩の誘いに乗って、杖に触れただろう」
「た、助けてくれると思ったからで……! あの状況で私に拒否権なんてありましたか!?」
「まさか、我輩に嫁ぐのが嫌だとでも?」
心底驚いた表情を見せるディーノ様。自分が拒否されるなんてみじんも思っていなかったのだろう。なんて傲慢な人だろうか。
「い……嫌だなんて、言ってませんけど……!」
──まあ、この強引な求婚を喜んでしまう私もたいがいだけど。




